ランVS太郎
控えの通路で、ランはずっと自分の右手を握ったり開いたりしていた。
「痛むかい」
「いや」
「では、なぜ確かめている」
ランは少し考えて、答えた。
「ちゃんと、まだ入ってるか見てる」
リョクシは小さく笑った。
「昨日きみが覚えたものは、抜けたりしないよ」
「ほんとか」
「体で覚えたものは、忘れ方のほうが難しい。……ただし」
羽衣の裾が、通路の風にわずかに広がる。
「今日の相手には、その覚えたてが通じない可能性がある」
「なんでだ」
「見てくればいい」
マリアが黙って水袋を差し出した。ランはそれを一息で半分空け、袖で口を拭って、通路の光のほうへ歩き出した。
その背中を見送ってから、マリアがぽつりと言った。
「……なあ。あんた、勝つと思ってるか」
「思っていないよ」
リョクシは正直に答えた。
「五分ではない。相性で言えば、四分六か、三分七だ」
「なら、なんで送り出した」
「勝つ以外に、あの子が何かを持って帰る試合というのがある」
その男は、腰に厚い帯を一本巻いただけの姿でリングに上がった。
小柄だった。ランより頭ひとつ半ほども低い。顔つきは若く、ランと二つ三つしか違わないだろう。だが上半身は別の生き物のように分厚く、肩から腰までがひと続きの岩のように見える。脂肪の下に、押し固めた筋が層になって沈んでいた。
太郎は中央に立つと、片脚をゆっくりと高く持ち上げた。
膝が胸の高さを越え、そのまま、真下へ落ちる。
どん、と床が鳴った。
音は一度きりだったのに、闘技場全体の空気がわずかに沈んだ気がした。ざわめきが引いていく。誰も、何が起きたのか説明できないまま静かになった。
「……なんだ、今の」
マリアが眉根を寄せる。
「威嚇か?」
「挨拶だよ」
リョクシは目を細めていた。
「技じゃない。今日この床を借りますという、土地への断りだ。……ああいうものを持っている人間は、勝ち負けの手前に一本、別の柱が立っている」
リングの上で、ランは首をかしげていた。相手の顔を見て、腰を見て、床を見た。
そして、少しだけ笑った。
わけが分からない。分からないが、目の前の男が「本気で立っている」ことだけは、匂いのように伝わってきた。
――ゴング。
今日、ランは走らなかった。
半歩、床を撫でるように出る。軸足が板を噛み、腰が回り、肩が遅れてついてくる。伸びきった腕ではない。畳まれた肘から、体重そのものが押し出される。
二日前まで、この少年は腕だけで殴っていた。
その右が、太郎の胸板をとらえた。
太郎は、避けなかった。
いや、避けるという発想がそもそもなかった。半身も引かない。目を閉じもしない。正面から、まともに受けた。
音は、湿っていた。
――何も起きなかった。
「……は?」
ランの口から、間の抜けた声が漏れた。
拳の感触が、ない。壁を殴ったのとも、アミの腹を殴ったのとも違う。あのときは押し返されたが、今度は押し返されすらしない。打ち込んだ力が、どこかへ行ってしまった。
「消えた」
ランは正直に言った。
「拳が、消えた」
「消えてないよ」
観客席のリョクシが、静かに言う。
「床へ逃げたんだ」
マリアが振り向く。
「床?」
「彼の背骨は、足の裏まで一本で繋がっている。胸で受けた力を、そのまま脚へ流して、板へ捨てている。……殴られた分だけ、床が重くなっているだけの話だよ」
「そんな器用な真似が――」
「器用ではないさ。世界で一番不器用なやり方だ。避けもせず、逸らしもせず、全部受けて、全部地面に返す。それしかできないから、それだけを完成させた」
リングでは、太郎が初めて口を開いていた。
「えい拳じゃ」
低く、しわがれた声だった。
「腰から出ちょる。二日前とは別もんじゃ」
ランの目が丸くなる。
「見てたのか」
「見ちょったぞ。柱の陰でな」
太郎はうなずき、それから、ほんのわずかに首を振った。
「じゃが、まだ軽い」
「――軽い!?」
叫んだのはマリアだった。腰を浮かせている。
「あの一発が軽いだと? アミの腹をぶち抜いた拳だぞ!」
「重さの話をしているんだよ」
リョクシの声は落ち着いていた。
「ランの体重は、あの年頃の男としては軽いほうだ。細くて長い。対してあの男は、背丈こそ低いが、胴の厚みが桁違いだ。……この大会には階級がない。同じ土俵に上げてしまえば、ただ重い者が有利になる」
「じゃあ、あいつのほうが――」
「重い。おそらく、二回りは」
マリアは黙った。
リング脇の関係者席で、腹に晒しを巻いた女が背もたれへ深く体を預けていた。
「ねえユキちゃん。特等席ありがとう」
「まだ座って十分です」
「うん。もう分かっちゃった」
アミは指先で自分の腹を軽く叩いた。
「あたしのお腹はね、殴られるためにあったの。おまわしくんのは、殴られたあと立ってるためにあるのよ。……あたし、まだ子どもだったんだわ」
ユキは答えなかった。日傘を畳んだマリが、いつもの位置で静かに立っている。
リングの上で、太郎が一歩、前へ出た。
たったそれだけの動作で、ランの背筋がぞわりと粟立った。
森で、大きすぎる獣に出くわしたときと同じ感覚だった。あれは殴って倒す相手ではない。逃げるか、逃げないかの二択しかない相手だ。
ランは、逃げなかった。




