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深山幽谷  作者: 真亭甘
22/55

飛び越えろ

跳んだ。



助走も、溜めもなかった。



折れていたはずの膝が伸びきり、女ひとりを背負ったまま、ランの体が垂直に打ち上がる。会場の照明が近づき、リングの床が遠ざかった。



「——は?」



マリアが立ち上がる。歓声が、途中で切れた。



三メートル。



四メートル。



ランの背に組みついたアミの脚が、驚きに一瞬ゆるむ。締め上げていた腕が、宙で行き場を失った。



「ちょっ……なにこれ、あなた——」



その一瞬で足りた。



ランは体をひねった。技ではない。木から落ちるとき、どちらを下にすれば生き残るかを、体だけが覚えている。絡んでいた脚を蹴りほどき、アミの体を上へ押し上げる。



自分は、下へ。



「——着地の順番を奪ったよ」



リョクシの声が、静まり返った会場によく通った。



「空中では誰も何もできない。落ちて、床を掴んだ側だけが先に動ける。……彼は本能で、その一手を選んだ」



どん!!

とランが床を踏んだ。膝を深く沈め、衝撃を全部そこへ吸わせる。まだ視界は暗い。呼吸も戻っていない。



だが、足の裏は床にある。



遅れて半拍。アミが猫のように身をひねり、両足から着地する。見事な受け身だった。



腹の内側の鎧は、外れていない。外れるはずがない。

それは彼女が十年、鏡の前で作り続けてきた体そのものだ。眠っていても外れないものが、着地の一瞬で緩むわけがなかった。



だから彼女は、焦らなかった。



(——いいわ。来なさい)



足りないものは一つだけあった。角度だ。衝撃を斜めに逃がす向きを、着地の半拍が食っていた。



構わない、と彼女は判断した。



この子どもの拳は、さっきから一度も自分の内側へ届いていない。正面から受け止めて、いつも通りに弾き返せばいい。そのやり方で、彼女はこれまで一度も負けたことがなかった。



「——来なさい」



ランは、もうそこにいた。



そして、生まれて初めて、ランは腰から踏み込んだ。



誰かに教わったわけではない。ただ、この大会で見てきた。境界線を引き続けた男の足運び。押されても爪先ひとつ動かなかった男の、腰の低さ。蹴り終わった先から逆算して立つ男の、最初の一歩。



見たものが、体の中で勝手に繋がった。



軸足が床を噛み、腰が回り、肩が遅れてついてくる。伸びきった腕ではない。畳まれた肘から、体重そのものが押し出される。



拳が、腹の壁で止まった。



いつも通りだった。硬く張った内側が衝撃を受け止め、その場で殺し、押し返そうと膨らむ。アミの喉が、勝ちを確信して小さく鳴った。



——そこから先が、いつも通りではなかった。



押し返すより先に、次の重さが被さってきた。

腕の力ではない。床を噛んだ足の裏から、脚、腰、背、肩へと一本に繋がった塊が、拳の後ろを押し続けている。



止めた。

それでも来る。



また止めた。

それでも来る。



彼女の器が、上から溢れた。



音は、鈍かった。

派手さのない、ずしりと沈む音。

それがかえって、会場の背筋を凍らせた。



褐色の体が宙で二度回転し、ロープを巻き込んで場外近くまで滑っていく。



甘い匂いが、ふつりと途切れた。



「——そこまで!!」



歓声が戻るまでに、たっぷり三秒かかった。



その三秒のあいだ、二階の通路で足を止めていた男がいた。



日に焼けた肌の男が、手すりに肘を置いたまま、リングの少年をひととき眺めている。ハヤトは何も言わず、やがて通路の奥へ消えた。




反対側の柱の陰では、ランより頭ひとつ半ほども低い分厚い背中が、同じ場所を見ていた。太郎は腕を組み、ふう、と短く息を吐く。

腰から殴った——その一点だけを、彼は正確に見抜いていた。



観客席では、マリアが座ることも忘れて立ち尽くしていた。



「……あの女、吸い損ねたのか」



「いいや」

リョクシは首を振った。



「きちんと吸ったよ。最後まで、あの子の守りは仕事をしていた」



「じゃあ、なんで飛んだ」



「入る量が、入れられる量を超えたからだ」



リョクシは、ゆっくりと息を吐いた。




「あの守りに隙はない。だから隙を突く必要もない。……世の中で一番つまらなくて、一番難しい勝ち方だよ」



ランは肩で息をしながら、自分の右の拳を見下ろしていた。手首まで、押し返された感触がない。まっすぐ、抜けていった感触だけがある。



「……いまの、なんだ」



「腰だよ」



観客席から、リョクシの声が降ってきた。届くはずのない距離だったが、ランには聞こえた。



「今日きみは、初めて腰から殴った。腕で殴るのをやめた瞬間、きみの拳は倍の重さになる。……覚えておくといい。それは、教わって身につくものじゃない」



ロープ際で、アミがゆっくりと肘を立てた。立ち上がれはしない。それでも、彼女は笑っていた。



「ねえ、坊や」



血の混じった声で、彼女は問う。



「あたしの匂いの中で、あなた、何を見たの?」



ランは少し考えて、素直に答えた。



「腹がいっぱいになる夢だ」



「……あら、可愛い」



「あれは、いらねぇ」



アミの笑みが、一瞬だけ止まった。



「腹が減ってねぇと、狩りに出ない。狩りに出ねぇと、死ぬ」



それだけ言って、ランは背を向けた。



倒れたまま、アミは天井を見上げて、乾いた声で笑い出した。



「——なにそれ。あたしの毒、生まれて初めて残さず吐き出されたわ」



笑いは、途中で咳に変わった。腹の奥が、まだ鳴っている。十年かけて作った壁が、内側から一度へこんだ音だった。



「……ちゃんと吸ったのよ、あたし。ちゃんと吸って、それでも足りなかったの」



関係者席では、ユキが立ち上がりかけた姿勢のまま固まっていた。日傘を畳んだマリが、その袖を静かに引く。



「……担架、いる?」



「いらないって言うわよ、あの子は」



ユキは息を吐き、それからリングを降りていく少年の背中を見た。



「……ねえマリ。あの子、最後の一発だけ、まるで別人だったと思わない?」



マリは日傘の柄をそっと握り直し、こくりと頷いた。



「途中で覚えたのよ、試合の中で」

ユキは苦笑した。



「わたしたちが何年かけて削ったものを、あの子は一分で拾っていく」



「厄介な子が残ったわね」



マリアが観客席で腕を組み、ふん、と鼻を鳴らす。



「ざまぁみろ、痴女が」



「そう言いながら、随分と心配していたね」



「……うるせぇ」



リョクシは笑わなかった。ただ、リングの中央を長く見つめていた。



そこには、初めて自分の体重の在り処を知った獣が立っている。



次に彼が向き合うのは、その体重を、地面ごと支えてしまう男だ。





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