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深山幽谷  作者: 真亭甘
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鍛錬と野生

ランが、しゃがんだ。

そして、床を殴った。



「――は?」

マリアの声が裏返る。



一発ではなかった。二発、三発。子どものような大振りではない。二回戦で覚えたばかりの、腰から出る一撃を、板へ叩き込んだ。

木が悲鳴を上げた。

四発目で、床が抜けた。

太郎の足元から放射状に亀裂が走り、板が跳ね、支えの梁が折れる音が響く。木片と埃が舞い上がり、リングの中央が浅い擂鉢のように陥没した。

会場が爆発した。悲鳴とも歓声ともつかない音が、天井を叩く。



「反則だろ、あれ!」

誰かが叫ぶ。



「いいえ」



審判の声よりも早く、リョクシが答えた。誰に向けたものでもなかった。



「この大会で禁じられているのは、武器と、倒れた相手への追撃だけだ。床を壊すな、とは誰も言っていない」



「あの野郎、そこまで考えて――」



「考えていないよ」

リョクシは首を振った。



「思いついただけだ。あの男が床を使っている。だから床を無くす。……それだけの理屈で、あの子は闘技場を壊した」



崩れた足場の上で、太郎は沈み込んだ。

沈み、傾き――それでも、立て直した。


割れた板の縁を親指の付け根で探り当て、砕けた木片を踏み固め、崩れた地面の中に新しい底を作る。ほんの一拍。だがその一拍のあいだだけ、太郎の重心は、床ではなく彼自身の脚に乗った。




「――来いや」

太郎の掌が、真正面から胸へ入る。



同時に、ランの右が太郎の脇腹へ突き刺さった。

避けない。逸らさない。二人とも、まったく同じことをしていた。



一発。二発。三発。



押される。殴る。押し返される。また殴る。ランの体は下がり、太郎の体は軋み、木片が二人の足の下で砕けていく。



技はもう関係がなかった。鍛錬と、野生が、正面からぶつかっているだけだった。



「見てらんねぇ」

マリアが呻く。



「止めろよ、誰か」



「止めないよ」



リョクシの声は、意外なほど硬かった。



「あれは殴り合いに見えるが、違う。二人とも、相手の一番いいところだけを引き出しにいっている。……ああいうものを、止めてはいけない」



関係者席では、アミが両手を口元に当てていた。



「……ずるいなぁ」



「何がです」



「あたし、あの子の一番いいところ、引き出せなかった」



ユキは横目でその顔を見て、それから前へ向き直った。今のアミの目は、香りを撒くときの目ではなかった。ただ、羨ましがっている女の目だった。





「――そうじゃ」

太郎が、押しながら笑った。



「そうじゃ、それでえい。逃げなや」

ランは答えなかった。答える息がなかった。



代わりに、足の裏を意識した。



板が割れている。まともな床など、もうどこにもない。それでもランは、砕けた木片の隙間に爪先をねじ込み、そこから腰へ、背へ、肩へ、一本の線を通した。



殴られた男から、殴り方を教わっていた。

最後の一撃は、音が違った。

太郎の巨体が、初めて後ろへ流れた。



ほんの数センチ。



その数センチのあいだ、彼の右の踵が――床から、離れた。

太郎は下がらなかった。倒れもしなかった。踏み直し、両足を大地へ戻し、また正面を向いた。

けれど、彼は腕を下ろした。




「……参った」



会場が、静まり返った。



「今、離れた」



太郎は自分の足元を見下ろし、それから審判を見た。



「わしの負けじゃ」



歓声が戻るまでに、五秒かかった。

ランは、まだ拳を握ったまま突っ立っていた。理解していない顔だった。



「まだ倒れてねぇぞ、おまえ」



「倒れておらん」



「じゃあ、なんで終わりなんだ」



太郎は、崩れた床に胡座をかいた。分厚い肩が、大きく上下している。



「わしの名乗りが、終わったがじゃ。足が土を離れた。それだけで、わしはもう『不動』じゃない」



「わかんねぇ」



「わからんでえい」

太郎は笑った。前歯が一本、欠けている。若い顔に、それだけが不似合いだった。



「お前さん、床の使い方を覚えたのう」

ランは自分の足の裏を見た。木片が刺さって血が出ている。



「……教えたのは、おまえだ」



「そうか」

太郎の目が、少しだけ細くなった。



「地に足をつけちょる限り、人はそう簡単に負けん。……じゃが、地から離れるのを怖がらん奴には、勝てんちや」

立ち上がり、太郎はランへ手を差し出した。ランは少し考えて、その手を握った。掌の厚みに、また目を丸くしていた。



観客席で、リョクシは長く息を吐いた。



「……美しかったね」



「どこがだ」

マリアが鼻を鳴らす。



「床壊しやがったんだぞ、あいつ」



「壊し方に迷いがなかった。あれは無知の強さじゃない。もう判断の強さだよ」

リョクシは、修繕のために人が駆け込んでいくリングを見下ろした。



「一回戦で足運びを、二回戦で腰を、そして今、床を覚えた。……次に必要なものは、もう一つしかない」



「なんだよ」



「相手だ」



その視線の先、選手通路の暗がりに、日に焼けた男が立っていた。

ハヤトは腕を組み、崩れた床を一瞥し、それからランの背中を長いこと見つめて――何も言わずに、踵を返した。





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