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深山幽谷  作者: 真亭甘
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刻み付けた拳VS狩り得た拳

低い音が、止めた。


声ではなかった。

言葉でもなかった。

喉の奥から、息と一緒に押し出された、ただの音だった。


審判の手が、宙で止まった。

ハヤトの肘が、板を突いた。

膝が入る。顎から垂れた血が、糸を引いて板を叩いた。


男は、立った。


闘技場が、爆発した。様な熱を持った風が。

その音の中で、立ち上がった男の肩から、うっすらと湯気が上がっていた。


汗が冷えて立つ、あの白い湯気ではない。

上へ行くほど薄くなるはずのものが、上へ行くほど濃くなっていた。




「……今の音」

マリアの声が掠れていた。


「うん」

リョクシは、リングから目を離さない。


「あれは、山で教わったものじゃない」


「さっきも言ってたな。血を見て指を握るのは、教わってねぇ動きだって」


「あれは、型が崩れた跡だよ」

リョクシは、そこで一度言葉を切った。


「今のは、違う。……あの男の中から、山に彫られる前にいたものが出てきた」


「彫られる前?」


「山は、人間を彫る。……だが、彫る前の材料は、どこから拾ってくると思う」



マリアは、答えられなかった。


「山を下りて、里を歩いて、まだ何者でもない獣を一匹、連れて帰るんだ」


リョクシの唇が、わずかに笑いの形になった。


「今、あの体の中で、その一匹が起きたんだよ」


「……なあ」

マリアの声が、少しだけ変わった。


「あの男の、右肩の上」


「見えるかい」


「……揺れてる。焚き火の上みてぇに、空気が」


「アニマだよ」

マリアが、リョクシの横顔を見た。


「アニマ? あの男、ここまで一度も出してねぇぞ。予選から一度もだ」


「出していないんじゃない。外へ出さない流派なんだ」


「あ?」


「山の型は、彫った道の内側にだけアニマを通す。だから一滴も漏れない。……漏れないということは、外からは何も見えない、ということでもある」

リョクシの目が、細くなった。


「今、それが道からはみ出した」




ハヤトは血を吐き捨て、それから、ほんの少しだけ笑った。

「山じゃあな」


「あ?」


「勝ち方だけじゃない。負け方まで教わるんだ」

男は、崩れた構えを直そうともしなかった。


「……最後まで、前へ出て終われ。ってな」

赤い唾を落として、男は付け加えた。


「――降参の仕方だけは、誰も教えてくれなかった」


再び、二人は真ん中で噛み合った。


ハヤトの肘がランの耳を裂き、ランの拳がハヤトの脇腹に食い込み、その体を折り曲げる。

どちらも避けない。どちらも下がらない。

血が板に散り、足が滑り、それでも二人は同じ場所に立ち続けた。



二度目に落ちたのも、ハヤトだった。


審判が、一歩踏み出す。


その前に、男の目が上がった。


血に塗れた顔の中で、瞳だけが小さく絞られている。

痛みを見ている目ではなかった。獲物を見る目でもなかった。邪魔をするものを見る、獣の目だった。


審判は、口を開かなかった。


問う必要が、なかった。

答えが返ってくると分かる目だった。――それも、聞きたくないほうの答えが。


膝が立ち、踵が板を噛み、男はまた前へ出た。



そのとき、男の背が、大きくなった。

錯覚ではなかった。

肩の上の揺らぎが、上へ伸びながら形を取っていく。厚い前肢。低く落ちた頭。首の後ろで逆立った毛の一本一本まで、湯気でできているとは思えないほどはっきりと。


日に焼けた男の、二回りも三回りも大きな影が、板の上に伸びた。


最前列の客が、椅子ごと後ろへ下がった。

売り子が桶を取り落とし、水が階段を流れ落ちても、誰も足をどけなかった。



柱の陰で、太郎が、ゆっくりと顎を上げた。


「……のうなったのう。型が」


低い声だった。


「そのぶん、でかいのが出ちょる」





観客席の一角で、椅子が鳴った。


本戦で敗れた者たちが、誰からともなく立ち上がっていた。

剣を提げた男も、槍を杖代わりにしていた男も、拳ひとつで勝ち上がってきた男も。


誰も、声を上げなかった。

名前を呼びもしない。手も叩かない。ただ、立った。


礼のためだけではなかった。

座っていられなかったのだ。あれを座って見られる人間は、あの席には一人もいなかった。


その全員が、一度は同じ問いの前に立たされている。

――続けるか、と。


だから、知っていた。

あの問いに、口ではなく体で答え続けることが、どれだけ高くつくのかを。





ハヤトの肩が、上下した。

それから、口の中の血を飲み下して、短く言った。

「……そういうふうに、彫られた」


「彫られた?」


「同じ動きを、何万回もやる」

息を継ぐ音が、混じった。


「……体に彫り込むまでな。そうすれば、考える前に手が出る」

ハヤトは、自分の右手を見た。

その手首から先を、獣の前肢が、影のようになぞっている。


「強いぞ。……だが、彫っていない動きは、出てこん」

男は、そこで一度、言葉を切った。


「……はずだった」

血の混じった息を吐いて、男はもう一度、構えを取った。

今度は、崩れていなかった。


「あんたは逆だ」


「あ?」


「彫られていない。その代わり、その場で拾う」

ハヤトの目が、まっすぐにランを射た。


「三日で三つ拾う奴は、山にもおらん」

赤い息を、一度継いだ。


「……だから来る。これが最後まで見られる場所は、ここしかない」


観客席で、マリアが口を押さえた。

「……あいつ、」


「うん」

リョクシは頷いた。


「今のは、負けを認めた言葉じゃないよ。あれは、確かめに来た男の言葉だ」


「なにを確かめるんだよ、あんな体になってまで」


「彫った拳と、拾った拳。どちらが遠くまで届くのかをだ」


マリアは、しばらく黙っていた。

それから、手すりを掴む指に力を込めた。


「……なあ。あいつ、なんかヤベェぞ」


「うん」


「否定しろよ」


「できないよ」

リョクシは、リングから目を離さないまま言った。


「ランのアニマは、まだ形を持っていない。予選のときから、ずっとだ。あの子の中には、恐ろしいほどの量が詰まっている。……詰まっているだけだ」


「向こうは」


「たった今、形を持った」

リョクシが、静かに立ち上がった。

白と黒の羽衣が、その動きにつられて、翼のように広がる。


「マリア」


「……なんだよ」


「まばたきをするなら、今のうちだよ」



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