前庭 5
鼻血が、口に流れ込んだ。鉄の味がして、続きは、喉の奥へ戻っていった。
マリアは、あたりを見回していた。声の主は、本堂の前の二人でもない。
リョクシだけが、ラカを見ていなかった。本堂のほうを、見ていた。
本堂のほうで、板が軋んだ。続いて、喉の奥で笑うような声がした。
庭じゅうの首が、いっせいに、本堂へ回った。太郎の首だけが、遅れた。張り手を受けた側の筋が、固まっていた。
本堂の上がり口に、男が一人、立っていた。
柱に肩を預け、片手で、首の後ろを掻いている。地面から見上げる太郎の目には、先に足が入った。素足の指が、板の縁を掴んでいた。踏んでいるのではなく、掴んでいた。
いつからそこにいたのか、庭の誰も見ていなかった。見ていなかったのに、男のほうは、庭の一部始終を見終えた顔をしていた。
マリアが顔を上げたときには、リョクシの目は、もうそこに着いていた。さっき左右を見たとき、あの段に人はいなかった。そこまでは、確かだった。
ランの首の後ろが、ちりちりと粟立った。産毛を一本ずつ、逆向きに撫でられていくようだった。ランは、体ごと本堂へ向き直った。
「・・・ジャヤ」
ハオハンが、低く言った。ほどいた腕を、組み直しもせず、両脇に下ろしていた。
テフニカは、口を開きかけて、閉じた。
門下生たちが、組んでいた手を慌ててほどいた。襟を握られていた者は、握られたまま、背筋だけを伸ばした。
太郎は、その名を、口の中で一度だけ転がした。血の味と一緒に。
名前だということだけは、マリアにも分かった。
「・・・誰だ、あれ」
誰にともなく訊いた。答えは、なかった。それで、十分だった。
ハヤトが言っていた。上には、まだ何人もいる。マリアは、その先を思い出しかけて、やめた。
ジャヤは、柱から肩を離さなかった。顎だけを、段の下へしゃくった。
「怖いよ! 負けることは。自分が死んでしまうからね」
声は、柔らかかった。首を掻く手とも、人を顎で指す仕草とも、噛み合わない柔らかさだった。叱るのでもなく、笑うのでもない。
門下生の何人かが、自分が言われたかのように、目を伏せた。
ラカの肩から、力が抜けた。
踵の下の砂が、掘れるのをやめた。宙に残っていた腕が、落ちた。長い腕は膝の横まで垂れ、そこで、ぶらりと揺れた。拳だけが、握られたまま、ほどけなかった。
踏み込んでいた足が、半歩、下がった。下げたのは、ラカではなく、膝だった。
顔から、さっきの赤みが、すっかり引いていた。頬の下が、急にこけたように見えた。
太郎の両腕に、しびれが戻ってきた。ずっとあったのを、今、思い出しただけだった。
「そこの小兵は中に上がって、ヨシ!!」
ジャヤは、首をひとつ傾けて、本堂の奥を示した。もう、ラカのほうを見ていなかった。
庭が、ひと呼吸ぶん、遅れた。
「・・・上がった」
「小兵が、中に」
「ジャヤさんが、通した」
呟きが、門下生の口から、ばらばらに漏れた。誰も、それ以上を続けなかった。声を大きくすれば、本堂の縁に届く。届けば、次に顎でしゃくられるのは自分かもしれない。
本堂の上がり口へ誰を上げるかは、前庭の三人が決めるのではない。三人の腕は、門を越えてきた者を殴り、振り落とすためにある。拾い上げるのは、本堂の縁から庭を見下ろす、上の四人のうちのひとりの目だった。その目に留まらなかった者は、石段へ戻される。戻された者が、次の朝も石段を登ってくるのかどうか、前庭の誰も数えていなかった。
ハオハンは、ラカの横顔を、一度だけ見た。何も言わなかった。
テフニカは肩をすくめ、膝の笑っている太郎を見て、鼻で笑った。
太郎は、すぐには動かなかった。
小兵、と言われて、庭を見回した。門下生の頭。ランたちの頭。どれも、自分より高い。
「・・・わしか」
ランが、庭の右手から歩いてきた。太郎の横で止まり、手は、貸さなかった。
上がり口の男を見たまま、太郎の背中の、砂のついたところを、拳で一度だけ押した。
「行けよ」
太郎は、砂に拳を突いた。膝が、今度は半分だけ、折れなかった。もう片方の手を自分の腿に着き、押し上げる。
手の甲で鼻をこすると、血が頬へ伸びた。
立ち上がって、太郎は、ラカのほうへ向き直った。頭を、下げた。
ラカは、本堂を見ていた。こちらは、見なかった。
太郎は頭を上げ、上がり口へ歩き出した。乾ききらない自分の血の点を、ひとつ、踏んだ。
上がり口の男は、太郎が段の下に着くのを待たなかった。柱から肩を離し、背を向ける。素足が、日の届かない板の間へ沈んでいった。戸は、開いたままだった。
「・・・太郎だけ、なのか」
マリアが言った。それから、ランの横顔に向けて、言い直した。
「あんたは、いいのか」
ランは、答えなかった。




