形
闘技場が、揺れた。
「当てた……あいつ、当てやがった!」
マリアが手すりを掴んだまま立ち上がる。
「掠めただけだよ」
「掠めただけでも当たりは当たりだろ!」
「そうだね」
リョクシは、そこで初めて笑った。
「……そうだ。当たりは当たりだ」
関係者席で、ユキが小さく身を起こしていた。
「アミさん」
「見てるわよ」
アミの声から、いつもの粘りが抜けている。
「あの子ね。あたしのときは、最後の一発だけだったのよ。今のは全部繋がってる。……足の裏から、指の先まで」
「三日です」
「三日ね」
アミは天井を仰ぎ、それから、笑った。
「あたしの十年って、なんだったのかしら」
リングの上で、ハヤトが頬に触れた。
指先についた血を見て、それから、その指を握り込んだ。
握り込む――その動作が、ほんの少しだけ遅かった。
「……ああ」
リョクシが、息を漏らすように言った。
「出たね」
「なにが」
「今の握り方は、あの男が教わったものじゃない」
マリアが眉を寄せる。
「血を見て指を握る。驚いたとき、人間が勝手にやることだよ。山では習わない。……あの男の体で、初めて『教わっていないもの』が動いた」
「……それ、いいことなのか」
「あの男にとっては、良くない」
リョクシの目が、細くなる。
「型というのはね、崩れないから型なんだ。崩れた瞬間に、それはただの人間の動きになる。……そしてランは、人間の動きなら、生まれてからずっと読んできた」
ハヤトが踏み込んだ。
今度は、ランの首を取りにきた。
両腕が伸び、後頭部で組み合わさる。ランの顎が、下へ引き落とされた。
膝が来た。
一発目で、ランの肺が空になった。
二発目で、視界の端が白く散った。
三発目が来る前に、ランは決めた。
引かれている。
なら、行ってやる。
ランは、逆らわなかった。
踏ん張るのをやめ、体重の全部を、引かれる方向へ預けた。
ハヤトの腕が、抵抗を失った。
引くつもりで力を込めていた分だけ、自分の体が後ろへ流れる。組んだ両腕の中で、少年の重さが消えた。
(――軽い)
教わった手順に、この重さの消え方はなかった。
ランの背が、下から伸びた。
膝が伸び、腰が跳ね、右の拳が、組み合わされた腕の内側を通り抜ける。
それは、ハヤトの顎の先を正確に打ち上げた。
男の踵が、板から浮いた。
「入った――!」
叫んだのは、マリアではなかった。
会場の隅、村の一団の中で、包帯を巻いた青年が両手を口に当てて立ち尽くしていた。
「……あ」
ナトは、自分が叫んだことに気づいて、口を押さえた。
胸の木札が、指の間で震えている。
「……すまん」
誰にともなく呟いて、それでも、彼は目を逸らさなかった。
ハヤトは倒れなかった。
二歩、たたらを踏み、ロープに背が触れたところで踏みとどまる。
口の端から糸を引いて血が落ちた。
そして――速くなった。
「……立て直さない」
リョクシの声が、初めて低くなった。
「普通なら、今のは力ずくで踏ん張るとこだろ」
マリアが言う。
「普通はね。踏ん張れば、崩れた形を元に戻せる。だが元に戻せば、また同じ形だ。同じ形は、もうランに読まれている」
「じゃあ」
「速さで塗り潰しにきた。……形を捨てたんだよ、あの男は」
肘、膝、脛、拳。
順番も間合いも整っていない。ただ、途切れない。
ランの体が削られていく。
肩が裂け、胸板に赤い線が増え、眉の傷から流れた血が顎で溜まって落ちた。
だが。
殴られるたびに、ランの腰が下がっていた。
一発ごとに、爪先が板の目を深く噛む。
一発ごとに、重心が沈む。
逃げるためではない。逃げないための沈み方だった。
リョクシの唇が、わずかに動いた。
「……床、か」
マリアが振り向く。
「あ?」
リョクシは、リングの中央を見たまま言った。
「壊した相手から、使い方を教わったんだ」
そこから先は、技のない殴り合いになった。
互いに防御を捨てた。
避ければ一発遅れる。遅れれば、そのぶん相手が生きる。二人とも、それを承知で前に出続けた。
観客の声が、途中から途切れた。
悲鳴とも歓声ともつかない音が、天井を叩き、それから、誰も何も言わなくなった。数万人が黙って見ているというのは、それだけで異様な圧を生んだ。
柱の陰で、太郎が組んでいた腕をほどいた。
「……重うなっちょる」
低い声だった。
「一発ごとに重うなっちょるぜよ、あの拳は。殴られながら、殴り方を覚えよる」
太郎は、一度、目を伏せた。
「わしのときと同じじゃ」
ハヤトの息に、血の泡が混じり始めた。
それでも、二人とも下がらなかった。
ランの右が、横から入った。
腰が回り、肩が乗り、拳の先まで力が漏れずに届いた一撃だった。
ハヤトの足が、板を離れた。
体が半分だけ回り、そのまま横向きに落ちる。
板が、鳴った。
審判が、割って入った。
だが、数えなかった。
この大会に、数はない。
倒れたまま十を聞けば助かる、という道はない。失神するか、自分の口で終わりを言うか。それだけだった。
審判はハヤトの脇に片膝をつき、その顔を覗き込んだ。
「――続けるか」
それは、降参の意思を問う言葉だ。
この大会で、審判が倒れた男にかけられる、唯一の言葉だった。
闘技場が、静まり返った。
「……おい、なんで誰も数えねぇんだよ」
マリアが手すりを両手で掴んだ。
「数える大会じゃないよ」
リョクシの声は静かだった。
「十まで待ってくれる審判もいない。間に入ってくれる鐘もない。……場外という逃げ道はあるが、あの二人には関係がないね。どちらも、後ろへ下がらない」
「じゃあ、あいつはどうすんだよ」
「自分で決める。……立つか、言うか」
板の上で、ハヤトの指が動いた。
爪が、板の目を掻く。
一度、二度。握り込む力は残っていない。開いたままの指が、木の表面をただ探っている。
審判の手が、上がりかけた。
続行不能と見れば、そこで終わる。
問いに答えられない者は、答えられないという事実で終わるのだ。
その手を――




