↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
深山幽谷  作者: 真亭甘
24/54

ランVS太郎

控えの通路で、ランはずっと自分の右手を握ったり開いたりしていた。



「痛むかい」



「いや」



「では、なぜ確かめている」



ランは少し考えて、答えた。



「ちゃんと、まだ入ってるか見てる」



リョクシは小さく笑った。



「昨日きみが覚えたものは、抜けたりしないよ」



「ほんとか」



「体で覚えたものは、忘れ方のほうが難しい。……ただし」



羽衣の裾が、通路の風にわずかに広がる。



「今日の相手には、その覚えたてが通じない可能性がある」



「なんでだ」



「見てくればいい」



マリアが黙って水袋を差し出した。ランはそれを一息で半分空け、袖で口を拭って、通路の光のほうへ歩き出した。



その背中を見送ってから、マリアがぽつりと言った。



「……なあ。あんた、勝つと思ってるか」



「思っていないよ」



リョクシは正直に答えた。



「五分ではない。相性で言えば、四分六か、三分七だ」



「なら、なんで送り出した」



「勝つ以外に、あの子が何かを持って帰る試合というのがある」





その男は、腰に厚い帯を一本巻いただけの姿でリングに上がった。

小柄だった。ランより頭ひとつ半ほども低い。顔つきは若く、ランと二つ三つしか違わないだろう。だが上半身は別の生き物のように分厚く、肩から腰までがひと続きの岩のように見える。脂肪の下に、押し固めた筋が層になって沈んでいた。



太郎は中央に立つと、片脚をゆっくりと高く持ち上げた。

膝が胸の高さを越え、そのまま、真下へ落ちる。



どん、と床が鳴った。



音は一度きりだったのに、闘技場全体の空気がわずかに沈んだ気がした。ざわめきが引いていく。誰も、何が起きたのか説明できないまま静かになった。



「……なんだ、今の」

マリアが眉根を寄せる。



「威嚇か?」



「挨拶だよ」



リョクシは目を細めていた。



「技じゃない。今日この床を借りますという、土地への断りだ。……ああいうものを持っている人間は、勝ち負けの手前に一本、別の柱が立っている」



リングの上で、ランは首をかしげていた。相手の顔を見て、腰を見て、床を見た。



そして、少しだけ笑った。

わけが分からない。分からないが、目の前の男が「本気で立っている」ことだけは、匂いのように伝わってきた。



――ゴング。



今日、ランは走らなかった。

半歩、床を撫でるように出る。軸足が板を噛み、腰が回り、肩が遅れてついてくる。伸びきった腕ではない。畳まれた肘から、体重そのものが押し出される。



二日前まで、この少年は腕だけで殴っていた。



その右が、太郎の胸板をとらえた。



太郎は、避けなかった。



いや、避けるという発想がそもそもなかった。半身も引かない。目を閉じもしない。正面から、まともに受けた。

音は、湿っていた。

――何も起きなかった。



「……は?」



ランの口から、間の抜けた声が漏れた。

拳の感触が、ない。壁を殴ったのとも、アミの腹を殴ったのとも違う。あのときは押し返されたが、今度は押し返されすらしない。打ち込んだ力が、どこかへ行ってしまった。



「消えた」



ランは正直に言った。



「拳が、消えた」



「消えてないよ」



観客席のリョクシが、静かに言う。



「床へ逃げたんだ」



マリアが振り向く。



「床?」



「彼の背骨は、足の裏まで一本で繋がっている。胸で受けた力を、そのまま脚へ流して、板へ捨てている。……殴られた分だけ、床が重くなっているだけの話だよ」



「そんな器用な真似が――」



「器用ではないさ。世界で一番不器用なやり方だ。避けもせず、逸らしもせず、全部受けて、全部地面に返す。それしかできないから、それだけを完成させた」



リングでは、太郎が初めて口を開いていた。




「えい拳じゃ」



低く、しわがれた声だった。



「腰から出ちょる。二日前とは別もんじゃ」



ランの目が丸くなる。



「見てたのか」



「見ちょったぞ。柱の陰でな」



太郎はうなずき、それから、ほんのわずかに首を振った。



「じゃが、まだ軽い」



「――軽い!?」



叫んだのはマリアだった。腰を浮かせている。



「あの一発が軽いだと? アミの腹をぶち抜いた拳だぞ!」



「重さの話をしているんだよ」



リョクシの声は落ち着いていた。



「ランの体重は、あの年頃の男としては軽いほうだ。細くて長い。対してあの男は、背丈こそ低いが、胴の厚みが桁違いだ。……この大会には階級がない。同じ土俵に上げてしまえば、ただ重い者が有利になる」



「じゃあ、あいつのほうが――」



「重い。おそらく、二回りは」



マリアは黙った。





リング脇の関係者席で、腹に晒しを巻いた女が背もたれへ深く体を預けていた。



「ねえユキちゃん。特等席ありがとう」



「まだ座って十分です」



「うん。もう分かっちゃった」



アミは指先で自分の腹を軽く叩いた。




「あたしのお腹はね、殴られるためにあったの。おまわしくんのは、殴られたあと立ってるためにあるのよ。……あたし、まだ子どもだったんだわ」



ユキは答えなかった。日傘を畳んだマリが、いつもの位置で静かに立っている。




リングの上で、太郎が一歩、前へ出た。



たったそれだけの動作で、ランの背筋がぞわりと粟立った。

森で、大きすぎる獣に出くわしたときと同じ感覚だった。あれは殴って倒す相手ではない。逃げるか、逃げないかの二択しかない相手だ。



ランは、逃げなかった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。