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深山幽谷  作者: 真亭甘
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ランVSナト

ゴングが鳴る直前まで、ランは腰を落として両手を前に据えていた。予選で見た、あの小柄な男の構えの真似だ。低く、揺るぎなく、無駄がない。ランなりに憶えたつもりだった。



だが、ゴングが鳴った瞬間、その形は跡形もなく消えていた。



考えるより先に足が動いていた。距離も間合いも、ランは知らない。ただ目の前に敵がいる、だから喰らいつく。それだけだ。両腕を大きく振り回すような、まだ幼さの残る拳筋のまま、ランは真っ直ぐに突っ込んでいく。



「——は」



対するナトは動じなかった。細く長い脚で床を撫でるように、リング中央からわずかに退がる。

半歩。

たったそれだけだ。だがその半歩で、ランの拳は空を切った。

まるで最初からそこにランが来ると知っていたかのような、正確すぎる位置取りだった。



観客席の最前列で、リョクシは静かに目を細めていた。




「境界線だ」



「あ?」



隣で足を組んでいたマリアが、片眉を上げる。



「拳が届く、その一歩手前——相手の攻撃が絶対に届かない縁を、呼吸ひとつで維持し続ける技術だよ。派手さはない。だが、これほど整った足運びも珍しい」



「線を引くだけで勝てるなら、誰も殴り合いなんかしねぇよ」



「引き続けられる者がいないから、皆殴り合うんだよ」



リョクシの返答に、マリアは鼻を鳴らして黙った。

それから、ぽつりと付け足す。



「……借り物の構え、一秒も保たなかったな」




「あの子は初めて、自分以外の立ち方を欲しがった。それだけで充分だよ」



リョクシの声に落胆はなかった。



リングの上では、ランがまた突っ込んでは弾かれ、突っ込んでは弾かれを繰り返していた。

ナトは一度も下がりきらない。かといって、前にも出ない。ランが半歩詰めれば半歩退き、ランが飛べばその着地点からわずかに逸れる。相手の勢いを、ただ静かに空振りさせ続けていた。



「——ずいぶん我慢するじゃねぇか、あいつ」



マリアが呟く。



「我慢ではない。数えているんだ」



「数える?」



「あの子の癖を。踏み込みの歩幅、腕を振る前に沈む肩、着地の癖。あの男はさっきから一撃も撃たずに、ずっと採寸をしている」



その言葉を裏付けるように、ナトの右脚がわずかに沈んだ。



そこから先の変化は、観客の目には映らなかった。肉体の奥から滲み出るような、密度の高い気配。それが両脚だけに、鋭く凝縮されていく。



「——来るぞ」



マリアが姿勢を正した直後、ナトの体が消えたように見えた。



実際には消えていない。ただ、繋ぎの動作が一切なかっただけだ。

踏み込みも、溜めも、予備動作もない。

脚に集めた力をそのまま推進力に変え、彼は静止から最速へ一足で到達し、伸びきった右の拳をランの顎先へ突き入れた。



「ッ——!!」



ランの視界が跳ねる。避けられなかった。避けるという発想そのものが、まだランの中になかったからだ。吹き飛ばされ、リングの床を二度、三度と転がる。



会場が一斉に沸いた。歓声と怒号が入り混じり、闘技場の壁を震わせる。



「入ったな」



マリアが短く息を吐いた。無傷では済まない一撃だったはずだ。だが。



「立つよ、あれは」



リョクシの声には、確信めいた響きが混じっていた。



案の定、ランは肩で息をつきながらも、すぐに四肢を床につけて体を起こした。口の端から一筋、血が垂れる。それを舌で舐め取り、ランは低く笑った。歯を剥き出しにするような、獣そのものの笑みだった。



「……今の」



ランが呟く。数字も、勝ち負けの重みも、ランはまだ正しく量れない。だが、ひとつだけ確かにわかることがあった。



「——強い」



称賛でも恐怖でもない。ただの事実確認だった。強い敵がいる。ならば喰らいつく。それだけのことだ。ランは再び前傾姿勢を取り、爪先で床を掻いた。



ナトは、その様子を表情ひとつ変えずに見つめていた。彼が脚に集めた力は、まだ本調子の半分にも満たない。この大会で背負っているものの重さを思えば、無駄弾は一発も撃てない。



「妙だな」



マリアが目を細める。



「あいつ、腕はほとんど生身のままだ。力を集めてるのは脚だけだろ。それであの拳の威力かよ」




「脚は、蹴るための道具であると同時に、全身を運ぶ土台でもある」



リョクシが答える。



「足運びの精度が、そのまま拳の重さを底上げしているんだ。彼は腕を強化する必要がない。運び方さえ正しければ、拳は勝手に重くなる」



「……理屈っぽいこと言うわりに、うっとり眺めてんなお前」



「美しいものを美しいと言って、何が悪い」



リングの上では、ランがもう一度地を蹴っていた。



同じ轍は踏まない——そんな器用さは、まだない。ただ、もう一度同じ拳を喰らってでも、その懐へ潜り込もうとする泥臭い意志だけがあった。


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