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深山幽谷  作者: 真亭甘
43/54

前庭 2

ランは、石段の上の端から動いていなかった。

目だけが動いていた。ひと組が倒れると、次の組へ。そこが倒れると、また次へ。ひと組を長くは見ない。倒れる寸前のところだけを、拾っていく目だった。



太郎は、ひと組しか見ていなかった。

庭の中ほどで、背の低い門下生が、頭ふたつ高い相手に当たっていた。当たっては押し返され、押し返されては、また肩から当たる。太郎は、そのたびに額の赤いところを指の腹で押さえた。押さえていることに、自分では気づいていないようだった。

五度目に当たったところで、相手の腰がわずかに浮いた。浮いたが、そこまでだった。上から肩を押さえ込まれ、小さいほうは膝から砂に落ちた。

太郎の喉が、一度だけ動いた。



ランの右手が、握られていた。

いつ握ったのかは、隣にいたマリアにも分からなかった。握った拳は、倒れる組が出るたびに、わずかに締まった。



「……ラン」



返事はなかった。



リョクシが、ランの肩越しに庭を見渡した。



「ここに立っているのは、よくないね」


「なんでだ」



マリアが訊いた。自分のつま先を見た。すぐ先の砂に、さっきの門下生が踏みとどまった跡が二本残っていた。



「稽古の最中の人にとって、端に立っている者は柱と同じだよ。避けてはくれない」



リョクシは、本堂の右の端を指した。そこだけ、庭から板の間へ上がる段が数段ついていた。



「あそこへ行こう。縁を回れば、誰の邪魔にもならない」


「……あの建物は、なんじゃ」


「本堂だよ」


「中に、いるのか」



ランが訊いた。



「さあ。行けば分かる」



ランは、もう歩き出していた。

縁ではなかった。庭の真ん中を斜めに突っ切って、上がり口へまっすぐ向かう向きだった。

マリアの手が、ランの背を掴んだ。ランが振り返った。マリアの顔を見て、それから、掴んでいる手を見た。



「縁だ。あいつの言うとおりにしろ」



マリアは、手を離さずに言った。

ランは、向きを変えた。





四人は、庭の手前の縁を右へ歩いた。

縁を歩くと、稽古の音は横から来た。前から来ていたときより、耳に近かった。

庭の右の端で折れ、今度は奥へ向かう。

左手に稽古の庭、右手は山の斜面で、斜面の上に張り出した台があった。台からは石段が降りてきていて、その下り口は、本堂の上がり口のすぐ脇に着いていた。

見上げると、台の縁に、日傘がひとつ覗いていた。

上がり口まで、あと十歩だった。



「待て」



大きな声ではなかった。それでも、庭をまたいで、まっすぐ届いた。

庭の左の奥で、巨躯の男が、組ませていた二人から手を離していた。二人は組んだまま動きを止め、男の顔を見上げた。


男は、二人のほうを見ていなかった。こちらを見ていた。

太郎が足を止めた。

ランは止まらなかった。二歩進んでから、太郎がついてこないのに気づき、そこで止まった。



同じ左の奥から、欠伸の混じった声がした。



「ハオハン。別に、そのまま行かせてあげればいいじゃん」



細い男は、本堂の端の岩にもたれたまま、両手を腹の上で組んでいた。



「わざわざ体を動かす手間が、省けるんだしさ。どうせ上で潰れて、落ちてくるんだから。拾うのは、そのときでいい」



マリアは、庭越しにその男の顔を見た。笑ってはいなかった。本当に、面倒がっているだけの顔だった。



「そうはいかん」



ハオハンと呼ばれた男は、組ませていた二人の肩を軽く叩いた。二人は頭を下げ、また組み直した。

男は、こちらへ一歩だけ出た。その一歩で、あいだにいた門下生たちが、何も言われないうちに左右へ退いた。



「それにテフニカよ。このまま行かせたら、中にいる者に侮られるぞ」


「中って、どっちの」



テフニカが、首を傾けた。

ハオハンは答えなかった。

リョクシは、上がり口から目を離さなかった。マリアは右手を、左の手首に添えた。そこから先は動かさなかった。





本堂の軒下で、板が低く鳴った。

軒下の段で膝に肘を乗せていた男が、立ち上がるところだった。

座っていたときには、腕の太さしか分からなかった。立つと、その腕は膝のあたりまで垂れていた。



「ラカ」



ハオハンが、男の名を呼んだ。止めるようにも、送り出すようにも聞こえた。

ラカは返事をしなかった。段から庭へ降り、本堂の前を右へ歩いてくる。稽古の庭の奥の縁を、端から端までなぞる道だった。


ラカの目は、軒下を立ったときから、太郎だけを見ていた。

途中で、組み合った二人が、押し合ったままラカの前へ流れてきた。どちらも、ラカに背を向けていた。

ラカは、歩みを緩めなかった。右腕を、横へ払った。


二人が、組んだまま浮いた。浮いたまま真横へ運ばれ、三歩先の砂に重なって落ちた。

ラカの腕は、もう下りていた。歩幅は、一度も変わらなかった。

落ちた二人は、すぐには起き上がれなかった。まわりの組は、今度は手を止めなかった。



「……肘を、曲げちょらん」



太郎が呟いた。誰に言ったのでもなかった。

ランは、落ちた二人を見ていなかった。垂れたまま戻ったラカの右腕の、肘の内側を見ていた。



「確かにな。なんか言われんのは、ムカつく」



ラカは、ハオハンのほうを見ずに言った。



「それに、飽きた。才能もない奴を、朝から眺めてんのは」



ラカの目が、庭の中ほどへ一度だけ流れた。さっき膝から落ちた背の低い門下生が、また相手に当たりにいくところだった。



「このまま、どうぞ!って通してやんのも、癪だ」



ラカは、上がり口の手前で、太郎の正面に止まった。



「小兵には、現実を叩き込んでやる。それが指導ってもんだ」



垂れた腕の先で、指が、太郎の腰の横に揺れていた。

ランが、太郎の横で半歩出かけた。太郎の手が、それより先に上がり、ランの胸の前で止まった。

太郎は、額の赤いところから、指を離していた。

ランは、太郎の手を払わなかった。目だけが、ラカの肩を越えて、庭の左の奥のハオハンへ移っていた。ハオハンも、こちらを見ていた。





前庭の右手の、少し高い見晴らし台で、アミは、揺らしていた足を止めた。

アミの手が、後ろの荷のほうへ伸びかけた。伸びかけて、膝の上へ戻った。

マリが、アミの伸ばしかけた手の先から、荷を半歩遠ざけた。

台の下で、稽古の音が、ひとつずつ減っていった。本堂の上がり口の前で向き合った二つの影だけが、動かなかった。



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