接続章2
二回戦の日の、夕刻。
救護室の扉を押し開けて立った男は、中へは入ってこなかった。敷居の手前で足を止めたまま、寝台の上の女を見る。
「怪我人にすまんな。手短にする」
「あら、優しい」
アミは頬杖をついたまま笑った。
「入ってきていいのよ。取って食わないから」
「入ると匂いが強くなる」
ハヤトは表情を変えずに言った。
「あんたの技は知っている。効きにくい体だが、効かんわけじゃない。用心してるだけだ」
「……ふうん」
アミの目が、少しだけ細くなる。ユキは扉の脇に立ち、鞄を抱えたマリを半歩後ろへ下がらせた。
「ご用件は」
「あの小僧のことだ」
ハヤトは、ようやく本題を口にした。
「あんたの香りが、あいつには効かなかった。……何が起きた」
「聞いてどうするの?」
「明日、明後日に当たるかもしれん」
「正直ねぇ」
アミは晒しの上を撫でながら、少し考えて、それから素直に答えた。
「効いたわよ。ちゃんと届いた」
「効かなかったんじゃないのか」
「届いたのに、別のものになって届いたの」
ハヤトの眉が、初めて動いた。
「あたしの香りはね、その人の一番欲しいものを大きくして返すの。だから、欲しいものが分かりやすい人ほどよく落ちる。……あの子は、女も、金も、勝ちも欲しがってなかった」
「では何を」
「腹いっぱい」
沈黙が落ちた。
「それだけ。ほんとにそれだけ。あたし、生まれて初めて、腹を満たす夢を見せた女になったのよ」
アミは、けらけらと笑った。笑ってから腹を押さえて呻き、ユキに睨まれた。
「で、あの子ね。その夢を自分から蹴り崩したの。満腹は終わりだって。腹が減ってないと狩りに出ないから、って」
ハヤトは、しばらく黙っていた。
「……礼を言う」
「あら、それだけ?」
「それだけだ」
背を向けかけた男に、ユキが声をかけた。
「一つ、よろしいですか」
「なんだ」
「札、出さないんですね」
ハヤトの足が止まった。
「腰のところ、指が探っていましたよ。うちの誰かに渡すつもりだったんでしょう」
「……よく見てる」
「見るのが仕事ですから」
ハヤトは振り返らないまま、短く答えた。
「山は、帰る場所のない奴が行くところだ。あんたらには要らん。それに必要無いだろ?来る事は拒まない!」
扉が閉まった。
足音が遠ざかるのを待ってから、アミが寝台に寝転がった。
「ねえユキちゃん。あの人、なんか怖い顔してたね」
「怖いというより」
ユキは扉を見つめたまま、静かに言った。
「――初めて、考えの合わないものに出くわした顔でした」
決勝の朝は、よく晴れていた。
宿の窓辺で羽衣を整えていたリョクシの背に、マリアが声をかけた。
「なあ。あんた、なんであいつをこの大会に出した」
「唐突だね」
「昨日の試合を見て、ずっと考えてた」
マリアは腕を組み、壁にもたれる。
「一回戦で骨が軋んで、二回戦で首を絞められて、昨日は足の裏を血だらけにした。……普通の育て方じゃねぇぞ、あれは」
「普通の育て方をして育つ子なら、私は何もしないよ。それに育てると言った覚えないね」
リョクシは振り返らなかった。
「答えになってねぇ」
「そうだね」
会話はそこで終わった。マリアはそれ以上訊かなかった。訊いても答えないことを、この二年で学んでいる。
扉が開いて、ラン本人が入ってきた。足の裏には布が巻かれ、右手の指の関節は腫れている。それでも、歩き方に狂いはなかった。
「なあ」
「なんだい」
「腹が減った」
マリアが噴き出した。リョクシは真顔で頷いた。
「結構」
「メシは」
「試合のあとだ」
「……ケチ」
ランは不満げに床へ座り込み、それから思い出したように顔を上げた。
「なあ、リョクシ」
「うん」
「勝ち方、教えてくれるか」
部屋の空気が、ほんの少しだけ止まった。
マリアが目を見開き、リョクシのほうを見る。この少年が、誰かに何かを乞うたことなど、一度もなかった。
リョクシは、そこで初めて振り返った。
「一つだけ言っておこう。今日の相手は、これまでの三人とは違う。ナトには理由があった。アミには技があった。太郎には形があった。……あの男には、全部ある」
「ぜんぶ」
「そう。だから、きみが拾えるものも、全部そこにある」
ランは立ち上がった。腹の鳴る音が、はっきりと部屋に響いた。
その日の正午。
修繕を終えたばかりの真新しい床の上で、二人は向かい合った。
日に焼けた男は、静かに構えを取る。上背はさほどでもない。だが、立っているだけで床を掴んでいるのが分かる。
その正面で、少年は構えなかった。
拳を軽く握り、腰を落とし、足の裏で床の硬さを確かめている。ただそれだけの動作が、三日前とは別人のものになっていた。
ハヤトが、初めて口を開いた。
「腹、減ってるらしいな」
「減ってる」
「そうか」
日焼けした男は、わずかに笑った。
「なら、いい試合になる」




