それぞれの第一試合
消毒薬の匂いが染みついた狭い部屋で、ナトは寝台に腰かけていた。
右の脛から膝にかけて、白い包帯が幾重にも巻かれている。痛みよりも、体の芯が空になったような感覚のほうが強かった。
扉が、ノックもなく開いた。
入ってきたのは、日に焼けた肌の若い男だった。
上背はさほどでもない。だが肩から腰にかけての線が異様に締まっていて、ただ立っているだけで床を掴んでいるのが分かる。
「いい試合だった」
男は前置きもなくそう言うと、寝台の脇に立った。
「……あんたか。これから勝ち上がる男が、負けた奴の見舞いとはな」
「見舞いじゃない。勧誘だ」
差し出されたのは、掌に収まるほどの木の札だった。焼き印がひとつ。山の形を模した、簡素な紋。
「山の門下の証だ。これを持って麓まで来れば、稽古をつける」
ナトは札を見つめ、それから首を振った。
「悪いが、村に帰る。俺には養う相手がいる」
「その村ごとだ」
「……何?」
「門下生になれば、周りの町から援助が入る。金も、食い物もな。本人だけじゃない。故郷も勘定に含まれる」
ナトの手が止まった。ハヤトは表情を変えずに続ける。
「山の考え方は単純でな。腹を空かせた家族を背負ったまま拳を握っても、それは稽古とは呼べない。迷いも憂いも、置いてこいということだ」
そう言って、彼は札を寝台の端に置いた。
「拾うかどうかは、あんたが決めろ」
扉が閉まる。残された小さな木片を、ナトは長いこと見つめていた。
右腕に巻かれた包帯を無造作に掻きながら、ランが観客席に戻ったとき、第二試合はすでに始まっていた。
リングに立つのは二人。片方は褐色の肌をした女——アミ。もう片方は、泥を被ったような灰色の外套で全身を覆った、小柄な男だった。フードの奥は影になって見えない。
「……なんだあいつ」
マリアが眉をひそめる。
「気配が読めねぇ」
「読む必要があるかな」
リョクシは頬杖をついたまま言った。
ズオと呼ばれたその男は、じり、じりと歩を進めていた。
恐ろしく遅い。
獲物が逃げるのを待つような、粘りつく足取りだった。
観客席がざわつく。何かを溜めているのか、それとも——
伸ばされた両手が、妙な角度に開かれた。指がゆっくりと蠢く。
狙いは、明らかに顔でも鳩尾でもなかった。
「おい」
マリアの声が低くなる。
「あいつ、どこ狙ってやがる」
リョクシは短く答えた。
「見ての通りだよ」
「……最低だな」
「最低だね。だから止まる」
アミは逃げなかった。むしろ半歩、自分から前へ出た。
「やぁん。そんなに見つめられたら、燃えちゃうじゃない」
甘く、粘つく声だった。同時に、リングの空気がわずかに揺れた。
ズオの足が止まる。
フードの奥で、喉の鳴る音がした。指が、意味もなく宙を掻く。
「——ほら、こっちよ」
その一言で、男の重心が完全に前へ流れた。
アミの体が沈む。
猫が枝から落ちるような、音のない沈み込みだった。伸びきった腕の下を潜り、軸足がねじ込まれ、しなやかな脚が鞭のように振り抜かれる。
外套が跳ねた。
ズオの体は独楽のように半回転し、そのまま床へ沈んだ。
「——そこまで!」
歓声。アミは倒れた男を一瞥もせず、腰に手を当てて客席へ投げキスを飛ばした。
ランは首をかしげた。
「……なんで止まったんだ、あいつ」
「フェロモンよ」
答えたのはマリアだった。
「アニマってのは、一人に一つとは限らねぇ。あの女のは、匂いだの声だの仕草だのに乗せて相手を惹きつける類だ。嗅いだ側は勝手に見惚れて、勝手に足が止まる。……体が痺れたみてぇにな」
「におい、で、動けなくなるのか」
「本人はもっと下品な使い方をしてたがな」
マリアは苦い顔でそっぽを向いた。
予選の控室で胸を鷲掴みにされた記憶は、まだ生々しい。
「毒ではないよ」
リョクシが穏やかに補足する。
反対側の関係者席では、ブラウス姿の女が深々と溜め息をついていた。
「……アミ。試合の前に客席へ流すのはやめなさいって、何度言ったら分かるの」
隣で日傘を差した少女が、こくりと頷く。ユキは額を押さえ、それでも小さく笑った。
「まあ、勝ったからいいけど」
第四試合。リングに上がった男を見て、ランの背筋が跳ねた。
「——太郎だ」
ランが手すりから身を乗り出す。控え室で四股の踏み方を教わった、あの厚い掌の男だった。
相手は頭二つ大きい大男だった。組み合った瞬間に決着はつくと、誰もがそう思った。
事実、決着はついた。
ただし、逆の意味で。
大男が押す。
太郎は動かない。
全身の力を込めて押す。それでも動かない。足の裏が床に根を張ったように、爪先ひとつぶんも下がらなかった。
そして、太郎の腰がわずかに落ちた。
それだけだった。押していた側の体が浮き、支えを失って前へ泳ぐ。差し込まれた掌が下から掬い上げ、大男の巨体は宙で半回転して、背中から床へ落ちた。
会場が揺れた。
「相手の力を使ってねじ伏せたな」
マリアが唸る。
「いや」
リョクシは首を振った。
「あれは、自分から動かなかっただけだよ。押されて動かない形を、彼はもう完成させている。……この大会で、最も崩しにくい男だ」
ランは無意識に、自分の腰へ手をやっていた。
あの低さは、どこから来るのか。
獣の構えとは、明らかに違う何かだった。
そして、第七試合。
日焼けした男がリングに上がると、闘技場のざわめきが一段だけ質を変えた。
「山からの出稽古だそうだ」
リョクシが言う。
「優勝候補、と呼ばれているよ」
対戦相手は堂々たる体格の剣士だった。構え、間合いを測り、慎重に一歩を刻む。悪くない立ち上がりだった。
ゴングから、三秒。
ハヤトの左足が、床を撫でるように前へ滑った。
ただそれだけの動作で、二人の距離が消える。
腰が跳ね、右の脛が鞭のようにしなり、相手の側頭部へ吸い込まれた。
音は、ひとつしかしなかった。
倒れた男は、自分が何をされたのかを理解する前に意識を失っていた。歓声よりも先に、静寂が来た。
ハヤトは倒れた相手に一礼し、客席を見ることもなく背を向ける。
「……速ぇとか、そういう次元じゃねぇぞ、今の」
マリアの声がかすれる。
「立ち方が違うんだよ」
リョクシは静かに言った。
「あの男は、蹴るために立っていない。蹴り終えたあとにどう立っているか——そこから逆算して、最初の一歩を置いている。あれは、教わった者の強さだ」
ランは何も言わなかった。ただリングを見つめたまま、いつのまにか拳を握りしめていた。
胸の奥が、じり、と焼けるような感覚があった。
それが何なのか、ランはまだ言葉を知らない。
「いい顔だ」
リョクシが微笑む。
「腹を空かせた獣の顔だよ」
その頃、救護室の寝台では——ナトが、端に置かれた木札へ、ゆっくりと手を伸ばしていた。




