喧騒
予選ブロックの熱気がまだ色濃く残る、薄暗い石造りの控え室前の通路。ランは自分の右拳を目の高さに掲げ、何度も開いては力強く握りしめる動作を繰り返していた。
これまでの予選五試合、ランはただ本能の赴くまま、力任せに振り回すような大振りのパンチだけで猛者たちをねじ伏せてきた。しかし、今のランの脳裏には、先ほど見た別の光景が鮮明に焼き付いて離れなかった。
「なぁ太郎! さっきの凄いやつ、どうやってんだ!? お前、体は小さいのに、まるでデカい岩が真正面から飛んできたみたいだった。
太郎は穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと太い腕を組んだ。
「ふふ、お前さんの動きも袖から見させてもろうたぞ、ラン。獣みたいな勘と、常人離れした体じゃ。恐ろしいもんぜよ。
……じゃが、拳の振り方に無駄が多すぎるき。お前さんはただ、腕の力だけで相手を叩きつけちょる。それじゃあ、なんぼ力が強うても、本当の意味での『壊す力』にはならん」
「無駄ァ? 俺はいつだって、敵を倒すために全身全霊でぶん殴ってるぞ! 出し惜しみなんかしたことねえ!」
「力むのと、集めるのは別もんぜよ」
太郎は自分の足元を、こつ、と踵で叩いてみせた。
「地面に足を着けて、腰を回して、下から作った力を一点に集める。……まあ、口で言うのは簡単じゃがの。お前さんのその溢れるほどの力を、一つに束ねられたら——お前さんはもっと強うなる」
二人の会話を、少し離れた壁に寄りかかりながら見守る者がいた。くすんだ緑色の外套を羽織った青年、リョクシである。彼は手にした古い書物から顔を上げ、静かに口を開いた。
「……太郎の言う通りだよ、ラン」
それだけ言って、リョクシはまた書物へ目を落とした。
「今のきみの拳は、当たった瞬間に半分こぼれている。こぼれた分が、あの音と砂埃になっているんだ」
「じゃあ、あの音が出なくなったら強いのか?」
「そうなるね」
「……なんだそれ、逆じゃねえのか」
ランが心底納得のいかない顔をする。リョクシは答えなかった。
むくれるランを見て、リョクシの隣でマリアが小さく吹き出した。
「あの構えの低さ、覚えといて損はねぇぞ。少し真似してみろよ」
ランは「うーん」と唸りながら己の足元を見つめ、不器用に四股を踏むような動作を試し始めた。
その間にも、遠く離れた別ブロックの闘技場からは、地鳴りのような怒号と熱狂的な歓声が絶え間なく響いてきていた。
「勝者、アミ選手!! 圧倒的な強さ、いや、圧倒的な魅力で対戦相手を完全無力化です!!」
実況の興奮しきった声と共に、会場全体を揺るがすような大歓声と口笛が巻き起こった。別ブロックの予選最終試合が決着したのだ。
間もなくして、熱気が流れ込む通路の奥から一人の女性が悠然と歩いてきた。陽光に映える美しいラテ肌と、一切の無駄なくしなやかに引き締まった肉体。露出の多いセクシーな服に身を包み、歩くたびに周囲へ甘く芳しい、人を惑わすような気配を振りまく美女——アミである。
「ふぅ、汗かいちゃった。あのオジサンども、最初から鼻の下を伸ばしきってたから、全然準備運動にもならなかったわ!!」
アミが艶っぽく息を吐きながら髪をかき上げると、そのすぐ後ろから、きちんとしたブラウスとズボンを身にまとった真面目そうな女性・ユキが、小言を言いながら歩み寄ってきた。
「アミさん、あまり油断しないで息を整えてください。本戦はすぐそこなんですから」
さらにその傍らでは、ノースリーブのワンピースを着た寡黙な少女・マリが、一言も発することなく無言でユキの頭上に日傘を差し伸べている。見事なまでに役割分担された三人組だった。
通路を進むアミがふと視線を前に向けると、控え室の入口でランたちと談笑していたマリアの姿が目に入った。アミの目が、まるで新しいおもちゃを見つけた猫のようにキラリと光る。
「あら……? あらあらあらぁ! なにこの子、真っ黒な軍のような服なのにすっごく超カワイイじゃない!」
「えっ!? あ、あの……っ!?」
アミは目にも留まらぬしなやかな身ごなしで一瞬にして間合いを詰め、マリアの体にガシッと抱きついた。豊かな胸の弾力と、脳を麻痺させるような甘い香りに包まれ、極度の人見知りであるマリアは顔を真っ赤にして完全にフリーズしてしまう。
「うふふ、すっごく柔らかぁい……。冷たそうな服を着てるのに、顔立ちは可憐で最高じゃない。ちょっとお姉さんに、こっちのファスナーの奥も確かめさせて……」
「ひゃあっ!?」
アミの指先が、マリアの胸元のファスナーへと伸ばされたその瞬間。
バシッ!!
「そこまでですアミさん!! 何を初対面の、しかも他の参加者のお連れ様に堂々とセクハラしているんですか!!」
ユキの容赦ない手刀が、アミの頭頂部にクリーンヒットした。
アミは「痛ぁーい!」と大袈裟に頭を押さえてしゃがみ込む。
ユキは即座に向き直り、マリアとランたちに向かって直角に深々と頭を下げた。
「大変失礼いたしました! うちのアミが大変ご迷惑をおかけして……。ほらアミ、あなたもちゃんと挨拶しなさい!」
「はーいはい、痛いなぁもう。ごめんなさいね、可愛い子ちゃん。私はアミ。本戦でもよろしくねぇ」
「あ、はい……マリアです……(な、なんて強烈な人……)」
マリアが心底ホッとした様子で胸を撫で下ろす中、少し離れた場所に立つリョクシだけは、外套の奥から鋭く冷徹な目つきでアミの動きを観察していた。
(……歩法に一切の乱れがない。あれだけふざけていて、重心が一度も浮いていないな。筋肉の張りと緩みを、瞬きの間に切り替えている。打たれるための体だ)
その時、闘技場全体に巨大なドラの音が重々しく響き渡った。
『全予選ブロック、これにて完全終了! 本戦進出者、計十六名が出揃いました! 勝ち残った選手諸君は、直ちに中央の闘技場へ集結せよ!!』
「さあ、いよいよ本番が始まるみたいね」
アミがマリアに向かって妖しくウインクを投げる。
「行こうや、ラン。腕の見せどころぜよ」
太郎が力強く歩みを進めた。ランはニカッと不敵な笑みを浮かべ、両手の拳を勢いよく叩き合わせた。
「おうっ! 誰が相手でも関係ねえ! 出てくる奴は全員、俺がぶっ飛ばすだけだ!」




