ラン対アミ
二回戦
控えの通路は薄暗く、湿った石の匂いがした。
「一つだけ助言をしておこう」
壁にもたれたリョクシが、羽衣の裾を指先で整えながら言った。
「次の相手は、殴っても手応えが返ってこない。……手応えがないと、人は焦って腕だけで殴るようになる」
「テゴタエ?」
「殴った、という感じのことだよ」
「ふうん」
ランは自分の拳を握って開いた。
「なけりゃ、なくてもいい」
「そう言えるうちは大丈夫だ」
マリアが横から包帯を外し、ぱん、とランの背を叩いた。
「言っておくがな。あの女は下品だぞ」
「ゲヒン」
「……行ってこい」
リングの中央に立ったとき、ランの鼻が最初に動いた。
甘い。
腐った果実が陽に晒されたときの、あの、頭の芯を撫でるような匂い。森ではその匂いを嗅いだら近づかない。虫が集まり、虫を狙う獣が集まる。そういう場所だ。
正面に立つ女は、その匂いの中心で笑っていた。
「あら、可愛い顔」
褐色の腕がゆるりと持ち上がり、指先がランの頬を指す。
「あたし、いい男より、噛みつきそうな子のほうが好きなの」
ランは答えなかった。
言葉の意味は半分も分からない。
ただ、目の前の女が「獲物ではない側」に立っていることだけは分かった。
——ゴング。
音が鳴り終わる前に、ランは走っていた。
構えも間合いも測らない。振りかぶった右腕は肘が伸びきり、体は前のめりで、腰は完全に置き去りだった。
子どもが石を投げるときの動きに、そのまま体重だけを足したような一撃。
アミは避けなかった。
いや、正確には避ける必要すらなかった。半身をわずかに引いただけで、ランの拳は彼女の髪先を撫でて空を割った。
「ふふ、遅い」
返す、左。
今度は掠った。掠っただけだった。
アミの上体が、まるで水を張った袋のようにたわみ、衝撃を逃がしていく。
「——当たってねぇのか、あれ」
観客席でマリアが身を乗り出す。
「当たっているよ」
リョクシは静かに答えた。
「彼女は、当たった上で受け流している。皮膚と筋を締めてる。……殴ったほうが、殴った感触を持ち帰れない」
「いつ締めてやがる。予備動作がねぇぞ」
「……いや、言い方が悪かったね。締めているんじゃない。締まっているんだ」
リョクシは指先で自分の脇腹を軽く叩いてみせた。
「あの体つきを見てごらん。腰も腹も背も、内側の細い筋まで一日も休ませずに使い続けた形をしている。あれは戦うために作った体じゃない。ああいう見せ方をする体を保ち続けた結果、内側が勝手に鎧になったんだ」
三発目。
四発目。
ランは同じ場所を狙わない。
野生の狩りは同じ手を二度使わないからだ。
顎、脇腹、膝の裏、また顎。狙いは的確で、速度も申し分ない。
それでも、通らなかった。
五発目の右がついに正面から入り、アミの腹をとらえた。
ばん、と乾いた音がした。
そして、ランの拳のほうが弾かれた。
「——っ」
ランの目が丸くなる。手首から肘へ、押し返される感触が走った。壁を殴ったのとも違う。もっと生々しい、生き物が押し返してくる感触。
「見たかい」
リョクシの声にわずかな熱がこもる。
「あれは受けではない。返しているんだ。腹の奥で衝撃をいったん溜めて、そのまま押し出している。……そして、覚えておくといい。あれには構えがない」
「構えがねぇ?」
「常に入っているものは、構えとは呼ばない。不意打ちも死角も関係ない。眠っているとき以外、彼女はずっとあの状態だ」
「……厄介だな」
マリアが舌を打つ。
「ランの拳は、重さで殴るんじゃねぇ。速さと出鱈目さで殴る。あれが一番、吸われる」
「そうだね」
リョクシは頷いた。
「あの守りには、開く扉がない」
「じゃあ、どうしろってんだ」
「越えるしかない」
リョクシは静かに言った。
「あの体が吸える限界より、重い一発を通す。それだけだ」
「……無茶を言うな」
「無茶だね。今のところは」
関係者席では、ユキが膝の上で手を組み、じっとリングを見つめていた。
「……あの子、二発目からもう狙いを変えてる」
日傘の下のマリが、わずかに首を傾げる。
「あの子の体は勝手に守ってくれる。でも、受け流す角度だけは自分で作らなきゃいけないの。来る場所が読めない相手は、全部まともに吸うことになる」
ユキは唇を舐めた。
「アミ。遊んでる場合じゃないわよ、それ」
アミは腹を撫でて、赤い舌先を覗かせた。
「ねえ坊や。あなた、あたしが怖くないの?」
「こわい?」
ランは本気で分からないという顔をした。
「殴っても倒れねぇのは面倒だ。けど、こわくはねぇ」
「……つまんない子」
彼女は唇を尖らせ、それからくすりと笑った。
腹の底が、じーんと痺れている。
掠っただけの一発で、内臓が揺れた感触が残っていた。この子どもは、当てにきていない。抜きにきている。
「けっこう痛いじゃない。……ごほうびあげる」
彼女が両腕を広げた。
その瞬間、リングを包んでいた甘い匂いが、密度を変えた。
観客席の最前列にいた男が、ふらりと立ち上がりかけて、隣の男に襟を掴まれる。関係者席で、ユキが額を押さえた。
「……アミ。客席まで巻き込まないでって、何度言えば」
日傘の下で、マリが黙って小さく首を振る。
呆れているのか、慣れているのか、その表情からは読み取れなかった。
リングの上で、ランの足が、ほんのわずかに遅れた。




