↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
深山幽谷  作者: 真亭甘
21/54

香撃-こうげき-

最初に来たのは、重さだった。



腕が重い。脚が重い。呼吸をするたび、甘い匂いが胸の底に沈殿していく。



(……なんだ、これは)



ランは頭を振った。振ったつもりだったが、実際には首が半分しか動いていない。



そして、幻が来た。



腹が、いっぱいだった。



森でも、街でも、ランは一度も知らなかった感覚。獲った肉が余っている。明日の分も、明後日の分もある。誰も奪いに来ない。追われもしない。木漏れ日の下で、腹を上に向けて寝ていればいい。



——もう、動かなくていい。



風が心地よかった。腹が温かかった。爪先の泥も、脇腹の古傷も、そこにない。



ランは、その感覚に名前を持っていなかった。



森でも街でも、彼が知っていたのは「まだ足りない」だけだった。獲っても足りない。食べても足りない。だから走った。だから殴った。足りないという感覚が、ランという生き物の背骨だった。



その背骨が、すっと抜けた。



ランの膝が、ゆっくりと折れた。



「ラン!」



マリアの声が飛ぶ。だが会場の歓声に呑まれて、リングまでは届かない。



「効いたね」

リョクシの声は落ち着いていたが、目だけは笑っていなかった。




「獣が仲間を呼ぶとき、虫が相手を集めるときに撒くものと、同じ仕組みだよ。人の体も、ごく薄くなら似たものを出している。彼女はそれを、人に届く濃さまで研ぎ上げているだけだ」



「……ただの匂いってことか」



「ただの匂いだから厄介なんだ」



リョクシは指先で自分のこめかみを示した。



「匂いは、考える場所を通らない。鼻から入って、頭のいちばん古い場所へ直に届く。気をつけようと思ったときには、もう体のほうが返事をしている」




「ランには、女を欲しがる心も、勝ちを誇る心もねぇぞ」



「そうだね」



「じゃあ、あいつは今なにを見てる」



リョクシは答えなかった。



マリアの指が、軍服の襟を無意識に引っ掻いた。



「……悪趣味だな。手足を止めるだけなら、痺れさせりゃいい」



「痺れは抜ける。満足は抜けないよ」



リョクシは目を細めた。



「あれは相手を眠らせる技じゃない。起きている理由を、そっと取り上げる技だ」



その間にも、アミは動いていた。



沈む。

猫が枝から落ちるように、音もなく。

膝の折れたランの背後へ回り込み、褐色の脚がするりと胴へ絡んだ。腕が首へ、もう片方の手が肘の内側へ。関節が組まれ、締め上げられる。



密着していた。汗ばんだ肌が背中に張りつき、耳元に吐息がかかる。



『おおっとぉ! これは羨ましい体勢!! 代われるものなら代わりたいですねぇ観客の皆さん!』



実況が叫ぶと、会場から下品な歓声と口笛が上がった。



「……黙って見ろよ、クソ野郎ども」



マリアが低く唸り、手袋のファスナーを無意識に握りしめる。



「ん……あなた、いい匂いがするのね」



アミが囁いた。腕を極める力が、じわりと増す。



「このまま眠っちゃいなさい。痛くしないであげるから」



ランは答えなかった。



答えられなかったのではない。彼の中では、まったく別の問答が起きていた。



満ち足りた幻の中で、ランは自分の腹を触っていた。ふくれている。あたたかい。何も足りない場所がない。



——足りない場所が、ない。



ランの喉が、ひくりと鳴った。




(じゃあ、俺は、なんのために起きてるんだ)



腹が減っていない獣は、狩りに出ない。狩りに出ない獣は、そのうち死ぬ。ランが十八年かけて覚えた法則は、たったそれだけだった。



満腹は、褒美ではない。終わりだ。



ランは幻の中で、あたたかい肉の山を蹴り崩した。



「——いらねぇ」



かすれた声が、締め上げられた喉の奥から漏れた。



「あら?」



アミの眉がわずかに動く。



おかしい、と彼女は思った。



これまで香に落ちた男は、決まって同じ顔をした。とろけた目、ゆるんだ口元、こちらへ縋るように伸ばされる手。腕を極めながら耳元で囁けば、みな嬉しそうに落ちていった。



だがこの子どもは、こちらを見ていない。



幻の中を、ひとりで歩いている。



彼女のアニマは相手の心を縛らない。ただ欲を膨らませるだけだ。膨らませた先で、その人間が何を選ぶかまでは決められない。



「ねえ。素直になったほうが、楽よ」



腕を極める角度が、あと半分だけ深くなる。ランの肘が、鈍く軋んだ。



そして、ランは幻を捨てた。




「……見ていろ」

リョクシが身を乗り出す。



「ここからは、こちらの領分じゃない」



視界が黒く落ちていく。締められた首から血が回らず、腕の骨がきしむ。もう一秒あれば、意識は完全に消える。



その一秒で、ランの両足が床を掴んだ。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。