↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
深山幽谷  作者: 真亭甘
39/54

三門-4

太郎は男の脇を回り込み、真ん中の口の敷居をまたいだ。

暗がりへは入らなかった。敷居の内側で振り返り、門の外に残ったランを見た。





右の口の奥は、外から見たほど暗くなかった。

暗いのは、入口の数歩だけだった。その先は、天井に明かり取りの窓が切ってある。

土間に、長い机がひとつ。向こうに、筆を持った年寄りが座っていた。机の上には、厚い帳面が開いてある。

帳面には、名が詰めて並んでいた。字の癖が、一行ずつ違う。前のほうの紙ほど墨が薄れて茶色く、開いた紙の墨は、まだ黒い。

名の横には、ところどころ、細い線が一本ずつ引かれていた。



「この線は」



ナトが訊いた。



「山を下りたきりの者だ」



年寄りは、筆の先を硯の縁で整えながら答えた。



「どう下りたかは、書かん」



帳面は、門をくぐった順に書き継がれる。

名を書いた者は、三門の前で三日座る。座り通した者から、水を担ぐ。担ぎ終えた者から稽古に入り、稽古に入った者から、上の誰かに打たれる。

線は、そのどこで引かれてもよかった。前のほうの紙ほど、線の引かれた名が多い。

年寄りは紙を何枚か戻し、ハヤトの名の横に、戻りの印を書き足した。その二つ上の名には、線があった。



ハヤトは、その線を見なかった。



年寄りは、紙を元のところまで戻した。それから、ナトに筆を差し出した。

ナトは筆を受け取った。握り方が、畑でくわを握るときと同じだった。年寄りは、それを直さなかった。

一画目を置いたところで、外から音が届いた。

土間が、わずかに揺れた。明かり取りの窓から差す光の中で、埃が一度だけ舞った。



「始まったな」



ハヤトは土間にしゃがんで、荷の紐をほどいていた。紐から目を上げずに言った。

ナトは、筆を止めなかった。二画目、三画目。筆の先が紙に吸いつくのを待ってから、次を置く。

最後の一画を引き終える前に、二度目が来た。

一度目とは違った。揺れたのは土間ではなく、壁だった。

門の柱に面した壁板が、内側へ向けて一度だけ鳴った。鳴ったのは、立った男の肩ほどの高さのところだ。鳴りは、しばらく壁の中に残った。

天井の梁に積もっていた埃が、まとまって落ちてきた。埃は、帳面の上に落ちた。乾ききっていない、最後の一画の上にも。

年寄りが息を吹きかけて、埃を払った。墨の上のぶんだけは払えない。名の終わりが、灰色ににじんでいた。



「書き直すか」



「……いい」



ナトは筆を置いた。



「このままで、いい」



年寄りは帳面を閉じず、墨が乾くまで開いておいた。それから、壁板のほうへ顔を向けた。



「また、鉄を打ち直すことになるな」



「打ち直すなら、今度は低いところだ」



ハヤトは、結び目をほどき終えてから言った。





太郎が敷居の内側で振り返ったとき、男は、もう立っていた。

詰めていた足の幅を、ひと足ずつ元の広さへ開いていく。腰が落ちた。開いた両手が、肩の高さで止まる。

門の前に出てきたときと同じ、来た者を待つ構えだった。

構えが、据わった。

ランが来ていた。

前置きはなかった。マリアの横にいたはずのランが、男の正面で、もう拳を引いている。

男は、開いた掌を二枚重ねて、胸の前に置いた。拳は、その真ん中に入った。



受けた。

受けて、男の体が運ばれた。



広く開いた足は、石から浮かなかった。浮かないまま、踵が石を削って下がる。二歩ぶん、三歩ぶん。柱の手前で、ようやく足が石を離れた。

腰を落とした形のまま、男の体が斜め後ろへ流れた。真ん中の口と右の口を分ける柱に、背中から当たる。

拳が掌に入った音と、鉄が鳴った音が、間を置いて続いた。あとのほうが、長く残った。

男は、鉄板を背にしたまま、ずり落ちた。尻が石につく。両腕は、掌を重ねた形のまま胸の前から膝の上に落ち、そこで止まった。

背中の離れた鉄板が、浅く丸くへこんでいた。

へこみは、普通の男の肩ほどの高さにある。ほかのへこみは、どれも人の頭より上に並んでいた。

リョクシの目が、新しいへこみから、上の古いへこみへ、ひとつずつ上がっていった。

男が、顔を上げた。膝の上の腕は、動かさない。目だけで、ランを見上げた。



「……通るがいい。俺をここまで飛ばしたんだ。十分資格はある」



「お前、受けたな」



ランが言った。男は、何も返さなかった。

ランは男の前を過ぎ、真ん中の口の敷居をまたいだ。太郎の横に並ぶ。

マリアは、敷居の手前まで歩いて足を止めた。敷居の内側では、太郎が額の赤くなったところを指で押していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。