出場試験
受付を終えたランたちは、案内係に連れられ、会場の奥へと進んだ。
通路を抜けると、そこは思ったよりも広い空間だった。円形の闘技場——と言うには殺風景で、ただの更地に近い。装飾も、観客を沸かせるための仕掛けも何一つない。ただ周囲を低い石壁が囲み、その上に数名の審査員らしき人物たちが立っている。彼らの視線には、値踏みするような冷たさがあった。
「飾り気のない場だな」
リョクシが呟く。彼の目は、石壁の継ぎ目や、地面に刻まれた無数の傷痕——おそらく過去の受験者たちが残していったものだろう——を静かになぞっていた。
「美しくはない。だが、嘘をつく余地もない場所ってことね」
マリアが小さく返す。その声は、いつもより硬かった。
リョクシがランの肩に軽く触れる。
「相手を殺す必要はない。ここは、狩り場じゃない」
一言だけ、彼はそう言った。ランは怪訝そうな顔をしたが、頷く代わりに小さく鼻を鳴らした。分かったのか、分かっていないのか——その表情からは読み取れなかった。
「出場資格試験だ」
案内係が無機質な声で告げる。
「お前の実力を見せろ」
ランはきょろりと周囲を見渡した。マリアとリョクシは観覧席——と言うより見学用のスペースに案内されている。マリアの唇が微かに動いた。
「——気をつけろ」
声は届かなかったが、言葉は読めた。ランは軽く頷き返す。
リョクシは何も言わなかった。ただ腕を組んだまま、値踏みするような目でランを見ていた。心配というより——確かめたがっているように。
審査員の一人が前に進み出る。痩躯の男だった。目つきは鋭く、外套の下——腰のあたりに、鈍く光る金属の環のようなものを隠しているのが分かる。魔獣を繋ぎ止めるための道具だろうか。
「では——始め」
その声が終わるか終わらないか。
空間が歪んだ。
「──ッ」
ランの肌が、何かを感知した。空気の変わり目。温度でも湿度でもない。まるで景色の裏側から、何かが「縫い出される」ような感覚。
次の瞬間、そこにいた。
黒い——いや、闇そのものを凝縮したような毛並み。白く光る双眸。鋭く湾曲した牙が、湿った吐息と共に露わになる。
犬。
いや、犬にしては大きすぎる。体高はランの腰の辺りまであり、四肢は鋼のバネのようにしなやかに張り詰めている。爪が——石畳を容易く抉るであろう鉤爪が、カツンと軽い音を立てた。
石壁の上で、審査員たちがわずかに身を引いた。訓練され、制御されているはずの魔獣だ。それでも滲み出る気配は、紛れもなく——殺意そのものだった。
魔獣。
観覧席で、マリアの喉が微かに鳴った。声にならない悲鳴を、寸前で飲み込む。隣のリョクシは微動だにしない。ただ目だけが——獣ではなく、ランの背中に注がれていた。
その正体を言葉にするより早く——獣は動いた。
「──」
音がなかった。ただ、黒い稲妻が走った。視界の端を、漆黒の残像が掠める。爪の風圧がランの頬を撫でる。皮膚が、危険を感知して粟立つ。
だが、ランの足は動かなかった。逃げるという選択肢が、そもそも彼の中に存在していないかのように。
飛びかかっている。
理解した瞬間には、既に獣の巨体がランの頭上に覆い被さっていた。牙が——喉を狙っている。爪が——胸を引き裂かんと迫る。
時間が、ゆっくりと流れた。
マリアが、観覧席で息を飲む。リョクシの眉が微かに動く。痩躯の男が試験を止めようと片手を上げかけ、もう一方の手は反射的に腰の環へ伸びていた。
だが、間に合わない——そのはずだった。
その両の手は、途中で止まった。
衝撃。
魔獣の動きが、完全に——停止した。
いや、停止させられたのだ。
ランの右手が、獣の首を掴んでいた。黒い毛並みの間に指を埋め込み、まるで子犬の首でも摘まむように、
——いや、それよりもずっと無造作に。
地べたへ。
魔獣の体が、床に叩きつけられた。鈍い音が響く。地面に、蜘蛛の巣状の亀裂が走った。鱗粉のように舞う埃。獣の四肢がバタつき、爪が空を斬る。しかし——起き上がれない。
ランの手が、それを許さない。
「──……なんだ、これ」
ランの声が、静かに響いた。困惑が混じっていた。本当に、不思議そうな口調で。
文明の言葉も、魔法の理屈も知らない彼にとって、目の前で起きたことは、獣が急に降ってきたという以上の意味を持たなかった。
「急に現れたから、びっくりした」
魔獣が唸る。低い、地を這うような咆哮。白い瞳がぎらつき、牙が剥かれる。しかし——ランの手は微動だにしない。
まるで、暴れる獲物を押さえつける狩人のように。いや——それ以上に、興味がなさそうだった。
「……なに、これ」
ランが繰り返す。視線が、ゆっくりと審査員の方へ向く。
「これ——倒していいの?」
その声音は、まるで道端で石を拾った子供のようだった。純粋な疑問。相手がどれほど危険な存在か——理解していない。いや、理解する必要を感じていない。
審査員たちは、固まっていた。
痩躯の男の手が、宙に浮いたまま。止めようとしたその動作が、滑稽なほどに中途半端な位置で止まっている。他の審査員たちも同様だった。誰もが——何が起こったのか、瞬時には判断できなかった。
魔獣が。
訓練された、戦闘用の護衛魔獣が。
一瞬で。
押さえつけられている。
誰も、声を出せなかった。
沈黙が、場を支配した。
最初に動いたのは、リョクシだった。
くすんだ緑色の外套が微かに揺れる。彼は何も言わなかった。ただ——ランの背中を、じっと見つめていた。口元に、わずかな——何かを含んだような表情が浮かぶ。
賞賛にも、面白がっているようにも見えるその表情の奥で、リョクシの目はランの「勝敗」ではなく、もっと別の何かを——値踏みするように追っていた。無駄はないが、洗練からはほど遠いその動き。それでも彼の目には、どこか美しく映っているようだった。
マリアは、手を口元に当てていた。その目は、驚きというより——確かめるように、ランを見つめている。
(何なの、これ……)
場を支配する困惑は、審査員たちだけのものではなかった。ランが強いことは、旅の中で薄々気づいていた。だが、目の前で起きたことは、彼女の思っていた「強い」の枠を、あまりにも軽々と踏み越えていた。
「……試験は」
痩躯の男が、やっと声を絞り出した。
「続行——必要、ない」
言葉が途切れ途切れだった。
「合格……だ」
ランが、魔獣から手を離す。獣は素早く距離を取り、低く唸りながらも——襲いかかってはこなかった。その白い瞳には、警戒と——微かな、何かが揺れている。
やがて、先ほど腰の環に手をかけていた痩躯の男が、外套の下からそれを取り出し、地面に軽く打ち付けた。低い音が響くと、魔獣の唸り声が、糸を断ち切られたようにぴたりと止む。獣はそのまま、崩れるように地に伏せた。
「え、もう終わり?」
ランが首を傾げる。
「もっとやるかと思ったけど」
誰も、答えなかった。
風だけが、殺風景な闘技場を吹き抜ける。
その風は、何かを運んでいた。ランには分からない——まだ、自分の中に眠る何かの、予兆のようなものを。
審査員たちが顔を見合わせる。小声で何かを話し合っている。誰かが呟いた言葉の断片——「規格外」「本部への報告」——が、風に乗って観覧席まで微かに届く。だが、それが何を意味するのか、ランにはやはり分からなかった。
痩躯の男が深い息を吐き、何か書き付けた。
「……明日から本戦だ。まずは予選を勝ち抜け。体調を整えておけ」
ランの方を見ようとしないまま、男は告げた。
「いいな」
「うん」
ランは無邪気に頷いた。
観覧席から、マリアが立ち上がる。その顔には——冷徹な仮面の裏側で、微かな安堵と、それ以上の困惑が混ざっていた。
「ねえ」
マリアがリョクシの袖を軽く引く。
「今の、見た?」
「見た」
それだけ答えて、リョクシは口を噤んだ。だが、その一言には——普段の彼らしくない、微かな熱が滲んでいた。




