前庭 4
空が、高かった。
ラカは、仰向けのまま、それを見ていた。
背中の砂が、一粒ずつ、肌にめり込んでくる。肺から抜けた空気が、戻ってこない。吸おうとするたびに、胸の上で、見えない掌に押し返される。耳の奥で、低い音が鳴っていた。
長い腕が、両脇に投げ出されていた。掌を上に向けたまま、指だけが、時おり動く。何かを掴もうとするのでもなく、ただ、動いた。
庭が、静かだった。
ついさっきまで左手で鳴っていた、砂を蹴る音も、組み合う者の息も、ひとつも聞こえない。門下生たちは、相手の襟を握ったまま、上がり口の前の、倒れた男を見ていた。
「・・・」
門下生の一人が、唾を飲み込んだ。その音だけが、やけに大きく響いた。
太郎は、ラカの足のほうで、膝をついていた。
両手が、開かない。指が、ラカの腰を抱えていたときの形のまま、曲がって固まっている。肘から先に、細かい砂を詰め込まれたようなしびれがあった。
鼻の奥から、温かいものが下りてくる。唇を越え、顎の先で玉になり、砂に落ちた。落ちたところだけ、砂の色が黒く沈む。
目の高さに、ラカの足の裏があった。その向こうで、胸が上下している。
庭の右手の端から見ると、上がり口の前には、塊が二つあった。
仰向けの大きいのと、膝をついた小さいの。
「太郎」
マリアが、一歩出かけた。リョクシは、動かなかった。声だけが、その一歩を止めた。
「待つといい。今、駆け寄れば、彼の勝ちを、きみたちが取り上げることになる」
「勝ち、だと。血だらけじゃないか」
「それでも、勝ちだよ」
ランは、太郎を見ていなかった。仰向けの男の顔を見ていた。目は、開いている。開いたまま、空のほうを向いている。瞬きが、ない。
「・・・あいつ、何も見てねぇ」
握った右の拳は、さっきからほどけていなかった。爪が掌の肉に食い込み、そこだけ、脈を打っていた。
「いつまで寝てんのさ、ラカ。砂、背中に入るじゃん」
本堂の前から、気の抜けた声がした。テフニカだった。
ラカの瞼が、一度閉じて、開いた。
空が、ただの空に戻った。背中の砂が、急に、冷たくなった。
「戻った」
ランが、それだけ言った。
「ラカさんが・・・倒された・・・」
「嘘だろ、あの小さいのが」
「見たか、今の。足、浮いてたぞ」
ざわめきが、さざ波のように、庭の左手から渡ってくる。太郎を石段へ投げ込みに駆け寄りかけていた門下生が、真っ先に目を逸らした。
ラカの指が、砂を掴んだ。
握った砂が、指の間からこぼれる。握り直す。また、こぼれる。
「受け身を、取らなかったね」
庭の右手で、リョクシが言った。
「何だ」
「取れたはずだよ。あの背丈なら、投げられ慣れてもいる」
リョクシは、そこで口を閉じた。続きは、なかった。
マリアは、続きを待たなかった。
(笑ってやがる)
誰も、笑ってなどいなかった。が。耳に入る囁きのひとつひとつが、ラカの中で、笑い声に変わっていった。
(絵になるってか。笑わせんな)
奥歯が、軋んだ。拳の中で、砂が鳴った。
太郎は、立とうとした。右足に、力を込める。膝が、言うことを聞かない。濡れた紙のように、また折れた。
両腕は、だらりと下がったままだった。持ち上げようとして、肩だけが動く。肘から先が、ついてこない。
ラカは、跳ね起きた。
背中の砂が、いっぺんに落ちた。払いもしなかった。右の拳は、握ったままだった。
「まだ終わっちゃ、いねぇ」
声が、割れていた。
踏み込んだ足元で、砂が大きく散った。
長い腕が、伸びる。最初の一発と、同じ軌道だった。
違ったのは、腰だった。腰が、腕より先に、前へ出ていた。
太郎は、腕を上げなかった。上がらなかった。
代わりに、両の拳を砂に着いた。腰を落とし、顎を引く。仕切りの形だった。
逃げる気は、なかった。が。受ける腕も、もう、なかった。当たるなら、頭で当たる。
そうして、来る男を、下から見た。
マリアの目が、本堂の前へ走った。ハオハンが、組んでいた腕をほどき、一歩、出かけていた。間に合う距離ではなかった。テフニカは、片方の眉を上げただけだった。
「怖いよね!」
ラカの拳が、止まった。
太郎の鼻先、指二本ぶん手前だった。拳が運んできた風が、太郎の前髪を、ひと筋だけ揺らした。
止めたのではなかった。止まった。
腕は伸びきらないまま、宙に残っている。肩も、踏み込んだ足も、そのままの形で動かない。動かそうとして、どこへ力を入れればいいのか、体のほうが分からなくなっていた。
腰だけが、じりじりと、後ろへ戻っていく。
(怖い、だと)
その先が、続かなかった。
こめかみを、汗がひと筋、這い下りた。拳の先が、わずかに震えていた。
悲鳴なら、いくらでも聞いてきた。が。今の声は、そのどれでもなかった。
ラカは、固まっていた。
太郎は、振り向かなかった。声がどこからしたのかも、分からなかった。
目の高さに、ラカの腰があった。
爪先は太郎へ向いているのに、腰だけが、踵の上まで戻ってきている。踵の下で、砂が、後ろへ掘れていた。




