悪魔の証明
一体どういうことなのか、少年の思考はしばらくの間、霧の中にあった。
両目に眼帯を付けた男。
「人種のるつぼ計画」。
そして、何よりも――
せり下がってきた黒板。
雑居ビルにしては、不可解なほど広い部屋。
異様に多い窓。
無駄に巨大な黒板。
まるで――学校のようだった。
(……学校?)
父が倒れてから、少年は学校に行っていない。
半年? いや、たった数ヶ月かもしれない。
黒板の匂い、机の冷たさ、給食の味――忘れたくても、身体はまだ憶えている。
ぼんやりと、懐かしさが胸を締め付けかけた、その時だった。
〜♪
階下から、微かに歌が聴こえてきた。
どこか哀しげな、女性の歌声。
歌詞は不明瞭。でも、確かに感情が伝わってくる。
足が、一瞬、痺れたように動かなくなる。
『……この力、まさか』
サスティアが鋭く言った。
彼女の顔から、余裕の表情が消える。
ツヴァイがにやりと笑った。
『チョウドイイッ!!! さぁ……歴史の時間デスッ!!』
*
それが、開戦の合図だった。
パン!
サスティアが即座に発砲。
同時に、ツヴァイは空気を裂くように影と化して移動。
現れては、消え。消えては、現れる。
『コノ世界ハ、実ニ不平等! そうハ思いませんカァ?』
シュバ!
『さあ……? 気にしたこともないわ』
すれ違いざま、サスティアが回し蹴りを放つ。
しかし、足は空を切った。
そこに実体が存在しないかのように、ツヴァイは煙のように揺れる。
『アナタも、ワタシも、あの少年も……ミンナ、何かしら“持っている”。』
『……ネムッテイルのが、フツウデス!』
再びツヴァイが黒板の前に現れると、床から教卓がせり上がってくる。
(なんだこれは……!? 戦う気が……ない?)
サスティアは銃口を向けながらも、撃たない。
ツヴァイの真意を探っている。
――それより、今はミルナの救出が最優先だ。
『貴方には、能力なんてなかったはずよ。私の知る限り』
『ソウ。ダカラ……ワタシはゼツボウした……!』
『この世ノ不平等ヲ、ワタシは憎ンダ!!』
ツヴァイの叫びが響く。
そして――ふいに、少年の横に現れた。
パァン!
即座にサスティアが発砲。だが、またも空振り。
(……残弾を減らすつもりなのか? それとも、時間稼ぎ……?)
敵の意図が、読めない。
トン。
ツヴァイは、椅子に拘束されているミルナの肩に手を置いた。
その指先が、まるで陶器を撫でるように滑る。
『コレガ……彼女ダ。』
『ドウイウワケか、カノジョハ“能力ヲ無効化”スル……!』
『ワタシハ、見ツケテシマッタノダ!』
『この世界を……支配スル鍵を!!!』
*
アリエルはずっと、ミルナを救出する機会をうかがっていた。
サスティアから与えられた指示は、二つ。
1. サスティアが敵をすべて撃破した場合、アリエルは即時救出に入ること。
2. 敵がサスティアに完全に注意を向けている場合、その隙にアリエルが救出に向かうこと。
本来なら、1が理想だ。
だが、目の前の現実は2すら難しい。
敵はずっと……黒板を見ていた。
(まるで、僕たちなんて……眼中にないみたいだ)
救出できそうに“見える”。
だが、そんな隙が本当にあるなら、サスティアがもうとっくに引き金を引いているはずだ。
それができない、ということは……
この状況は、まだ“許されていない”ということ。
アリエルは歯を噛み締めた。
敵――ツヴァイは、黒板に何やら数式のようなものを書き続けていた。
記号。記号。数列。記号。……見慣れない、そして、理解不能な数式。
無数のチョークの線が交差し、部屋の空気が次第に異様に冷たくなる。
『デキマシタァ……!』
ツヴァイが、チョークを手から落とし、狂気を帯びた笑みを浮かべた。
『サァ……証明ヲ始メマショウ……!』
『貴方の数式は滅茶苦茶よ。意味なんて、ない』
サスティアが冷静に言い放ち、同時に振り向きざまを狙って発砲。
パン!
ーーしかし。
カン。
何かが“はじける”ような鈍い音が、部屋の半分を隔てる境界から響いた。
(え……!?)
よく見れば、それは透明な防弾ガラスだった。
いつの間に設置された? それとも、さっき上がってきた?
「見えない境界線」が、ツヴァイとサスティアたちを隔てていた。
カカカカカ
サスティアが迷わず、防弾ガラスにピンポイントの射撃を加える。
ガラスに小さな穴が空いていく。
それでもなお、ツヴァイは悠然と黒板の前に立ち続けていた。
(変だ……狙えるのに、撃てない?)
アリエルはサスティアの“迷い”に気づく。
サスティアほどの腕なら、今のうちに射止めることも可能なはず。
なのに、何かが“おかしい”。
ヒュンッ
そして、ついに。
穴を縫うように一発の弾丸が飛んだ。
狙いは、ツヴァイの眉間。
完璧な軌道。確実な射線。誰がどう見ても、命中した――はずだった。
……その瞬間だった。
『元素2、凝固、固体ヘリウム』
ツヴァイの声が、低く響いた。
シュゥ……
弾丸が、透き通るように空中で“揮発”する。
音もなく、破裂もせず、ただ質量そのものがこの世界から消滅したように。
(な……!?)
少年の思考が止まる。
「銃弾」が消える――そんなことがあるのか?
いや、それは否定ではなかった。
ツヴァイは、**「物理法則に従って消滅させた」**のだ。
ヘリウム。凝固。元素番号2。
何かの法則と、式と、記号を使って。
それはまるで、“この世界を数式で上書きしている”かのようだった。




