山への誘い
夜、灯りの落ちた宿の一室。
窓の外では、まだ祭りのような喧騒が尾を引いていた。
ランは寝台の上に胡座をかき、右手を開いたり握ったりしていた。
頬の腫れは、もう半分ほど引いている。
「……まだ痛ぇ」
ランが呟くと、腹が大きく鳴った。
マリアは呆れた顔で、盆に載った肉と麺を寝台の上に置いた。
「勝った日ぐらい、腹の音より先に何か言うことがあるだろ」
「腹減った」
「……それだよ、それ」
リョクシは窓際の椅子に腰かけ、開いた本のページを指でなぞっていた。
「今日だけは大目に見てあげよう。あれだけの拳を振るったんだ、腹も空く」
ランは答えず、器に顔を突っ込むようにして麺をかき込み始めた。
その食い方に、マリアはもう何も言わなかった。
扉を叩く音がした。
一度、間を置いて、もう一度。
マリアが立ち上がるより先に、リョクシが「どうぞ」と応えた。
軋みながら開いた扉の向こうに、ハヤトが立っていた。
左目の上に晒しが巻かれ、右の頬から顎にかけて、青黒い痣が広がっている。
負けた男の顔が、そこにあった。
「邪魔するぜ」
ハヤトは断りもせず、寝台の脇の椅子に腰を下ろした。
麺を頬張ったまま、ランがその顔を見た。
「動けんのか、お前」
「動けるさ。……立つのがちょっと遅いだけだ」
ハヤトは懐から、山の形の焼き印が入った木札を取り出し、寝台の上に置いた。
その札は、頂に至高の使い手が住むという山――そこに集う挑戦者や武道家が作った修行道場の証だった。
門を叩けば誰でも入れるわけではない。稽古を望む者は麓で三日待たされ、その間に諦めて去る者のほうが多いという。残った者だけが山を登り、上にいる誰かに挑む資格を得る。
門下生の名簿に載った者の多くは、二度と里へ戻らなかった。名を挙げるでもなく、ただ静かに山の一部になっていく者たちがいる、とだけ噂されていた。
頂に住むという当人の顔を、実際に見た者はいないという。
それでも、麓の宿場には毎年、新しい挑戦者が絶えなかった。
「俺の上には、まだ何人もいる」
ハヤトは札から目を離さずに言った。
「中でも上の四人は、底が知れねぇ相手だ。……知れなかった。お前のおかげで、底が見えないってことだけは、見えるようになった」
ランの、麺を噛む速度がわずかに緩んだ。
マリアが、その横顔をちらりと見た。
「誘ってんのか、こいつを」
「誘ってる」
ランは器を置いた。
「必要ない」
短く、それだけだった。
「俺はお前みたいになりたい訳じゃねぇ」
ハヤトが片眉を上げる。
「格闘家にも、戦士にもなりたかねぇ。俺は、俺以外の何にもならねぇ」
その声に、迷いの震えはなかった。
腹が減ったから飯を食い、殴りたい奴がいたから殴った――ランにとって、今日の勝ちもその延長でしかない。
沈黙が落ちた。
先に口を開いたのは、リョクシだった。
「じゃあ、山へは私たちが行こうか」
「は?」
マリアが振り向く。
「え、オストは?」
「オストへは行くよ」
リョクシは本を閉じ、指を挟んだページの上で軽く叩いた。
「オストと、山のあるエストレス山脈は、向かうルートが同じだ。少し寄り道したところで、悪いことは何もない」
「寄り道って、お前……」
「山の猛者たちに、胸を貸してもらうのも悪くないしね」
リョクシはそこで言葉を切り、視線を窓の外――星も見えない夜空の方角へ流した。
「それに、頂を拝めるなら」
続きは、言わなかった。
マリアは、その横顔を一拍だけ見つめた。
気づいたのか、気づかないふりをしているだけなのか、判断のつかない間だった。
マリアがそれ以上追及する前に、リョクシは椅子から立ち上がっていた。
ハヤトは木札を懐に戻しながら、その日いちばんの顔で笑った。
「損はさせないぜ」
腫れた頬が、笑うたびに引き攣れていたが。
それでも、笑うのをやめなかった。
ランは何も言わなかった。
ただ、空になった器の底を、指の背でひとつ叩いた。
翌朝、広場には人だかりができていた。
大会の余韻はまだ町に残っていて、道行く商人や子どもたちが、優勝者の顔を一目見ようと足を止めていく。
その視線をかき分けて、ランたちは広場の中央へ向かった。
先に着いていたのは、ハヤトひとりではなかった。
首から木札を下げたナトが、日陰で荷物を背負い直していた。
その傍らでは、浴衣を着た太郎が、腕を組んで立っている。
さらにその奥、日傘の陰で寡黙なマリがユキと並び、少し離れた石段にアミが腰かけていた。
ランは足を止め、六人の顔をひとりずつ見た。
「……なんで、みんないるんだ」
「太郎とナトも、山に行く」
ハヤトが答えた。
「大会中に、声をかけた。……断られなかったのは、俺も少し驚いたがな」
太郎が小さく頷く。
「わしは、本来山への挑戦を目的にしていたまで、行くだけだ」
ナトは首の木札に手をやり、少し照れたように笑った。
「村には、もう金と食い物が届いてる。……あとは、俺の番だ」
石段のアミが、片目をつぶって手を振る。
「あたしらは、山とやらに興味あるもの」
アミがマリアの肩に腕を回そうとして、その手首をユキに掴まれる。
「本番は、山に着いてからにしてください」
「つれないわねぇ」
広場の端で、子どもの一人が指をさした。
「あれ、優勝したやつだ!」
歓声には、まだ届かない小さな声だった。が、それはすぐに隣の大人へ伝わり、じわりと広場全体に広がっていく。
リョクシは、集まった顔ぶれを一度だけ眺めた。
誰も欠けていないことに、ほんの少しだけ目元を緩めた。
「行くぞ」
短くそれだけ言って、ランは歩き出した。
リョクシとマリアが、その後ろに続く。
ハヤト、ナト、太郎、アミ、ユキ、マリも、順に荷を背負い直して続いた。
エストレス山脈は、まだ町のどこからも見えなかった。




