香撃-こうげき-
最初に来たのは、重さだった。
腕が重い。脚が重い。呼吸をするたび、甘い匂いが胸の底に沈殿していく。
(……なんだ、これは)
ランは頭を振った。振ったつもりだったが、実際には首が半分しか動いていない。
そして、幻が来た。
腹が、いっぱいだった。
森でも、街でも、ランは一度も知らなかった感覚。獲った肉が余っている。明日の分も、明後日の分もある。誰も奪いに来ない。追われもしない。木漏れ日の下で、腹を上に向けて寝ていればいい。
——もう、動かなくていい。
風が心地よかった。腹が温かかった。爪先の泥も、脇腹の古傷も、そこにない。
ランは、その感覚に名前を持っていなかった。
森でも街でも、彼が知っていたのは「まだ足りない」だけだった。獲っても足りない。食べても足りない。だから走った。だから殴った。足りないという感覚が、ランという生き物の背骨だった。
その背骨が、すっと抜けた。
ランの膝が、ゆっくりと折れた。
「ラン!」
マリアの声が飛ぶ。だが会場の歓声に呑まれて、リングまでは届かない。
「効いたね」
リョクシの声は落ち着いていたが、目だけは笑っていなかった。
「獣が仲間を呼ぶとき、虫が相手を集めるときに撒くものと、同じ仕組みだよ。人の体も、ごく薄くなら似たものを出している。彼女はそれを、人に届く濃さまで研ぎ上げているだけだ」
「……ただの匂いってことか」
「ただの匂いだから厄介なんだ」
リョクシは指先で自分のこめかみを示した。
「匂いは、考える場所を通らない。鼻から入って、頭のいちばん古い場所へ直に届く。気をつけようと思ったときには、もう体のほうが返事をしている」
「ランには、女を欲しがる心も、勝ちを誇る心もねぇぞ」
「そうだね」
「じゃあ、あいつは今なにを見てる」
リョクシは答えなかった。
マリアの指が、軍服の襟を無意識に引っ掻いた。
「……悪趣味だな。手足を止めるだけなら、痺れさせりゃいい」
「痺れは抜ける。満足は抜けないよ」
リョクシは目を細めた。
「あれは相手を眠らせる技じゃない。起きている理由を、そっと取り上げる技だ」
その間にも、アミは動いていた。
沈む。
猫が枝から落ちるように、音もなく。
膝の折れたランの背後へ回り込み、褐色の脚がするりと胴へ絡んだ。腕が首へ、もう片方の手が肘の内側へ。関節が組まれ、締め上げられる。
密着していた。汗ばんだ肌が背中に張りつき、耳元に吐息がかかる。
『おおっとぉ! これは羨ましい体勢!! 代われるものなら代わりたいですねぇ観客の皆さん!』
実況が叫ぶと、会場から下品な歓声と口笛が上がった。
「……黙って見ろよ、クソ野郎ども」
マリアが低く唸り、手袋のファスナーを無意識に握りしめる。
「ん……あなた、いい匂いがするのね」
アミが囁いた。腕を極める力が、じわりと増す。
「このまま眠っちゃいなさい。痛くしないであげるから」
ランは答えなかった。
答えられなかったのではない。彼の中では、まったく別の問答が起きていた。
満ち足りた幻の中で、ランは自分の腹を触っていた。ふくれている。あたたかい。何も足りない場所がない。
——足りない場所が、ない。
ランの喉が、ひくりと鳴った。
(じゃあ、俺は、なんのために起きてるんだ)
腹が減っていない獣は、狩りに出ない。狩りに出ない獣は、そのうち死ぬ。ランが十八年かけて覚えた法則は、たったそれだけだった。
満腹は、褒美ではない。終わりだ。
ランは幻の中で、あたたかい肉の山を蹴り崩した。
「——いらねぇ」
かすれた声が、締め上げられた喉の奥から漏れた。
「あら?」
アミの眉がわずかに動く。
おかしい、と彼女は思った。
これまで香に落ちた男は、決まって同じ顔をした。とろけた目、ゆるんだ口元、こちらへ縋るように伸ばされる手。腕を極めながら耳元で囁けば、みな嬉しそうに落ちていった。
だがこの子どもは、こちらを見ていない。
幻の中を、ひとりで歩いている。
彼女のアニマは相手の心を縛らない。ただ欲を膨らませるだけだ。膨らませた先で、その人間が何を選ぶかまでは決められない。
「ねえ。素直になったほうが、楽よ」
腕を極める角度が、あと半分だけ深くなる。ランの肘が、鈍く軋んだ。
そして、ランは幻を捨てた。
「……見ていろ」
リョクシが身を乗り出す。
「ここからは、こちらの領分じゃない」
視界が黒く落ちていく。締められた首から血が回らず、腕の骨がきしむ。もう一秒あれば、意識は完全に消える。
その一秒で、ランの両足が床を掴んだ。




