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深山幽谷  作者: 真亭甘
20/54

ラン対アミ

二回戦



控えの通路は薄暗く、湿った石の匂いがした。



「一つだけ助言をしておこう」



壁にもたれたリョクシが、羽衣の裾を指先で整えながら言った。



「次の相手は、殴っても手応えが返ってこない。……手応えがないと、人は焦って腕だけで殴るようになる」



「テゴタエ?」



「殴った、という感じのことだよ」



「ふうん」

ランは自分の拳を握って開いた。



「なけりゃ、なくてもいい」



「そう言えるうちは大丈夫だ」



マリアが横から包帯を外し、ぱん、とランの背を叩いた。



「言っておくがな。あの女は下品だぞ」



「ゲヒン」



「……行ってこい」



リングの中央に立ったとき、ランの鼻が最初に動いた。



甘い。



腐った果実が陽に晒されたときの、あの、頭の芯を撫でるような匂い。森ではその匂いを嗅いだら近づかない。虫が集まり、虫を狙う獣が集まる。そういう場所だ。



正面に立つ女は、その匂いの中心で笑っていた。



「あら、可愛い顔」



褐色の腕がゆるりと持ち上がり、指先がランの頬を指す。



「あたし、いい男より、噛みつきそうな子のほうが好きなの」



ランは答えなかった。

言葉の意味は半分も分からない。

ただ、目の前の女が「獲物ではない側」に立っていることだけは分かった。



——ゴング。



音が鳴り終わる前に、ランは走っていた。



構えも間合いも測らない。振りかぶった右腕は肘が伸びきり、体は前のめりで、腰は完全に置き去りだった。

子どもが石を投げるときの動きに、そのまま体重だけを足したような一撃。



アミは避けなかった。



いや、正確には避ける必要すらなかった。半身をわずかに引いただけで、ランの拳は彼女の髪先を撫でて空を割った。



「ふふ、遅い」



返す、左。

今度は掠った。掠っただけだった。

アミの上体が、まるで水を張った袋のようにたわみ、衝撃を逃がしていく。



「——当たってねぇのか、あれ」



観客席でマリアが身を乗り出す。



「当たっているよ」

リョクシは静かに答えた。



「彼女は、当たった上で受け流している。皮膚と筋を締めてる。……殴ったほうが、殴った感触を持ち帰れない」



「いつ締めてやがる。予備動作がねぇぞ」



「……いや、言い方が悪かったね。締めているんじゃない。締まっているんだ」



リョクシは指先で自分の脇腹を軽く叩いてみせた。



「あの体つきを見てごらん。腰も腹も背も、内側の細い筋まで一日も休ませずに使い続けた形をしている。あれは戦うために作った体じゃない。ああいう見せ方をする体を保ち続けた結果、内側が勝手に鎧になったんだ」



三発目。

四発目。



ランは同じ場所を狙わない。

野生の狩りは同じ手を二度使わないからだ。

顎、脇腹、膝の裏、また顎。狙いは的確で、速度も申し分ない。



それでも、通らなかった。



五発目の右がついに正面から入り、アミの腹をとらえた。



ばん、と乾いた音がした。



そして、ランの拳のほうが弾かれた。



「——っ」



ランの目が丸くなる。手首から肘へ、押し返される感触が走った。壁を殴ったのとも違う。もっと生々しい、生き物が押し返してくる感触。



「見たかい」

リョクシの声にわずかな熱がこもる。



「あれは受けではない。返しているんだ。腹の奥で衝撃をいったん溜めて、そのまま押し出している。……そして、覚えておくといい。あれには構えがない」



「構えがねぇ?」



「常に入っているものは、構えとは呼ばない。不意打ちも死角も関係ない。眠っているとき以外、彼女はずっとあの状態だ」



「……厄介だな」

マリアが舌を打つ。



「ランの拳は、重さで殴るんじゃねぇ。速さと出鱈目さで殴る。あれが一番、吸われる」




「そうだね」

リョクシは頷いた。



「あの守りには、開く扉がない」



「じゃあ、どうしろってんだ」



「越えるしかない」



リョクシは静かに言った。



「あの体が吸える限界より、重い一発を通す。それだけだ」



「……無茶を言うな」



「無茶だね。今のところは」



関係者席では、ユキが膝の上で手を組み、じっとリングを見つめていた。



「……あの子、二発目からもう狙いを変えてる」



日傘の下のマリが、わずかに首を傾げる。




「あの子の体は勝手に守ってくれる。でも、受け流す角度だけは自分で作らなきゃいけないの。来る場所が読めない相手は、全部まともに吸うことになる」



ユキは唇を舐めた。



「アミ。遊んでる場合じゃないわよ、それ」



アミは腹を撫でて、赤い舌先を覗かせた。



「ねえ坊や。あなた、あたしが怖くないの?」



「こわい?」



ランは本気で分からないという顔をした。



「殴っても倒れねぇのは面倒だ。けど、こわくはねぇ」



「……つまんない子」



彼女は唇を尖らせ、それからくすりと笑った。

腹の底が、じーんと痺れている。

掠っただけの一発で、内臓が揺れた感触が残っていた。この子どもは、当てにきていない。抜きにきている。



「けっこう痛いじゃない。……ごほうびあげる」



彼女が両腕を広げた。



その瞬間、リングを包んでいた甘い匂いが、密度を変えた。



観客席の最前列にいた男が、ふらりと立ち上がりかけて、隣の男に襟を掴まれる。関係者席で、ユキが額を押さえた。



「……アミ。客席まで巻き込まないでって、何度言えば」



日傘の下で、マリが黙って小さく首を振る。

呆れているのか、慣れているのか、その表情からは読み取れなかった。



リングの上で、ランの足が、ほんのわずかに遅れた。





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