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深山幽谷  作者: 真亭甘
45/54

前庭 4

空が、高かった。



ラカは、仰向けのまま、それを見ていた。


背中の砂が、一粒ずつ、肌にめり込んでくる。肺から抜けた空気が、戻ってこない。吸おうとするたびに、胸の上で、見えない掌に押し返される。耳の奥で、低い音が鳴っていた。

長い腕が、両脇に投げ出されていた。掌を上に向けたまま、指だけが、時おり動く。何かを掴もうとするのでもなく、ただ、動いた。


庭が、静かだった。

ついさっきまで左手で鳴っていた、砂を蹴る音も、組み合う者の息も、ひとつも聞こえない。門下生たちは、相手の襟を握ったまま、上がり口の前の、倒れた男を見ていた。



「・・・」



門下生の一人が、唾を飲み込んだ。その音だけが、やけに大きく響いた。


太郎は、ラカの足のほうで、膝をついていた。

両手が、開かない。指が、ラカの腰を抱えていたときの形のまま、曲がって固まっている。肘から先に、細かい砂を詰め込まれたようなしびれがあった。

鼻の奥から、温かいものが下りてくる。唇を越え、顎の先で玉になり、砂に落ちた。落ちたところだけ、砂の色が黒く沈む。

目の高さに、ラカの足の裏があった。その向こうで、胸が上下している。


庭の右手の端から見ると、上がり口の前には、塊が二つあった。

仰向けの大きいのと、膝をついた小さいの。



「太郎」



マリアが、一歩出かけた。リョクシは、動かなかった。声だけが、その一歩を止めた。



「待つといい。今、駆け寄れば、彼の勝ちを、きみたちが取り上げることになる」



「勝ち、だと。血だらけじゃないか」



「それでも、勝ちだよ」



ランは、太郎を見ていなかった。仰向けの男の顔を見ていた。目は、開いている。開いたまま、空のほうを向いている。瞬きが、ない。



「・・・あいつ、何も見てねぇ」



握った右の拳は、さっきからほどけていなかった。爪が掌の肉に食い込み、そこだけ、脈を打っていた。



「いつまで寝てんのさ、ラカ。砂、背中に入るじゃん」



本堂の前から、気の抜けた声がした。テフニカだった。


ラカの瞼が、一度閉じて、開いた。

空が、ただの空に戻った。背中の砂が、急に、冷たくなった。



「戻った」



ランが、それだけ言った。



「ラカさんが・・・倒された・・・」


「嘘だろ、あの小さいのが」


「見たか、今の。足、浮いてたぞ」



ざわめきが、さざ波のように、庭の左手から渡ってくる。太郎を石段へ投げ込みに駆け寄りかけていた門下生が、真っ先に目を逸らした。


ラカの指が、砂を掴んだ。

握った砂が、指の間からこぼれる。握り直す。また、こぼれる。



「受け身を、取らなかったね」



庭の右手で、リョクシが言った。



「何だ」



「取れたはずだよ。あの背丈なら、投げられ慣れてもいる」



リョクシは、そこで口を閉じた。続きは、なかった。

マリアは、続きを待たなかった。



(笑ってやがる)



誰も、笑ってなどいなかった。が。耳に入る囁きのひとつひとつが、ラカの中で、笑い声に変わっていった。



(絵になるってか。笑わせんな)



奥歯が、軋んだ。拳の中で、砂が鳴った。


太郎は、立とうとした。右足に、力を込める。膝が、言うことを聞かない。濡れた紙のように、また折れた。

両腕は、だらりと下がったままだった。持ち上げようとして、肩だけが動く。肘から先が、ついてこない。


ラカは、跳ね起きた。

背中の砂が、いっぺんに落ちた。払いもしなかった。右の拳は、握ったままだった。



「まだ終わっちゃ、いねぇ」



声が、割れていた。


踏み込んだ足元で、砂が大きく散った。

長い腕が、伸びる。最初の一発と、同じ軌道だった。

違ったのは、腰だった。腰が、腕より先に、前へ出ていた。


太郎は、腕を上げなかった。上がらなかった。

代わりに、両の拳を砂に着いた。腰を落とし、顎を引く。仕切りの形だった。

逃げる気は、なかった。が。受ける腕も、もう、なかった。当たるなら、頭で当たる。

そうして、来る男を、下から見た。


マリアの目が、本堂の前へ走った。ハオハンが、組んでいた腕をほどき、一歩、出かけていた。間に合う距離ではなかった。テフニカは、片方の眉を上げただけだった。



「怖いよね!」



ラカの拳が、止まった。


太郎の鼻先、指二本ぶん手前だった。拳が運んできた風が、太郎の前髪を、ひと筋だけ揺らした。


止めたのではなかった。止まった。

腕は伸びきらないまま、宙に残っている。肩も、踏み込んだ足も、そのままの形で動かない。動かそうとして、どこへ力を入れればいいのか、体のほうが分からなくなっていた。

腰だけが、じりじりと、後ろへ戻っていく。



(怖い、だと)



その先が、続かなかった。

こめかみを、汗がひと筋、這い下りた。拳の先が、わずかに震えていた。

悲鳴なら、いくらでも聞いてきた。が。今の声は、そのどれでもなかった。


ラカは、固まっていた。


太郎は、振り向かなかった。声がどこからしたのかも、分からなかった。

目の高さに、ラカの腰があった。

爪先は太郎へ向いているのに、腰だけが、踵の上まで戻ってきている。踵の下で、砂が、後ろへ掘れていた。


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