三門-4
太郎は男の脇を回り込み、真ん中の口の敷居をまたいだ。
暗がりへは入らなかった。敷居の内側で振り返り、門の外に残ったランを見た。
右の口の奥は、外から見たほど暗くなかった。
暗いのは、入口の数歩だけだった。その先は、天井に明かり取りの窓が切ってある。
土間に、長い机がひとつ。向こうに、筆を持った年寄りが座っていた。机の上には、厚い帳面が開いてある。
帳面には、名が詰めて並んでいた。字の癖が、一行ずつ違う。前のほうの紙ほど墨が薄れて茶色く、開いた紙の墨は、まだ黒い。
名の横には、ところどころ、細い線が一本ずつ引かれていた。
「この線は」
ナトが訊いた。
「山を下りたきりの者だ」
年寄りは、筆の先を硯の縁で整えながら答えた。
「どう下りたかは、書かん」
帳面は、門をくぐった順に書き継がれる。
名を書いた者は、三門の前で三日座る。座り通した者から、水を担ぐ。担ぎ終えた者から稽古に入り、稽古に入った者から、上の誰かに打たれる。
線は、そのどこで引かれてもよかった。前のほうの紙ほど、線の引かれた名が多い。
年寄りは紙を何枚か戻し、ハヤトの名の横に、戻りの印を書き足した。その二つ上の名には、線があった。
ハヤトは、その線を見なかった。
年寄りは、紙を元のところまで戻した。それから、ナトに筆を差し出した。
ナトは筆を受け取った。握り方が、畑でくわを握るときと同じだった。年寄りは、それを直さなかった。
一画目を置いたところで、外から音が届いた。
土間が、わずかに揺れた。明かり取りの窓から差す光の中で、埃が一度だけ舞った。
「始まったな」
ハヤトは土間にしゃがんで、荷の紐をほどいていた。紐から目を上げずに言った。
ナトは、筆を止めなかった。二画目、三画目。筆の先が紙に吸いつくのを待ってから、次を置く。
最後の一画を引き終える前に、二度目が来た。
一度目とは違った。揺れたのは土間ではなく、壁だった。
門の柱に面した壁板が、内側へ向けて一度だけ鳴った。鳴ったのは、立った男の肩ほどの高さのところだ。鳴りは、しばらく壁の中に残った。
天井の梁に積もっていた埃が、まとまって落ちてきた。埃は、帳面の上に落ちた。乾ききっていない、最後の一画の上にも。
年寄りが息を吹きかけて、埃を払った。墨の上のぶんだけは払えない。名の終わりが、灰色ににじんでいた。
「書き直すか」
「……いい」
ナトは筆を置いた。
「このままで、いい」
年寄りは帳面を閉じず、墨が乾くまで開いておいた。それから、壁板のほうへ顔を向けた。
「また、鉄を打ち直すことになるな」
「打ち直すなら、今度は低いところだ」
ハヤトは、結び目をほどき終えてから言った。
太郎が敷居の内側で振り返ったとき、男は、もう立っていた。
詰めていた足の幅を、ひと足ずつ元の広さへ開いていく。腰が落ちた。開いた両手が、肩の高さで止まる。
門の前に出てきたときと同じ、来た者を待つ構えだった。
構えが、据わった。
ランが来ていた。
前置きはなかった。マリアの横にいたはずのランが、男の正面で、もう拳を引いている。
男は、開いた掌を二枚重ねて、胸の前に置いた。拳は、その真ん中に入った。
受けた。
受けて、男の体が運ばれた。
広く開いた足は、石から浮かなかった。浮かないまま、踵が石を削って下がる。二歩ぶん、三歩ぶん。柱の手前で、ようやく足が石を離れた。
腰を落とした形のまま、男の体が斜め後ろへ流れた。真ん中の口と右の口を分ける柱に、背中から当たる。
拳が掌に入った音と、鉄が鳴った音が、間を置いて続いた。あとのほうが、長く残った。
男は、鉄板を背にしたまま、ずり落ちた。尻が石につく。両腕は、掌を重ねた形のまま胸の前から膝の上に落ち、そこで止まった。
背中の離れた鉄板が、浅く丸くへこんでいた。
へこみは、普通の男の肩ほどの高さにある。ほかのへこみは、どれも人の頭より上に並んでいた。
リョクシの目が、新しいへこみから、上の古いへこみへ、ひとつずつ上がっていった。
男が、顔を上げた。膝の上の腕は、動かさない。目だけで、ランを見上げた。
「……通るがいい。俺をここまで飛ばしたんだ。十分資格はある」
「お前、受けたな」
ランが言った。男は、何も返さなかった。
ランは男の前を過ぎ、真ん中の口の敷居をまたいだ。太郎の横に並ぶ。
マリアは、敷居の手前まで歩いて足を止めた。敷居の内側では、太郎が額の赤くなったところを指で押していた。




