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深山幽谷  作者: 真亭甘
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屈しない、引かない

太郎の掌が、下から胸へ入った。



打つ動きではなかった。触れて、そのまま押す。ただそれだけの、拳と呼べない攻撃だった。

ランの両足が、板の上を滑った。



「――っ!?」



三十センチ。人生で初めて、ランは自分の意志と無関係に後ろへ動かされた。

蹴られたのでも、投げられたのでもない。押されたのだ。木の枝が風に押されるのと同じ理屈で、この体は動かされた。



二発目。今度は肩口へ。

また滑る。



三発目。

四発目。

呼吸を挟まない。太郎の足は擦るように前へ出続け、そのたびにランの踵が板を削っていく。



「なんで踏ん張れねぇんだ、あいつ!」

マリアが手すりを掴む。



「踏ん張っているよ」

リョクシは言った。



「踏ん張っている上で、押し負けている。……あれは腕で押しているんじゃない。歩いているだけだ。歩くのに使う力は、腕で押す力の何倍も大きい」



ランは膝を折らなかった。



腰を落とし、爪先を立て、床へ食い込ませる。獣が滑る岩場で踏みとどまるときの姿勢だった。それでも、じり、じりと下がる。

下がりながら、ランは殴っていた。



脇腹へ。顎へ。胸へ。当たっている。確かに当たっている。太郎の皮膚は赤く腫れ、汗が飛び、息も乱れている。効いていないわけではない。



それでも、止まらない。

殴られた分だけ足を止める、という当たり前が、この男には存在しなかった。痛みと前進が、まったく別の場所で処理されている。



(――こいつ、痛がってるのに、進んでくる)



森でも、そんな獣は見たことがなかった。傷を負えば必ず退く。それが生き物の理だ。理を無視するものを、ランは知らない。

背中に、ロープが触れた。




「わしはの」

太郎の声が、押しながら降ってきた。



「退かんことだけを覚えた」



掌が、また入る。




「打つのは下手じゃ。速う動くのも苦手じゃ。餓鬼の頃、それで散々笑われた。……じゃき、一つに絞った。何をされても、退かん。それだけじゃ」



ロープが軋む。ランの背が反り、視界の端で天井が傾いた。



「十年、それだけをやっちょる」



ランは吼えた。

押し返そうとした。掌を掴み、腰を入れ、渾身の力で前へ出る。



太郎の体が、わずかに沈んだ。



そして、消えた。



正確には、ランの足裏から床が消えた。掴みかかった腕を支点にして、太郎の腰がひとつ落ちただけだった。それだけで、ランの体は前へ泳ぎ、掬い上げられ、宙で半回転した。

背中から、床。

会場が揺れた。



「――ラン!」

マリアが立ち上がる。リョクシは動かなかった。



「起きるよ」



「根拠は」



「あの子は、寝るという概念を持っていない」



事実、ランは起きた。口の端から血を垂らし、肩で息をしながら、それでも立った。



そして、笑った。



「重い」



ぽつりと言う。



「おまえ、すげぇ重い」



太郎は答えなかった。ただ、その分厚い体で正面に立ち続けている。

関係者席では、アミが背もたれから体を起こしていた。



「ちょっと。あの子、笑ってるわよ」



「アミさん、傷が開きます」



「開いてもいいわよこんなの」



アミは目を細めた。試合を見る目ではなかった。獲物を品定めする目でもない。もっと単純に、面白いものを見ている目だった。



「ねえユキちゃん。おまわしくんのほうが強いわよ、あれ」



「ええ」



日傘を畳んだ少女が、静かに頷く。



観客席の反対側では、リョクシが説明を続けていた。



「あの男には、名乗りがあるそうだ」



「名乗り?」



「東の島で、押し合いの技を極めた者だけが許される名だ。訳せば――『不動』」



マリアが息を呑む。



「名を許される条件は一つ。試合中、両の足を土から離さぬこと。倒れることは負けではない。押し出されることも負けではない。……ただ、自分から地面を離れた瞬間、その名は消える」



「なんだそりゃ。勝ち負けと関係ねぇだろ」



「関係ないよ。だから強いんだ」



リョクシは、静かに言った。



「勝ちたい者は、負けそうになると形を崩す。あの男は崩さない。崩れる形を、そもそも持っていない」



「……なあ」



マリアの声が、少しだけ低くなった。



「ランは、膝をつかねぇ奴だ。何があっても屈しねぇ。あたしはそれを知ってる」



「知っているね」



「だから怖ぇんだよ。屈しねぇ奴と、退かねぇ奴が正面からぶつかったら、どっちかが壊れるまで終わらねぇ」

リョクシは答えなかった。



答えの代わりに、羽衣の下で組んだ指が、ほんのわずかに白くなっていた。この男が試合中に姿勢を崩すことは、まずない。マリアはそれに気づかなかった。



リングの上で、ランは自分の掌を見ていた。

血が滲んでいる。二回戦で覚えたはずの「腰から」は、この男には届かない。届いても、全部床へ逃げていく。



床へ。



ランの視線が、ゆっくりと下がった。



板張りの床。太郎の裸足が、そこにしっかりと吸いついている。



――床が、ある。



ランの喉が、ひくりと鳴った。




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