初戦の洗礼
それから幾度となく、ランは弾き返された。
蹴りが飛んでくる。膝が突き上がる。踏み込みを潰すように前蹴りが刺さる。そのたびにランの体は宙を舞い、床に叩きつけられ、それでも起き上がった。
何本目かの前蹴りを鳩尾に受けたとき、ランはとうとう膝をついた。
「まだ立つか」
ナトが初めて言葉を発した。淡々とした声だった。挑発でも憐れみでもない、ただの確認だ。
ランは答えなかった。答える代わりに、姿勢を変えた。
両手を床につき、腰を落とし、獣そのもののような低い構えへと沈み込んでいく。技術でも型でもない。生き延びるためだけに培われた、ランの原初の姿勢だった。
「——構えが変わった」
マリアの声が緊張を帯びる。
「重心が完全に地に落ちてる。あれじゃ踏み込みの初速は殺されるだろ」
「いや——違うな」
リョクシが身を乗り出した。
「初速を捨てて、宙に浮く時間を消しにきている。飛んだ一瞬こそが、蹴りを合わせられる隙だと悟ったんだ」
真っ直ぐ突っ込む猪突猛進から、地を這うようにナトの死角へ回り込む泥臭いステップへ。何度も蹴りの餌食になりながら、ランの野生の勘が、少しずつナトの間合いと呼吸を掴み始めていた。
ナトの側にも変化があった。額に滲む汗の量が増し、脚に纏う力の密度がさらに濃くなっていく。膝が、蹴りが、一撃ごとに明らかな重みを帯びていく。
(この一発で、村の井戸がもう一年保つ)
ナトの脳裏を過ぎるのは、そんな計算だ。賞金の額面ではない。乾いた大地に亀裂の走る故郷の景色。桶を抱えて水を待つ人々の、長い長い列。強くなりたいという願望とは少し違う、逃げ場のない義務感が、彼の一撃を研ぎ澄ませていた。
「おかしいだろ」
マリアが眉を寄せる。
「あいつ、後半になるほど良くなってる。普通は逆だ。息が上がりゃ精度は落ちる」
答えは、リョクシではなく観客席の一角から返ってきた。
会場の隅、日焼けした肌の一団が、身を寄せ合うようにして立っていた。
旅装は埃まみれで、履物の底はすり減っている。長い距離を、歩いてここまで来た者たちの姿だった。
「ナトさん!」
しわがれた声が飛ぶ。年嵩の男が、両手を口に当てて叫んでいた。
「もう充分だ! そこまでやりゃあ充分だ!」
隣の女が、その袖を強く引く。
「やめとくれよ。あんた、それ言っちまったら——」
「わかってる。わかってるさ」
男は歯を食いしばった。それきり、誰も何も言わなかった。ただ、全員が同じ方向を見ていた。声援でも、悲鳴でもない。祈りに近い沈黙だった。
「……ああ、そういうことか」
マリアがその一団に目をやり、短く息をつく。
リョクシは答えなかった。
「……お前、それ本人に言ってやれよ」
「言葉で渡せるものなら、とうに渡している」
リョクシの横顔は、いつも通り無表情だった。ただ、その視線だけがリングの中央から一度も外れない。
膝を蹴り抜かれ、脛で側頭部を弾かれても、ランは倒れなかった。むしろ、打たれるたびに目の輝きが増していく。痛みを恐怖ではなく、情報として飲み込んでいるかのようだった。
三度目に懐へ潜り込んだとき、ランの手が初めてナトの腰を掠めた。
ほんの一瞬。掴むには至らない。だがナトの足が、この試合で初めて乱れた。
「掠った」
マリアが思わず身を乗り出す。
「掠らせた、の間違いだね」
リョクシが訂正する。
「あの男は、掴まれる前に自分から下がった。判断は正しい。だが——正しい判断をさせられた時点で、主導権はもう半分こちら側にある」
ランは追わなかった。追えなかったのではない。追わずに、ただ相手の足元を見ていた。
「もう一丁、来い」
ランが低く唸る。声に混じるのは怒りではない。歓喜に近い何かだった。強い者に触れている、その実感そのものが、ランにとっては生きている証だった。
ナトは僅かに息を整え、両脚に力を集めなおす。表情は変わらない。だがその瞳の奥には、これまで以上の光が宿っていた。
長引かせれば、削られるのは自分だ。ナトはそう判断した。ランの体は打つたびに硬くなっていく。骨に届くはずの一撃が、肉の段階で吸われ始めている。
——ならば、一発で終わらせる。
決着の時が近い。互いにそれを、言葉ではなく肌で悟っていた。




