飛び越えろ
跳んだ。
助走も、溜めもなかった。
折れていたはずの膝が伸びきり、女ひとりを背負ったまま、ランの体が垂直に打ち上がる。会場の照明が近づき、リングの床が遠ざかった。
「——は?」
マリアが立ち上がる。歓声が、途中で切れた。
三メートル。
四メートル。
ランの背に組みついたアミの脚が、驚きに一瞬ゆるむ。締め上げていた腕が、宙で行き場を失った。
「ちょっ……なにこれ、あなた——」
その一瞬で足りた。
ランは体をひねった。技ではない。木から落ちるとき、どちらを下にすれば生き残るかを、体だけが覚えている。絡んでいた脚を蹴りほどき、アミの体を上へ押し上げる。
自分は、下へ。
「——着地の順番を奪ったよ」
リョクシの声が、静まり返った会場によく通った。
「空中では誰も何もできない。落ちて、床を掴んだ側だけが先に動ける。……彼は本能で、その一手を選んだ」
どん!!
とランが床を踏んだ。膝を深く沈め、衝撃を全部そこへ吸わせる。まだ視界は暗い。呼吸も戻っていない。
だが、足の裏は床にある。
遅れて半拍。アミが猫のように身をひねり、両足から着地する。見事な受け身だった。
腹の内側の鎧は、外れていない。外れるはずがない。
それは彼女が十年、鏡の前で作り続けてきた体そのものだ。眠っていても外れないものが、着地の一瞬で緩むわけがなかった。
だから彼女は、焦らなかった。
(——いいわ。来なさい)
足りないものは一つだけあった。角度だ。衝撃を斜めに逃がす向きを、着地の半拍が食っていた。
構わない、と彼女は判断した。
この子どもの拳は、さっきから一度も自分の内側へ届いていない。正面から受け止めて、いつも通りに弾き返せばいい。そのやり方で、彼女はこれまで一度も負けたことがなかった。
「——来なさい」
ランは、もうそこにいた。
そして、生まれて初めて、ランは腰から踏み込んだ。
誰かに教わったわけではない。ただ、この大会で見てきた。境界線を引き続けた男の足運び。押されても爪先ひとつ動かなかった男の、腰の低さ。蹴り終わった先から逆算して立つ男の、最初の一歩。
見たものが、体の中で勝手に繋がった。
軸足が床を噛み、腰が回り、肩が遅れてついてくる。伸びきった腕ではない。畳まれた肘から、体重そのものが押し出される。
拳が、腹の壁で止まった。
いつも通りだった。硬く張った内側が衝撃を受け止め、その場で殺し、押し返そうと膨らむ。アミの喉が、勝ちを確信して小さく鳴った。
——そこから先が、いつも通りではなかった。
押し返すより先に、次の重さが被さってきた。
腕の力ではない。床を噛んだ足の裏から、脚、腰、背、肩へと一本に繋がった塊が、拳の後ろを押し続けている。
止めた。
それでも来る。
また止めた。
それでも来る。
彼女の器が、上から溢れた。
音は、鈍かった。
派手さのない、ずしりと沈む音。
それがかえって、会場の背筋を凍らせた。
褐色の体が宙で二度回転し、ロープを巻き込んで場外近くまで滑っていく。
甘い匂いが、ふつりと途切れた。
「——そこまで!!」
歓声が戻るまでに、たっぷり三秒かかった。
その三秒のあいだ、二階の通路で足を止めていた男がいた。
日に焼けた肌の男が、手すりに肘を置いたまま、リングの少年をひととき眺めている。ハヤトは何も言わず、やがて通路の奥へ消えた。
反対側の柱の陰では、ランより頭ひとつ半ほども低い分厚い背中が、同じ場所を見ていた。太郎は腕を組み、ふう、と短く息を吐く。
腰から殴った——その一点だけを、彼は正確に見抜いていた。
観客席では、マリアが座ることも忘れて立ち尽くしていた。
「……あの女、吸い損ねたのか」
「いいや」
リョクシは首を振った。
「きちんと吸ったよ。最後まで、あの子の守りは仕事をしていた」
「じゃあ、なんで飛んだ」
「入る量が、入れられる量を超えたからだ」
リョクシは、ゆっくりと息を吐いた。
「あの守りに隙はない。だから隙を突く必要もない。……世の中で一番つまらなくて、一番難しい勝ち方だよ」
ランは肩で息をしながら、自分の右の拳を見下ろしていた。手首まで、押し返された感触がない。まっすぐ、抜けていった感触だけがある。
「……いまの、なんだ」
「腰だよ」
観客席から、リョクシの声が降ってきた。届くはずのない距離だったが、ランには聞こえた。
「今日きみは、初めて腰から殴った。腕で殴るのをやめた瞬間、きみの拳は倍の重さになる。……覚えておくといい。それは、教わって身につくものじゃない」
ロープ際で、アミがゆっくりと肘を立てた。立ち上がれはしない。それでも、彼女は笑っていた。
「ねえ、坊や」
血の混じった声で、彼女は問う。
「あたしの匂いの中で、あなた、何を見たの?」
ランは少し考えて、素直に答えた。
「腹がいっぱいになる夢だ」
「……あら、可愛い」
「あれは、いらねぇ」
アミの笑みが、一瞬だけ止まった。
「腹が減ってねぇと、狩りに出ない。狩りに出ねぇと、死ぬ」
それだけ言って、ランは背を向けた。
倒れたまま、アミは天井を見上げて、乾いた声で笑い出した。
「——なにそれ。あたしの毒、生まれて初めて残さず吐き出されたわ」
笑いは、途中で咳に変わった。腹の奥が、まだ鳴っている。十年かけて作った壁が、内側から一度へこんだ音だった。
「……ちゃんと吸ったのよ、あたし。ちゃんと吸って、それでも足りなかったの」
関係者席では、ユキが立ち上がりかけた姿勢のまま固まっていた。日傘を畳んだマリが、その袖を静かに引く。
「……担架、いる?」
「いらないって言うわよ、あの子は」
ユキは息を吐き、それからリングを降りていく少年の背中を見た。
「……ねえマリ。あの子、最後の一発だけ、まるで別人だったと思わない?」
マリは日傘の柄をそっと握り直し、こくりと頷いた。
「途中で覚えたのよ、試合の中で」
ユキは苦笑した。
「わたしたちが何年かけて削ったものを、あの子は一分で拾っていく」
「厄介な子が残ったわね」
マリアが観客席で腕を組み、ふん、と鼻を鳴らす。
「ざまぁみろ、痴女が」
「そう言いながら、随分と心配していたね」
「……うるせぇ」
リョクシは笑わなかった。ただ、リングの中央を長く見つめていた。
そこには、初めて自分の体重の在り処を知った獣が立っている。
次に彼が向き合うのは、その体重を、地面ごと支えてしまう男だ。




