前庭 6
見晴らし台の奥で、小石がひとつ、転がった。
ユキが振り向いた。台の奥は、岩肌に沿って、細い道がさらに上へ続いている。ここへ来てから、その道を通った者はいなかった。
道を、女がひとり、降りてきた。
小柄だった。背負ったリュックのほうが、本人より幅がありそうに見えた。下りの足取りに、迷いがない。足を置く石を、見てから選んでいるのではなかった。もう知っている石を、順に踏んでいた。
マリが、黙ってユキの半歩前へ出た。
アミは、腰を下ろした岩から立たなかった。首だけを、ゆっくり回した。
女は台に降り立つと、三人を順に見た。それから前庭へ目をやり、開いたままの本堂の戸のところで、目を一度だけ止めた。また、三人に戻った。
「こんにちは、稽古面白い?」
ユキが、膝の砂を払って立ち上がった。
「こんにちは。いえ、下で試合があったので・・・観てました」
「試合」
女は、それだけ繰り返した。驚いた顔ではなかった。
「山の上にも、こんな可愛い子がいたのねぇ」
アミが、岩に頬杖をついたまま言った。ユキが、横目でアミを見た。女は、笑って小さく頭を下げただけだった。
戸の奥で、足が止まった。
日の届かない板の間に、背中の形だけが、まだ残っていた。振り返りはしなかった。
「お前も入りたいなら、この二人を倒したら入れるぞ」
声は、またしても柔らかかった。誰に向けたのか、名前も、顎も、なかった。それでも、庭じゅうの目が、ランに集まった。
マリアの問いに答えたのは、問われたランではなかった。
テフニカの口が、開いたまま止まった。さっき太郎を鼻で笑った形が、口の端に残っている。顔の残りだけが、そこから置いていかれていた。
ハオハンは、目を見開いた。両脇に下ろしていた手が、指の先まで、固くなった。
二人とも、ラカのほうは見なかった。この二人、の中に、ラカの数は入っていなかった。
暗がりの背中が、首の後ろを、もう一度だけ掻いた。
「負けたら、ラカと並んで、石段の下まで降りな。降り方は、こっちで決めるからね」
叱る声ではなかった。明日の天気でも話すような声だった。
門下生の誰かが、喉を鳴らした。石段の下へ戻された者が、次の朝も登ってくるのかどうか。前庭の誰も、それを知らなかった。
自分の名が出たところで、ラカの肩が、ひとつ揺れた。それきりだった。
背中が、奥へ溶けた。板の軋みが二つ、三つと遠ざかり、それも聞こえなくなった。戸は、やはり開いたままだった。
「・・・二人がかりでいいってさ。優しいじゃん、ジャヤさん」
テフニカが、開いた戸に向かって言った。笑おうとした口の端が、途中で、引きつった。
「二人で掛かって負けるなら、降ろされても文句は言えん」
ハオハンは、戸を見なかった。ランを見ていた。
テフニカが、岩から腰を上げた。肩を回し、首を左右に倒す。軽い仕草のわりに、時間をかけていた。
ハオハンは、ただ歩いた。組み直さなかった腕を下げたまま、まっすぐに。
二人は、上がり口の段の前で並んだ。太郎が登っていった段と、ランとのあいだを、二つの体が塞いだ。
ランは、二人の顔を見なかった。二人の肩と肩のあいだから、開いた戸の暗がりを見ていた。
ランの肩から、何かが抜けた。
さっきのラカとは、逆の抜け方だった。
前庭で、二人の男が、ひとりの前に並んだ。
見晴らし台からは、そこまでしか見えなかった。声は、届かなかった。
女は、リュックの肩紐を、親指で持ち直した。
「興味あるなら、階段降りてもっと近くで見に行きましょ」
返事を待たずに、女は台の端へ歩き出した。本堂の上がり口の脇へ降りていく、石段の下り口のほうへ。
「話が早いわねぇ」
アミが、ようやく岩から立った。
ユキは、マリを見た。マリは、小さく頷いた。
女の背中のリュックが、石段の一段目へ沈んだ。
アミが続き、ユキが続き、マリが最後に続いた。
ジャヤが、奥の大広間へ戻ってきた。
壁際に並んで座った門下生の背筋が、端から順に伸びた。誰も振り向かなかった。振り向かなくても、誰が戻ったのかは、全員が知っていた。
大広間は、外から見たより奥行きがあった。柱が二列に並び、そのあいだの板は、素足で磨かれて鈍く光っている。
上座には、マシフが座っていた。座っているだけで、背後の板壁が半分隠れた。
柱の一本に、ウフルが肩を預けていた。片足の甲を、もう片方の踵に乗せている。立っているのか、寄りかかって休んでいるのか、どちらとも決めていない立ち方だった。
ジャヤは真ん中を素通りし、上座の手前で止まった。
「待たせたね」




