喰らう野生
均衡が崩れたのは、ナトが動きを大きく変えた瞬間だった。
これまでの直線的な蹴りとは違う、体全体を旋回させる大振りのハイキック。踏み込みから振り抜きまで、一切の迷いがない。この試合における最大の一撃だった。
「——!!」
観客席でマリアが息を呑む。
命中すれば、それで終わる。誰もがそう確信するだけの重みが、その脚には宿っていた。会場の音が、一瞬だけ遠のく。
避ける時間はない。防ぐだけの体勢も整っていない。
だが、ランは避けなかった。
低く沈んだ体勢のまま、ランはあえてその一撃を右腕と側頭部で受け止めた。骨の軋む音がリング全体に響き渡る。衝撃に意識が白く弾けかける、その刹那——
ランの内側で、何かが弾けた。
言葉にできる力ではない。理屈でもない。ただ、生きろ、喰らいつけ、という野生の芯からせり上がる衝動が、全身を一息に駆け抜けた。
痛みごと呑み込んだランの体が、独楽のように低く沈み込む。そして、蹴り抜かれて伸びきったナトの軸足へ、渾身の蹴りを叩き込んだ。
「がっ——」
体重を支えていた軸が揺らぐ。ハイキックの反動と噛み合い、ナトの体が大きく傾いだ。
その一瞬を、ランは見逃さなかった。
衝撃を野生の身のこなしで受け流しながら踏み込み、体重を乗せた拳を真っ直ぐにナトの顔面へ叩き込む。まだ洗練とは程遠い、力任せの拳だった。それでも、全身全霊の一撃だった。
ナトの体が仰向けに倒れる。
その後に乾いた音がリングに響きわたる。
一瞬の静寂ののち、闘技場が割れた。
「——そこまで!」
主審の声が、爆発した歓声にかき消されそうになりながら響き渡る。
「……決まった、な」
マリアが詰めていた息を吐き出した。
リョクシは小さく頷く。
「折れなかったな」
「それだけかよ。腕、折れてても不思議じゃねぇぞ」
「折れていないから勝ったんだ」
「……お前のそういうとこ、たまに腹立つな」
倒れたナトを見下ろし、ランは肩で息をしながら立ち尽くしていた。憎しみも、勝ち誇った様子もない。ただ、胸の奥に何か新しいものが根を張ったような、そんな顔をしていた。
「……お前、何のために殴ってた」
ランが問う。数字も損得も分からないランにとって、それは純粋な疑問だった。
ナトはゆっくりと体を起こし、天井を仰ぎながら、掠れた声で答える。
「村のためだ。……水がな、もう出ないんだ。それだけだよ」
「みず」
ランはその言葉を、口の中で転がすように繰り返した。
「水がねぇなら、他所から獲ってくればいい。俺はずっとそうしてきた」
「……そういうわけには、いかないんだよ」
ナトが小さく笑う。初めて見せた、疲れきった人間の顔だった。
「守るものが多いと、獲るより先に、失くさないことを考えなきゃならん」
ランは何も言い返さなかった。ただ、じっとナトを見つめたまま、拳を握り直す。
係員に肩を借りながら、ナトはリングを降りていく。その先で、日焼けした一団が待っていた。誰も責めなかった。年嵩の男がただ黙って、ナトの背を一度だけ強く叩いた。それだけで、ナトは顔を覆った。
ランはその光景を、リングの上からじっと見下ろしていた。
「……勝ったのは、俺だよな」
誰にともなく呟く。誰も答えなかった。
リョクシが席を立つ。
「技術で言えば、ナトの完勝だった。それでもあの子は勝った。理由のない強さが、理由のある強さを喰い破った——そういう試合だ」
「で、次はどうなる」
「さあ。ただ、あの子の拳は今日で一段変わった。次に会うときは、殴り方から違っているだろうね」
「……しみったれた美学だな、相変わらず」
マリアは小さく笑った。だがその声には、隠しきれない期待が滲んでいた。
リングの中央で、ランはまだ立っていた。
次の敵はどんな拳を持っているのか。ただそれだけを、獣のような目で見据えていた。




