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深山幽谷  作者: 真亭甘
29/55

形

闘技場が、揺れた。



「当てた……あいつ、当てやがった!」

マリアが手すりを掴んだまま立ち上がる。


「掠めただけだよ」


「掠めただけでも当たりは当たりだろ!」


「そうだね」

リョクシは、そこで初めて笑った。


「……そうだ。当たりは当たりだ」




関係者席で、ユキが小さく身を起こしていた。


「アミさん」


「見てるわよ」

アミの声から、いつもの粘りが抜けている。


「あの子ね。あたしのときは、最後の一発だけだったのよ。今のは全部繋がってる。……足の裏から、指の先まで」


「三日です」


「三日ね」


アミは天井を仰ぎ、それから、笑った。


「あたしの十年って、なんだったのかしら」






リングの上で、ハヤトが頬に触れた。

指先についた血を見て、それから、その指を握り込んだ。




握り込む――その動作が、ほんの少しだけ遅かった。


「……ああ」

リョクシが、息を漏らすように言った。


「出たね」


「なにが」


「今の握り方は、あの男が教わったものじゃない」


マリアが眉を寄せる。


「血を見て指を握る。驚いたとき、人間が勝手にやることだよ。山では習わない。……あの男の体で、初めて『教わっていないもの』が動いた」


「……それ、いいことなのか」


「あの男にとっては、良くない」

リョクシの目が、細くなる。


「型というのはね、崩れないから型なんだ。崩れた瞬間に、それはただの人間の動きになる。……そしてランは、人間の動きなら、生まれてからずっと読んできた」





ハヤトが踏み込んだ。


今度は、ランの首を取りにきた。

両腕が伸び、後頭部で組み合わさる。ランの顎が、下へ引き落とされた。


膝が来た。


一発目で、ランの肺が空になった。

二発目で、視界の端が白く散った。

三発目が来る前に、ランは決めた。


引かれている。


なら、行ってやる。


ランは、逆らわなかった。

踏ん張るのをやめ、体重の全部を、引かれる方向へ預けた。


ハヤトの腕が、抵抗を失った。

引くつもりで力を込めていた分だけ、自分の体が後ろへ流れる。組んだ両腕の中で、少年の重さが消えた。



(――軽い)


教わった手順に、この重さの消え方はなかった。


ランの背が、下から伸びた。


膝が伸び、腰が跳ね、右の拳が、組み合わされた腕の内側を通り抜ける。

それは、ハヤトの顎の先を正確に打ち上げた。


男の踵が、板から浮いた。





「入った――!」


叫んだのは、マリアではなかった。

会場の隅、村の一団の中で、包帯を巻いた青年が両手を口に当てて立ち尽くしていた。



「……あ」



ナトは、自分が叫んだことに気づいて、口を押さえた。

胸の木札が、指の間で震えている。


「……すまん」

誰にともなく呟いて、それでも、彼は目を逸らさなかった。






ハヤトは倒れなかった。


二歩、たたらを踏み、ロープに背が触れたところで踏みとどまる。

口の端から糸を引いて血が落ちた。


そして――速くなった。




「……立て直さない」

リョクシの声が、初めて低くなった。


「普通なら、今のは力ずくで踏ん張るとこだろ」

マリアが言う。


「普通はね。踏ん張れば、崩れた形を元に戻せる。だが元に戻せば、また同じ形だ。同じ形は、もうランに読まれている」


「じゃあ」


「速さで塗り潰しにきた。……形を捨てたんだよ、あの男は」


肘、膝、脛、拳。

順番も間合いも整っていない。ただ、途切れない。



ランの体が削られていく。

肩が裂け、胸板に赤い線が増え、眉の傷から流れた血が顎で溜まって落ちた。



だが。


殴られるたびに、ランの腰が下がっていた。



一発ごとに、爪先が板の目を深く噛む。

一発ごとに、重心が沈む。

逃げるためではない。逃げないための沈み方だった。





リョクシの唇が、わずかに動いた。


「……床、か」


マリアが振り向く。


「あ?」


リョクシは、リングの中央を見たまま言った。


「壊した相手から、使い方を教わったんだ」


そこから先は、技のない殴り合いになった。


互いに防御を捨てた。

避ければ一発遅れる。遅れれば、そのぶん相手が生きる。二人とも、それを承知で前に出続けた。



観客の声が、途中から途切れた。

悲鳴とも歓声ともつかない音が、天井を叩き、それから、誰も何も言わなくなった。数万人が黙って見ているというのは、それだけで異様な圧を生んだ。



柱の陰で、太郎が組んでいた腕をほどいた。

「……重うなっちょる」

低い声だった。


「一発ごとに重うなっちょるぜよ、あの拳は。殴られながら、殴り方を覚えよる」

太郎は、一度、目を伏せた。


「わしのときと同じじゃ」







ハヤトの息に、血の泡が混じり始めた。

それでも、二人とも下がらなかった。



ランの右が、横から入った。

腰が回り、肩が乗り、拳の先まで力が漏れずに届いた一撃だった。



ハヤトの足が、板を離れた。

体が半分だけ回り、そのまま横向きに落ちる。

板が、鳴った。





審判が、割って入った。

だが、数えなかった。


この大会に、数はない。

倒れたまま十を聞けば助かる、という道はない。失神するか、自分の口で終わりを言うか。それだけだった。



審判はハヤトの脇に片膝をつき、その顔を覗き込んだ。


「――続けるか」


それは、降参の意思を問う言葉だ。

この大会で、審判が倒れた男にかけられる、唯一の言葉だった。


闘技場が、静まり返った。



「……おい、なんで誰も数えねぇんだよ」

マリアが手すりを両手で掴んだ。


「数える大会じゃないよ」

リョクシの声は静かだった。


「十まで待ってくれる審判もいない。間に入ってくれる鐘もない。……場外という逃げ道はあるが、あの二人には関係がないね。どちらも、後ろへ下がらない」



「じゃあ、あいつはどうすんだよ」


「自分で決める。……立つか、言うか」




板の上で、ハヤトの指が動いた。


爪が、板の目を掻く。

一度、二度。握り込む力は残っていない。開いたままの指が、木の表面をただ探っている。


審判の手が、上がりかけた。


続行不能と見れば、そこで終わる。

問いに答えられない者は、答えられないという事実で終わるのだ。



その手を――

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