ランVSハヤト
審判の右手が、高く上がった。
「決勝――構えろ」
歓声が、引いた。
数万の観衆が同時に息を吸い込んだせいで、闘技場の空気そのものが一度薄くなったように感じられた。天井の高みで、照明の光が細かく震えている。
ゴング。
ハヤトは動かなかった。
ランも、動かなかった。
会場が、ざわめいた。
「……おい」
マリアが手すりから身を乗り出す。
「あいつ、行かねぇぞ」
観客席の最前列で、リョクシは羽衣の裾を膝の上に落としたまま、リングを見ていた。
「うん」
「一回戦も、二回戦も、昨日も、鳴った瞬間に飛び出してった奴だぞ。腹でも壊したか」
「あの子はもう、突っ込むことだけが答えじゃないと知っている」
マリアが、横顔を見た。
「……いつ覚えた」
「昨日だろうね。床を殴ったときに」
リングの上で、ランは動かなかった。
構えというより、獲物の前で息を殺している獣の姿勢だった。両足だけが、板の硬さを何度も確かめている。
ハヤトの目が、細くなった。
「待つのか」
「腹が減ってると、あんまり動きたくねぇんだ」
「……そうか」
日に焼けた男の左足が、板を撫でるように滑った。
それは、蹴りではなかった。
半歩。ただの半歩だった。
だがその半歩で、ランの左側にあったはずの空間が消えた。
ランが右へ体を流す。
流した先に、脛があった。
胴へ食い込んだ。
息が、体の外へ押し出される。ランの足の裏が板を擦り、そのまま二歩ぶん後ろへ滑った。
「……今の、見えたか」
マリアの声が硬い。
「あいつ、避けたぞ。避けた先に、もう蹴りがあった」
「そうだよ」
リョクシは、リングから目を離さない。
「あの男は、ランが今いる場所を蹴らない。これから行く場所に、先に置いておくんだ」
「置いておく?」
「半歩で退路を一つ潰す。潰された側は、残った道を選ぶしかない。残した道は、あの男が残したものだ。……蹴りが速いんじゃない。あの子が選ぶより先に、選ばせているんだよ」
マリアは何も言わなかった。
言葉が出るより先に、リングの上でもう一度、同じことが起きていた。
ランが下がる。下がった先に脛が待っている。
ランが横へ回る。回った先に膝が置かれている。
逃げ場のない方向へ、逃げる暇のない速度で追い込まれ、それでもランは倒れなかった。腕を上げ、肩を入れ、胴を締め、受けきれない分は板へ流した。昨日、床から教わったものだった。
だが、肘は流せなかった。
顔の前で腕を締めた、その隙間へ、肘が上から鋭角に落ちてきた。
眉の上が裂けた。血が、右目に入った。
「ラン!」
マリアが叫ぶ。
関係者席では、ユキが膝の上で手を組み直していた。日傘を畳んだマリが、いつもの位置で静かに立っている。
「……あの子、拭かないわね」
背もたれに体を預けたまま、アミが言った。腹に巻いた晒しの上を、掌がゆっくりとなぞる。
「拭けば一瞬、目を閉じます」
ユキが答えた。
「あの人は、その一瞬を蹴ってきます」
アミは、ふうん、と息を吐いた。
「じゃあ、あの子は片目で殴り合うのね」
「そうなります」
観客席の一角には、本戦で敗れた者たちが固まって座っていた。
剣を提げた男も、槍を杖代わりにしている男も、拳ひとつで勝ち上がってきた男もいる。誰も酒を飲んでいなかった。屋台の匂いだけが、場違いな顔をして漂っている。
「……なあ」
一人が、隣に聞いた。
「あの小僧、何発もらった」
「数えてねぇよ、そんなもん」
「俺は数えてた。十九だ」
男は、そこで口をつぐんだ。
十九もらって、足の裏がまだ一度も浮いていない。
それが何を意味するのかは、この席に座っている全員が、頭ではなく体で知っていた。
柱の陰では、腰に厚い帯を巻いた分厚い背中が動かなかった。
太郎は腕を組んだまま、昨日崩れ、張り替えられたばかりのリングを見上げている。
「……見ちょれ」
誰に言うでもなく、低く漏らした。
「ランは、痛いほうへ行く癖があるき。行かせちゃれ」
会場の隅、陽に灼けた一団の中に、脛から膝まで包帯を巻いた青年が立っていた。
首から下げた木の札が、身を乗り出すたびに胸を打っている。焼き印がひとつ。山の形を模した、簡素な紋。
ナトは、それを握った。
リングの上で、ランが血を舐めた。
一発、二発と肘が来る。三発目で、ランの首が跳ねた。
それでも足は下がらない。下がった分だけ、また前に出る。
ハヤトの脛が跳ね上がった。
ランは、それを受けなかった。
避けもしなかった。
半歩、前へ出た。
威力が最も乗る先端を通り越し、まだ威力の乗り切っていない付け根に近い場所を、肩と首筋で押さえ込む。
骨が軋んだ。だが、ランの体は宙に浮かなかった。
「……なるほど」
リョクシの指が、羽衣の下でわずかに動いた。
「一回戦で足運びを、二回戦で腰を、昨日は床を覚えた。……そして今、どこで受ければ痛くないかを覚えている。ずいぶん安く売ってくれるね、あの男は」
「褒めてんのか、けなしてんのか、どっちだよ」
「褒めているよ。教える側は、教えているつもりがないときが一番よく教える」
ハヤトが脚を引き戻す。
その一拍を、ランは見ていなかった。
嗅いでいた。
汗の匂いでもなく、血の匂いでもない。
蹴りが出る直前、この男の胸から出ていくものが、ほんの一瞬だけ止まる。
息だ。
ランの喉が、ひくりと鳴った。
「見つけた」
ランが笑った。
血に濡れた右目を細めたまま、歯を剥き出しにして笑った。
「おまえ、蹴る前に息を止めてるな」
ハヤトは答えなかった。
「でも変だ。癖ってのは、もっと出てる。おまえのは、隠してある」
ランは、首を傾げた。
考えているというより、匂いの出どころを探している顔だった。
「……隠し方も、教わったんだろ。それも」
ハヤトの構えが、動かなくなった。
「なら、そこも壊せるってことだ」
観客席で、マリアが小さく息を呑んだ。
「あいつ、今、なんて」
「教わったものには、教えた跡が残っている、と言ったんだよ」
リョクシの声は静かだった。
「跡があるなら、辿れる。……足も、腰も、もう繋がっている。あとは、まだ来ていないものが一つだけだ」
「なんだよ、それ」
リョクシは答えなかった。
その代わり、羽衣の下で組んだ指が、ほんのわずかに白くなった。
ハヤトが、初めて自分から間合いを詰めた。
半歩ではなかった。一歩だった。
置いてから蹴るのではなく、置く前に蹴った。それはこの男が今日、初めて見せた雑さだった。
ランは下がらなかった。
下がる代わりに、差し出された脚と同じ方向へ、体ごと流れた。
逆らわなければ、力は行き場を失う。
昨日、太郎の体が拳を全部床へ捨てていたのと、同じことを、逆側からやった。
ハヤトの蹴りが、空気を撫でて抜けた。
そして、ランの右が返った。
大振りではなかった。
腰が先に回り、拳が後から追いかけた。二日前に覚えたばかりの、腰から出る拳。
掠めた。
ハヤトの頬の皮が薄く裂け、血の線が一本、顎まで走った。




