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深山幽谷  作者: 真亭甘
28/55

ランVSハヤト

審判の右手が、高く上がった。


「決勝――構えろ」


歓声が、引いた。

数万の観衆が同時に息を吸い込んだせいで、闘技場の空気そのものが一度薄くなったように感じられた。天井の高みで、照明の光が細かく震えている。


ゴング。


ハヤトは動かなかった。

ランも、動かなかった。

会場が、ざわめいた。



「……おい」

マリアが手すりから身を乗り出す。


「あいつ、行かねぇぞ」

観客席の最前列で、リョクシは羽衣の裾を膝の上に落としたまま、リングを見ていた。


「うん」



「一回戦も、二回戦も、昨日も、鳴った瞬間に飛び出してった奴だぞ。腹でも壊したか」



「あの子はもう、突っ込むことだけが答えじゃないと知っている」


マリアが、横顔を見た。

「……いつ覚えた」


「昨日だろうね。床を殴ったときに」



リングの上で、ランは動かなかった。

構えというより、獲物の前で息を殺している獣の姿勢だった。両足だけが、板の硬さを何度も確かめている。

ハヤトの目が、細くなった。


「待つのか」


「腹が減ってると、あんまり動きたくねぇんだ」



「……そうか」

日に焼けた男の左足が、板を撫でるように滑った。



それは、蹴りではなかった。

半歩。ただの半歩だった。

だがその半歩で、ランの左側にあったはずの空間が消えた。



ランが右へ体を流す。

流した先に、脛があった。


胴へ食い込んだ。

息が、体の外へ押し出される。ランの足の裏が板を擦り、そのまま二歩ぶん後ろへ滑った。



「……今の、見えたか」

マリアの声が硬い。


「あいつ、避けたぞ。避けた先に、もう蹴りがあった」


「そうだよ」

リョクシは、リングから目を離さない。


「あの男は、ランが今いる場所を蹴らない。これから行く場所に、先に置いておくんだ」



「置いておく?」


「半歩で退路を一つ潰す。潰された側は、残った道を選ぶしかない。残した道は、あの男が残したものだ。……蹴りが速いんじゃない。あの子が選ぶより先に、選ばせているんだよ」


マリアは何も言わなかった。

言葉が出るより先に、リングの上でもう一度、同じことが起きていた。

ランが下がる。下がった先に脛が待っている。

ランが横へ回る。回った先に膝が置かれている。

逃げ場のない方向へ、逃げる暇のない速度で追い込まれ、それでもランは倒れなかった。腕を上げ、肩を入れ、胴を締め、受けきれない分は板へ流した。昨日、床から教わったものだった。


だが、肘は流せなかった。


顔の前で腕を締めた、その隙間へ、肘が上から鋭角に落ちてきた。

眉の上が裂けた。血が、右目に入った。


「ラン!」


マリアが叫ぶ。

関係者席では、ユキが膝の上で手を組み直していた。日傘を畳んだマリが、いつもの位置で静かに立っている。



「……あの子、拭かないわね」

背もたれに体を預けたまま、アミが言った。腹に巻いた晒しの上を、掌がゆっくりとなぞる。


「拭けば一瞬、目を閉じます」

ユキが答えた。



「あの人は、その一瞬を蹴ってきます」

アミは、ふうん、と息を吐いた。


「じゃあ、あの子は片目で殴り合うのね」


「そうなります」

観客席の一角には、本戦で敗れた者たちが固まって座っていた。

剣を提げた男も、槍を杖代わりにしている男も、拳ひとつで勝ち上がってきた男もいる。誰も酒を飲んでいなかった。屋台の匂いだけが、場違いな顔をして漂っている。


「……なあ」

一人が、隣に聞いた。


「あの小僧、何発もらった」


「数えてねぇよ、そんなもん」


「俺は数えてた。十九だ」

男は、そこで口をつぐんだ。


十九もらって、足の裏がまだ一度も浮いていない。

それが何を意味するのかは、この席に座っている全員が、頭ではなく体で知っていた。

柱の陰では、腰に厚い帯を巻いた分厚い背中が動かなかった。

太郎は腕を組んだまま、昨日崩れ、張り替えられたばかりのリングを見上げている。


「……見ちょれ」

誰に言うでもなく、低く漏らした。


「ランは、痛いほうへ行く癖があるき。行かせちゃれ」


会場の隅、陽に灼けた一団の中に、脛から膝まで包帯を巻いた青年が立っていた。

首から下げた木の札が、身を乗り出すたびに胸を打っている。焼き印がひとつ。山の形を模した、簡素な紋。


ナトは、それを握った。


リングの上で、ランが血を舐めた。


一発、二発と肘が来る。三発目で、ランの首が跳ねた。

それでも足は下がらない。下がった分だけ、また前に出る。


ハヤトの脛が跳ね上がった。


ランは、それを受けなかった。

避けもしなかった。


半歩、前へ出た。

威力が最も乗る先端を通り越し、まだ威力の乗り切っていない付け根に近い場所を、肩と首筋で押さえ込む。

骨が軋んだ。だが、ランの体は宙に浮かなかった。


「……なるほど」

リョクシの指が、羽衣の下でわずかに動いた。


「一回戦で足運びを、二回戦で腰を、昨日は床を覚えた。……そして今、どこで受ければ痛くないかを覚えている。ずいぶん安く売ってくれるね、あの男は」


「褒めてんのか、けなしてんのか、どっちだよ」


「褒めているよ。教える側は、教えているつもりがないときが一番よく教える」


ハヤトが脚を引き戻す。

その一拍を、ランは見ていなかった。


嗅いでいた。


汗の匂いでもなく、血の匂いでもない。

蹴りが出る直前、この男の胸から出ていくものが、ほんの一瞬だけ止まる。


息だ。

ランの喉が、ひくりと鳴った。


「見つけた」


ランが笑った。

血に濡れた右目を細めたまま、歯を剥き出しにして笑った。


「おまえ、蹴る前に息を止めてるな」


ハヤトは答えなかった。


「でも変だ。癖ってのは、もっと出てる。おまえのは、隠してある」

ランは、首を傾げた。

考えているというより、匂いの出どころを探している顔だった。



「……隠し方も、教わったんだろ。それも」

ハヤトの構えが、動かなくなった。


「なら、そこも壊せるってことだ」




観客席で、マリアが小さく息を呑んだ。


「あいつ、今、なんて」


「教わったものには、教えた跡が残っている、と言ったんだよ」

リョクシの声は静かだった。


「跡があるなら、辿れる。……足も、腰も、もう繋がっている。あとは、まだ来ていないものが一つだけだ」


「なんだよ、それ」


リョクシは答えなかった。

その代わり、羽衣の下で組んだ指が、ほんのわずかに白くなった。


ハヤトが、初めて自分から間合いを詰めた。



半歩ではなかった。一歩だった。

置いてから蹴るのではなく、置く前に蹴った。それはこの男が今日、初めて見せた雑さだった。



ランは下がらなかった。

下がる代わりに、差し出された脚と同じ方向へ、体ごと流れた。


逆らわなければ、力は行き場を失う。

昨日、太郎の体が拳を全部床へ捨てていたのと、同じことを、逆側からやった。



ハヤトの蹴りが、空気を撫でて抜けた。


そして、ランの右が返った。


大振りではなかった。

腰が先に回り、拳が後から追いかけた。二日前に覚えたばかりの、腰から出る拳。


掠めた。



ハヤトの頬の皮が薄く裂け、血の線が一本、顎まで走った。

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