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深山幽谷  作者: 真亭甘
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山への道

朝の道に、蹄の音が戻っていた。

町の西口は、祭りの片づけの荷車と、放牧場へ向かう牛の列で詰まっていた。ランが列の切れ目を待たずに横切ろうとして、襟をつかまれた。



「待て。轢かれるぞ」



「あっちが避ける」



「牛が避けるか」



「避けねぇなら殴る」



マリアは、列が途切れるまで手を放さなかった。

ランの頬の腫れは、昨日よりさらに引いていた。かわりに、右手の指の関節が、握るたびに新しい形で痛んだ。足の裏に巻いた布は、もう縁が土の色になっている。



「どのくらいかかる」



「歩きで七日。荷があるから、八日か九日だな。オストの手前で道が分かれる。南へ折れるほうが山だ」



「そこから先は」



「登りだ。それしかねぇ」



ナトが首の木札に指を触れた。触れて、離す。町を出る前に、三度目だった。



「村の連中に、山まで見送ると言われた。……断った。見送られると、帰りたくなる」



太郎の荷は、誰よりも小さかった。布包みがひとつと、腰の帯だけ。



「それだけか」



「増やすと、足が重うなるき」



歩幅も誰より狭い。それなのに、遅れなかった。踏み出すたびに、足の裏が土をひと掴みずつ握っている。ランは前を見たまま、その音だけを聞いていた。



「なあ。おまえ、なんで音が違うんだ」



太郎は答えず、笑っただけだった。前歯の欠けたところに、朝の光が入っていた。



牛の列の後ろで、手綱を握っていた男が足を止めた。手綱を近くの者へ押しつけ、人混みを一直線に走ってきた。



「太郎さん!」



太郎が振り向く。青年は五歩ほど手前で足を止め、腰を折って頭を下げた。



「……すみませんでした。あの日、俺、笑ったんです」



「なんの話じゃ」



「牛です。段差から落ちた牛。あんたが、下で受け止めてくれた。そのあと先輩が、大会の参加者かって訊いて。……俺、鼻で笑ったんです。そんな小さな体で、って」



「言うたのう」



太郎は笑った。



「じゃが、その話はもう済んじょる。わしは、それでも見に来いと言うた。お前さんは来たか」



「来ました」



「ほんで、どうじゃった」



青年は口を開いて、閉じた。



「……怖かったです」



リョクシが、本から目を上げた。



「怖い、というのはね。自分はそこに立てないと知ったときの言葉だよ」



「手を見せい」



青年は、しぶしぶ両手を差し出した。掌を横切って、白く引き攣れた線が走っていた。両手の同じ場所に、同じ形で。



「手綱か」



「……はい。離すのが遅れて、持っていかれて、焼けました。先輩には、放してれば、こんな痕は残らなかったと言われました」



太郎は青年の掌を、ずいぶん長いこと見ていた。



「これは、放した痕じゃない」



「え」



「握っちょった痕じゃ」



青年は、自分の掌を見下ろした。



「……でも、落としました。俺が握れなかったから、落ちたんです」



青年は一度、息を吸い直した。



「強くなりたいわけじゃ、ないんです。……ただ、次にあいつが暴れたとき、手綱くらいは離さないでいたい。それだけです」



「それでえい」



太郎の返事は早かった。



「おーい! 置いてくぞ!」



「行きます」



「行け」



青年は駆け出しかけて、二歩で止まった。



「俺も、頑張ります」



それから、ランを振り返った。



「……あんたのも、忘れません」



今度は本当に走っていった。爪先で逃げるのではなく、一歩ずつ置きにいく走り方だった。



「なあ。あいつ、強くなるのか」



「ならん」



太郎は即答した。



「牛飼いは牛飼いじゃ。あれが十年やっても、わしの半分にも届かん」



「じゃあ、なんで教えたんだ」



「お前さんは」



太郎は、ランを見上げた。



「強くなるために、飯を食うか」



ランは黙った。



「食わんじゃろ。腹が減るき、食う。……強くなるために踏ん張るんじゃない。落としとうないき、踏ん張る」



「……あんた、優しいんだな」



マリアが言った。



「優しゅうない」



太郎は歩き出した。



「わしは、あの手の痕を見たかっただけじゃ。あれを見んと、わしの負けが片づかんかった」



「負け?」



「わしがあの牛を受け止めたとき、わしは自分を強いと思うちょった」



ランは何も言わなかった。ただ、歩きながら一度だけ、自分の足の裏に体重を乗せ直した。





町の門を抜けると、道は緩やかに西へ下っていた。畑が尽きるまでに、半日かかった。

日が傾きはじめた頃、道は長い登りに変わった。登りきったところで、ハヤトが足を止めた。



「見ろ」



地平の際に、線があった。雲かと思ったものが、雲ではなかった。青みがかった灰色の稜線が、視界の端から端まで途切れずに横たわっている。ずっとそこにあって、町の屋根に隠れていただけだった。



「エストレス山脈だ。総門ってのは、山の入口だ。あの手前の谷の奥にある。……見えたときは、もう着いてるってことだ」



「入口、と言ったね」



リョクシが訊いた。



「言った」



「出口ではなく」



ハヤトは、少し黙った。



「……出ていった奴を、俺は知らねぇ」



ナトが木札に触れた。今度は、離さなかった。



ランは、山を見ていなかった。自分の足の裏を、地面に何度か押しつけていた。今朝ずっと聞いていた音を、自分で出そうとしている。



まだ、鳴らなかった。



「なあ。あそこ、飯はあるのか」



リョクシが、少しだけ笑った。



「あるよ」



「じゃあ行く」



「おい。あんたが行くのはオストだろうが」



マリアが言ったが、ランはもう歩き出していた。




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