接続章
消毒薬の匂いが、甘い香りを押し戻していた。
寝台の上で、アミは天井を見上げたまま動かない。腹には晒しが幾重にも巻かれ、呼吸のたびに、その白い線がわずかに歪む。骨は折れていない。医師はそう言った。折れていないのに、体の内側が一度へこんだ感触だけが、はっきりと残っていた。
扉が開き、ブラウス姿の女が入ってくる。その半歩後ろを、日傘を畳んだ小柄な少女が、鞄を抱えて音もなくついてきた。
「アミさん」
ユキは寝台の脇に立ち、それから腰をかがめて顔を覗き込んだ。
アミは答えない。
「マリちゃん、出してもらえる?」
マリが鞄から硝子の小瓶を取り出し、ユキへ渡す。栓を抜くと、消毒薬の匂いの上に、雨上がりの草のような清涼な香りが薄く広がった。ユキが自分で仕込んだものだ。水に見えるが水ではない。この一本があるから、彼女たちは医師の手を借りずに旅を続けられる。
口元へ寄せても、アミの唇は開かなかった。
「……アミさん」
「……」
「腕は動くでしょう」
「動くけど」
「けど?」
「気分じゃないの」
ユキは短く息を吐いた。呆れているというより、予定表の項目を一つ消すような息だった。
「しょうがないなぁ」
小瓶を傾け、自分の口に含む。屈み込み、そのまま唇を重ねた。
薄荷を溶かしたような冷たさが流れ込んだ瞬間、アミの喉が鳴った。腹の奥の熱が、すっと一段引いていく。
そして、開いた。
ユキの唇ごと深く覆い、褐色の腕が首の後ろへ回る。体重を預けられ、ユキの膝が寝台の縁を越えた。晒しの巻かれた体の上へ、そのまま引きずり込まれる。
抵抗はなかった。動揺もなかった。
扉際では、マリが鞄を抱えたまま微動だにしない。視線は廊下側の木目の一点に置かれ、瞬きの数さえ変わらなかった。
アミの顔が、ユキの胸元へ伏せられる。ユキは倒れた姿勢のまま、その髪へ静かに手を添えた。
「——どうでしたか?」
しばらくして、くぐもった声が返ってきた。
「楽しかった。……けど、悔しいよ」
言いながら、アミの手はユキの腰から背へ、遠慮なく滑っていく。子どもが毛布の端を握るような、意味のない動きだった。泣いてはいない。この女は、泣き方を知らない代わりに、こうして人の体温を確かめる。
ユキはその手を止めなかった。ただ、髪を撫でる速度だけを一定に保つ。
「……あたしね、ちゃんと吸ったのよ」
低い声だった。
「油断もしてない。手も抜いてない。いつも通りに受けて、いつも通りに返そうとしたの。それでも、後ろからまだ来るの。止めても、止めても」
腹の晒しの上を、自分の掌がなぞる。
「十年よ。毎日、鏡の前で作った体。あれが内側から一回へこんだの。初めて」
「そうですか」
「そこは慰めるところじゃないの?」
「アミさんは、慰められると余計に不機嫌になります」
「……そうだった」
「あの子は、どうでしたか」
その一言で、アミの声が跳ねた。
「面白い! めっちゃいい。久しぶりに興奮した」
顔を上げる。目が、試合のときより明るい。
「密着したとき、体の反応はちゃんとオスだったの。心臓も速いし、熱も上がってた。なのに——」
指先が、自分のこめかみをとんとんと叩く。
「ここ。頭のほうに、あたしが一滴も届いてないの。効いてないんじゃない。届いてるのに、別のものになって届いてる。あんなの初めて」
「……へえ。それは驚きです」
ユキはわずかに目を丸くした。
「アミさんの香りって、異性でも同性でも関係なく発情させてしまうものでしょう。あなたが効かせられなかった相手なんて、わたし、聞いたことがありません」
「そういうユキちゃんだって!」
アミが顔を近づけ、むすりと唇を尖らせる。
「今、こうされてるのに、涼しい顔してるじゃない」
その手は、ブラウスの内側に堂々と居座っていた。
ユキは、寝台に押さえつけられた姿勢のまま、まったく声の調子を変えなかった。
「場所が場所ですから。それに、わたしはデトックスを済ませています」
「……ずるい」
「ずるくありません。準備と言います」
アミの香りは、相手の中にある欲を膨らませて返す。裏を返せば、膨らませる元がなければ何も起きない。
ユキは毎朝、自分自身にも同じことをする。毒を抜いてから一日を始める。
香りが刺さる場所を、あらかじめ空にしておく。それが、この女がアミの隣に立ち続けられる唯一の理由だった。
三年前に一度だけ、その手順ができなかったことがある。
ユキは、その日の不手際をいまだに自分へ許していない。
——ただし、その日が連れていった先については、話が別だ。
「……その日のこと、まだ怒ってる?」
「怒っていません。むしろ感謝しています」
ユキは、押さえつけられたままの姿勢で、そこだけ声の温度を変えた。
「あれが、わたしをあの方のもとへ導いてくださったんですから」
アミの手が、止まった。
「……出た」
唇を尖らせ、ユキの襟元を指先で引き寄せる。
「その顔で他人の話をするの、やめてって言ってるでしょ。……ムカつく。嫉妬する」
「事実ですから」
「あたしの立つ瀬がないじゃない。……ねえ。その日の分、上から塗り直させてよ」
「お断りします」
ユキは即答してから、視線だけを扉のほうへ流した。
この闘技場に来てから、彼女がしていることは一つしかない。アミという生き物を、人前へ出しても事故が起きない形に整えて、また袋へ戻す。それだけの仕事だった。
「アミさん。次はどうします」
「次?」
「もう終わりました。あなたの大会は」
アミは一瞬きょとんとして、それから声を上げて笑った。笑ってから、腹を押さえて呻いた。
「……そうだった。負けたんだった、あたし」
「はい」
「じゃあ、あの子の試合、見て帰る。特等席をお願い」
「毎度のことながら、切り替えが早すぎます」
扉際のマリが、鞄を持ち直した。ほんの数センチの動きだった。だがユキはそれを感じて、口の端をわずかに上げる。マリが荷物を持ち直すときは、廊下に足音が入ったときだ。この子は喋らない代わりに、いつも先に耳を向ける。
「はい、おしまいです」
ユキが体を起こす。アミは名残惜しそうに手を離し、寝台へ座り直して晒しの上を撫でた。ユキは襟を整え、ボタンを一つずつ確かめ、髪を耳へ掛け直す。乱れは、三十秒で完全に消えた。
ちょうどそこへ——こつ、こつん。
不均等な二度のノック。
マリが扉を開ける。
日に焼けた肌の男が、敷居の向こうに立っていた。背丈はユキとさして変わらない。それなのに、扉の枠が急に狭くなったように見えた。
「——ちょっといいか」
マリが鞄を胸の前で抱え直し、初めてわずかに顎を引く。ユキの表情から、柔らかさが音もなく抜けた。
寝台の上でだけ、空気が変わらなかった。
「あら」
アミが、頬杖をついて笑う。
「今日はよくお客が来る日ね」




