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深山幽谷  作者: 真亭甘
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決着! 異世界異種格闘技大会、優勝者

関係者席で、マリが日傘を置いた。


畳んだ日傘の柄から手を離した。

少女は、まっすぐにリングを見ている。

正確には、リングではなかった。

マリの目は、リングの上に伸びた影のほうを追っていた。


ユキはそれに気づき、気づいたことを、口にはしなかった。




二人の距離が、開いた。


互いに残っているものは、あと一つずつだった。


ハヤトが右を引き絞る。

山で何万回も繰り返し、体に彫り込んだ形。足の置き方から拳の畳み方まで、一分の狂いもない。それは、この男が生きてきた年月そのものの形をしていた。


肩の上の獣が、ふっと消えた。


消えたのではない。

下りたのだ。


引き絞られた右の前腕が、湯気で二回り太く見えた。

指の一本一本の輪郭が、熱で滲んでいる。


だが、その奥で息をしているものは、もう年月ではなかった。


その正面で、ランは構えなかった。


構える形を、持っていなかった。


だから――繋いだ。



爪先が、板の目を噛む。

足首が締まり、膝が伸び、腰が回る。

背骨が一本の棒になり、肩が遅れてついてきて、肘が最後に伸びる。


途中で、どこにも漏れなかった。


三日前、ランは自分の拳のことを、こう言っていた。

俺の拳は、いつも途中で漏れてる。あいつのは、最後の最後まで一滴もこぼれてなかった、と。


今、こぼれていない。

足の裏から拳の先まで、体の重さの全部が、一滴も落ちずに一本の線を通って走った。


――届く。



二つの拳が、リングの中央で正面からぶつかった。




音は、ひとつしかしなかった。


板が鳴り、二人の足元から埃が立ち上り、最前列の観客が反射的に顔を庇う。


押されたのは、ランだった。


踵が、板から浮いた。


繋いだはずの線が、根元から押し返されてくる。肘が内側へ折れ、自分の拳が、自分の胸へ向かって戻ってくる。

足の裏が板を掻き、爪先の跡が、そのまま後ろへ二本引かれた。





「勝ったぞ――!」

どこかで、誰かが叫んだ。


闘技場の半分が、その声に乗った。あちこちで名前が呼ばれ、賭札が握り潰され、太鼓の縁が滅茶苦茶に叩かれた。


関係者席で、アミが背もたれから体を剥がしていた。

晒しの巻かれた腹を押さえたまま、立ち上がっていた。自分が立ったことに、気づいていなかった。


会場の隅で、ナトの口が開いた。


声は、出なかった。

開いた形が、誰の名前になろうとしていたのか、彼自身にも分からなかった。


最前列で、リョクシが一歩、前へ出た。


この男が、試合中に足を動かしたことはなかった。

マリアは、それに気づかなかった。リングから目を離せなかったからだ。





ハヤトの拳は、まだ伸びていた。


彫られた道を通って、体の重さの全部が、一滴も漏れずに走っている。

そこへ、道にはなかったものが乗っていた。


山が彫った道は、人間ひとり分の幅しかない。


獣は、そこへ入りきらなかった。


――形が、鳴った。


ハヤトの右肩が、内側から鳴った。


完璧な形は、あふれた分を捨てる場所を持っていなかった。

一滴も漏らさないということは、逃がす穴が一つもない、ということでもある。


漏れなかった代わりに、器のほうが裂けた。



押し込んでいた力が、行き場を失って、外へ逃げた。


ハヤトの腕が、外へ弾かれた。


ランには、裂けるものがなかった。


形を持たない体は、あふれることもない。

拾ったものは、まだどこにも彫られていなかった。



折れかけた肘が、そのまま伸びた。


弾かれた腕の下をくぐって、ランの右が、鳩尾へ入った。



衝撃は、背中まで抜けた。



湯気が、散った。



獣の形をしていたものが、ほどけて、天井の照明のあたりで見えなくなった。



ハヤトの膝が、内側へ折れた。

息を吸う動作の途中で止まったまま、男の体は前へ傾き、板の上へ崩れ落ちた。





審判が、傍らに屈み込んだ。



「――続けるか」


問いは、届かなかった。


男は板に頬をつけたまま、動かなかった。指は開いたままで、握られる気配はない。




「――そこまで!」





審判の手が上がった。




『――決着! 異世界異種格闘技大会、優勝者――ラン選手!』





名前が、天井まで届いた。






柱の陰で、太郎が静かに目を閉じた。


「……上手に彫られすぎたのう」


誰に言うでもない、低い声だった。

それきり何も言わず、ただ、分厚い肩が大きく一度、上下した。




関係者席では、アミがようやく腰を下ろしたところだった。


「ユキちゃん」


「はい」


「……あたし、今日はもう何も言わないでおくわ」


ユキは何も答えず、そっと肩を寄せた。

アミも、寄せ返した。

日傘を置いたままのマリが、いつもの位置で、二人を見ていた。





観客席の最前列で、マリアは手すりを掴んだまま動けずにいた。

やがて、誰にともなく吐き捨てた。

「……あーあ。あたしの心配、全部無駄だったじゃねぇか」

声が、途中で裏返っていた。


その隣で、リョクシは立ったまま、リングの中央だけを見ていた。

「足も、腰も、床も。……あの子は、全部人から拾ったよ」


「あ?」


「だが、最後の一つだけは拾えない。向こうから来るのを待つしかないんだ」

リョクシは、そこでようやくマリアを見た。


「昨日、言っただろう。相手だ、と」

歓声は、鳴りやまなかった。


だが、リングの中央に立つ少年は、天を仰がなかった。

両腕を上げもしなかった。


ランは、自分の右手を、目の高さに掲げていた。


握る。

開く。

また、握る。



血と埃にまみれた指が、何度も同じことを繰り返す。

そこに何が入ったのかを、確かめるように。


リョクシだけが、それを見ていた。


少年の右手のまわりで、空気が、ほんのわずかに揺れている。

熱ではない。まだ、何の形も取っていない。


少年は、じっと、自分の拳を見つめていた。


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