アールス・ブランブルーム⑦
月明かりが部屋を隅々まで照らしている。
見たくもない、知りたくもないことを、月はひっそりとアールスに耳打ちしてくるようだ。
真夜中だというのに、呼びつけた家令は皺ひとつない服装でやってきた。
ただ、ひどく疲れた顔をしている。
きっとアールスも同じように疲れた顔をしているのだろう。
顔色が悪く見えるのは、きっと青白い月明かりのせいだ。
セシルも、ひどく顔色が悪い。
けれど、アールスのベッドに横たわり、穏やかで安らかな寝顔を浮かべている。
胸の真ん中には、鈍く薄く光る輝きが突き立ち、ドレスに真紅の薔薇のような大輪の花を咲かせていた。
あまりにも美しく、あまりにも悲しい光景だとアールスはぼんやり思う。
自分がもっとしっかりしていれば、ブランブルーム家の物語は違う結末になったのだろうか。
今更そんなことを言っても、何もかもが手遅れだ。
ひどく重い口を動かして、アールスは家令に仕事を与えた。
ブランブルーム家に仕えているこの男にしか頼めない、重要な仕事だ。
「セシルは俺と同じ病に侵された。急だが、療養のために遠い土地へ行くことになった。あの紫の小さな花の咲き乱れる土地だ。セシルの母親と同じ場所に、彼女を連れて行ってやってくれ。庭の花も、残らずセシルに持たせていい。土ごとだ。あれはもう、この家には必要ない」
「畏まりました」
「それと、できるだけ早くディアスの後見になるよう手配してくれ。あの子は間違いなくブランブルームの血筋だ。正式に俺の養子にして、いずれは侯爵位を継がせる」
一瞬。
ほんの僅かな時間だけ、家令の顔が歪む。
珍しい家令の失態にアールスは気付いたが、何も見なかったことにした。
「……ですが、旦那様がお元気になられたのでしたら、わざわざ養子をとらずともよいのでは」
家令に忠告されるまでもなく、アールスもディアスにブランブルームを継がせることが正しいとは思っていない。
それでも、セシルがたった一人だけ純粋に愛したディアスに、アールスが与えられるものは一つしかないのだ。
「俺はもうこれ以上誰かを家族にして、愛することはできない。ブランブルームの未来は、ディアスに任せる」
「出過ぎたことを申しました」
「それから、部屋の模様替えも。シーツもカーペットも替えたばかりだというのに、すまないな」
「畏まりました。……他に御用はございますか?」
「他にはない。それだけ急ぎでやってくれればいい」
「でしたら、これを最後にお暇を頂きたく存じます。私も歳を取りましたもので、この仕事が辛くなって参りました。田舎にでも移住して、のんびり余生を過ごしたいと思います」
アールスは、黙って家令の顔を見た。
幼い頃から全く変わらないと思っていた家令だが、よく見れば髪には白いものが増え、顔には深い皺が刻まれている。
それでもまだ、引退するには早すぎる。
いずれディアスが後を継いだら、ブランブルームの当主として全てを知ることになるだろうと覚悟はしていた。
その上で、ディアスがブランブルーム家を不要だと思うなら、自分の命一つで収めてくれるように懇願するつもりもあった。
だがこの家令は、今夜の出来事は墓場まで持って行ってくれるようだ。
ならば、姉の秘密は永遠に守られる。
「許す。長い間ブランブルーム家によく仕えてくれて……本当に感謝する」
「とんでもないことでございます。最後にアールス坊ちゃんのお役に立てて何よりでございました」
疲れた顔でふっと笑った家令に、アールスは深く頭を下げる。
主に頭を下げられた家令は、一瞬だけ困ったような嬉しそうな複雑な顔をして、音もなく御前を離れた。
彼の采配で、何事もなかったようにブランブルーム家は朝を迎えるのだろう。
今夜の秘密は、月だけしか見ていない。
朝になれば、素知らぬ顔でこの部屋に陽の光が射し込むのだ。
長女はいつの間にかひっそりと療養に旅立ち、侯爵の寝室も模様替えが終えられている。
次期侯爵も揉める隙なくすんなりと決定する。
その陰で、密やかに家令が代替わりし、一部の使用人も顔ぶれが変わるのだ。
ただそれだけだ。
醜聞は暫く続くだろうが、ブランブルーム家の呪いはこれで消えてなくなった。
憂いが消えてすっきりしたはずなのに、アールスの心には埋められない大きな穴がぽっかりと空いている。
これはもう、どうやっても埋めることのできない穴だということはわかっていた。
時折、彼女の晴れ渡る真夏の空のような笑顔を思い出して、少しずつ時間が穴に蓋をするのを待つことしかできないのだ。




