前庭 3
この庭では、門を通りたい者は、まず殴られる。
庭の左手では、門下生たちが組み合っていた。
ランたちは、その反対側、右手へ下がった。
リョクシが手で促し、マリアが小さく舌打ちをして従う。最後にランが、一度だけ振り返った。太郎は、背中でそれを聞いていた。振り向かなかった。
門下生たちは、手を止めない。輪を作ることもない。組み合ったまま、砂を踏み、押し、引き続けている。見物ではなかった。止めるな、と言われているからだ。
本堂の上がり口の前には、向き合う二人だけが残った。
ラカの胸の下に、太郎の頭があった。
背丈の差は、頭ふたつ分に近い。見上げる者と、見下ろす者。それだけで、勝負の結末を知っているような色が、組み合う門下生たちの横目にいくつもあった。
ラカは、両腕をだらりと広げた。腕は膝まで垂れ、広げれば、庭の幅の半分を持っていくように見えた。
「ほらこいよ! 現実ってのを突きつけてやるからよ!」
太郎は、動かない。
「こねーなら、こっちから行くぞ?」
言い終わるより先に、腕が出た。
長い腕が、真っすぐに太郎の顔へ伸びる。突き出すというより、置きにいく動きだった。置かれた場所が、そのまま、太郎のいる場所になる。
砂が鳴った。
太郎が、突っ込んだ。
低い。腰から下が地面に貼りつくような低さで、迫る腕の下を潜る。
潜られた。
が。ラカは、慌てなかった。
腕をくぐられた瞬間、足を引いた。引いた足が、太郎の足首を内側から払う。けたぐり。
ガッ
太郎の体が、斜めに引かれた。
が。倒れない。
足の指が、砂に食い込んでいた。踏ん張った両の足が、引かれる力を、地面の中へ逃がしている。
「ほう」
ラカの眉が、わずかに上がった。
「ならこっちだ」
腕が、横から薙いだ。
ばしん
張り手が、太郎の左頬を真横から捉えた。音が、遅れて庭に響く。
視界が白く弾けた。耳の奥で、羽虫が飛ぶような音がする。足の指が、砂を掴み直そうとして、一寸、ずれた。ほんの一寸。その一寸で、重心が体の外へ流れていく。
その上に、二発目が来た。三発目。四発目。
長い腕は、振るというより、置くだけで届く。太郎の顔、肩、胸、脇腹。引かれては、別の角度から降ってくる。太郎は肘を胸に寄せ、顎を引いて、耐えた。耐えるうちは、倒れない。が。最初の一発が、足に残っていた。
膝が、笑った。
「・・・太郎」
マリアの声が、漏れた。
組み合ったままの門下生たちからも、どよめきとも悲鳴ともつかない、細い息が、あちこちで洩れる。
リョクシが、静かに言った。
「あの腕は、間合いの差じゃない。逃げ場の数の差だよ。どちらへ避けても、そこがもう射程の中なんだ」
ラカは、その声を、拾っていた。
たとえ微かでも、悲鳴の音は聞き分けられる。何十回、何百回と、こういう場を見てきたからだ。
(小さいってのは、いいよな)
胸の中で、ラカは吐き捨てた。
(ヤンキー更生物語みたいにな。何事も、正しくやった分だけ、でっかく評価される。こんな大きい俺を倒したなら、大番狂せだ、ジャイアントキリングだ、ってな。大会でやりゃ、勝っても負けても絵になるんだから)
飽き飽きしていた。
その飽きた顔のまま、ラカは、太郎の拳を見ていた。
太郎の右が、伸びた。
拳が、ラカの鳩尾に入った。
入ったが、ラカは、笑った。
「いいぞ。もっと来い」
打つ。打ち返される。太郎の拳が胸を叩き、ラカの拳が肩を叩く。互いの腕が、互いの体のあちこちに音を立てて叩きつけられ、どちらの息なのか、庭の誰にも分からなくなる。
ただ。
ラカのほうが、上手だった。
太郎の拳が、わずかに大きく振られた。
ラカは、その腕を、掴んだ。引いた。
太郎の体が、前へ、倒れる。
膝をついた太郎が、起き上がろうと手を地面に着いたとき、その首根っこを、巨きな手が、掴んだ。
持ち上げられた。足が、宙に浮いた。
放られた。
太郎の体が、ラカの頭の高さまで、軽々と舞った。
宙に浮いた体の、その顔の真ん中へ。
ラカの掌が、平手で、突き込まれた。
ごっ
そのまま、押された。
背中から、地面に、押し倒される。後頭部が砂を打ち、ラカの掌は、顔を押さえたまま、離れなかった。
どさっ
組み合ったままの門下生たちから、声にならない音が、いくつも漏れた。誰かの口の端が、激痛を知っている者のように歪んだ。誰もが、自分の背中に、その痛みを思い出していた。
太郎は、仰向けのまま、動かなかった。
「わかったか。これが現実だ」
ラカは、見下ろしたまま言った。
「ズブズブと半端にしたいなら、とっとと失せな」
「・・・」
返事は、なかった。
「ちっ。こんなんで折れる、甘ちゃんが」
ラカは、顎で、近くの門下生をしゃくった。
「おいこら。さっさと、こいつを階段へ投げ込んでやれ」
睨まれた門下生が、組んでいた相手の手を外した。すぐさま、走り出す。
慣れた動きだった。
言われてからではなく、言われる前から、体が向かっていた。何度も繰り返された、慣例の流れなのだろう。門下生の顔が、そう物語っていた。
「くっ」
ランが、前に出ようとした。睨む目が、庭の砂を貫いている。
その服の裾を、リョクシの手が、掴んだ。
ランは、振り払わなかった。が。足は、止まらない。
「・・・」
「まだじゃ」
声が、したのは、地面からだった。
太郎が、体を回した。仰向けから、うつ伏せへ。膝を折り、両手を着き、四つん這いになる。
鼻から落ちた血が、砂に黒い点を作った。
駆け寄っていた門下生の足が、止まった。
ラカの片眉が、動いた。
「ふん」
蹴りが来た。
四つん這いの太郎の顔を狙う、下から掬い上げるような足だった。
その蹴りの動作に合わせて、太郎が、飛び込んだ。
蹴りが空を切る。足を振り上げたラカの懐に、太郎の顔があった。
掌の側面を、ラカの顔面に、落とす。手刀。
ラカは、左腕を上げた。ガードする。手刀を弾き、流す。
流れた勢いのまま、太郎の体は、ラカの胴へぶつかった。
ごっ
太郎の右腕が、ラカの懐に、入っていた。
ラカの上半身が、わずかに反った。が。ダメージは、ない。
太郎は、追撃の構えを取った。
が。ラカの乱打のほうが、速い。
ばん、ばん、ばん、ばしん
体幹も、足腰も、これまでの研鑽と、日々の稽古の積み重ねが、そのまま出る。連打が、少しも揺れない。ラカの足元の砂は、一粒も、動いていなかった。
太郎は、構えを低く、強く取った。
腕を畳み、頭を腕の内側へ入れ、肘を胸に寄せる。降ってくる打撃のすべてを、腕と背中に預けて、受ける。
腕が、しびれてくる。
その、ひたすらの耐えのなかで、太郎は、ひとつの部分だけを、見ていた。
ラカの腰だった。
連打の最中、ほんの少しだけ、太郎のガードの腕が、下がった。
しびれた腕が、受けた衝撃の重さに、一寸、負けた。
ラカは、その隙を、見逃さなかった。
来た。
下から、拳が、顎を目掛けて、突き上がる。アッパーカット。
太郎の顔が、大きく、上を向いた。
仰け反った顔のまま、庭の誰もが、決着を見たと思った。
だが。
その、仰け反る動きのなかで。
太郎の両腕は、ラカの腰に、絡みついていた。
「・・・っ」
ラカの目が、見開かれた。
太郎が、体を回した。腰を落とし、地面を掴むように足を踏み替え、自分の体全部を、ラカの腰の下に潜らせる。
ラカの体が、前へ、のめった。
巨体が、前のめりに、傾いていく。
その傾きに乗せて。
ラカは、とっさに、右の拳を振りかぶった。倒れる勢いのすべてを、乗せて。
太郎の顔面へ。
ごっ
鮮血が、飛び散った。
庭の、誰かが、息を呑んだ。
太郎の鼻から、頬から、赤い飛沫が、白い砂へ、ばらばらと落ちる。
それでも。
太郎は、手を、離さなかった。
歯を食いしばった口の端から、血の混じった息が、漏れる。
「・・・ぅ、おおおっ!」
腰が、跳ね上がった。
ラカの巨体が、宙に、浮いた。
そのまま、投げ飛ばした。




