アールス・ブランブルーム⑧
思った通り、朝は素知らぬ顔でやって来た。
知らぬ間に母が旅立ったことを知って、ディアスは泣くだろうか。
彼の泣き顔を思うと、アールスは暗澹たる気持ちになってくる。
それでも、ディアスを優しい嘘で守ってやれるのはアールスだけなのだ。
マットごと真新しいシーツに替えられたベッドに深く身を沈め、アールスは何度目かも知れない溜息を吐く。
目を閉じれば、あの日に精霊と交わした会話ばかりが鮮明に思い出された。
*****
『もしかしたらアールスさんの病気は治るかもしれません』
アールスの部屋を訪れたセシルとディアスとのやり取りを聞いていた精霊が、なんでもないことのように告げた。
「なっ……本当か!?」
精霊イプスの衝撃的な発言に、アールスは思い切り目を瞠った。
体が思い通りに動くのなら、勢いよく立ち上がっていたことだろう。
『はい! 現物の調査をしていないので確実ではないのですが、アールスさんの症状は神経毒によるものと思われます。AIの予測では、そうなってますねぇ』
「……は?」
考えもしなかったことに、アールスは混乱した。
毒。
毒だと。
確かに精霊がそう言ったように聞こえた。
『もしかしたら後遺症は残るかもしれませんが、今すぐ毒の摂取をやめれば生命にまで危険はないかと。微弱な毒のようですし』
「ちょ、ちょっと待て。毒だと? そんなはずはない」
混乱しながらも、アールスは考えていた。
侯爵家の使用人は、信頼の置ける者だけが雇われている。それは勿論料理人も、食材配達業者もだ。
その上でしっかり毒味もされ、銀食器で提供される。
病人であっても例外ではない。
水や茶なども同様の対策はされている。
他に口に入るものといえば薬くらいだが、アールスは自分の延命を諦めたときから、早々に薬の摂取はやめてしまった。
だからアールスには、毒を摂取する機会などないのだ。
それを伝えると、こともなげにイプスは言う。
『やだなあ、毒は経口摂取だけとは限りませんよぉ。皮膚に塗りつけて壊疽させるものとか、空気に溶けて肺から血液に混ざるものとか色々あるじゃないですか。恐らくアールスさんの毒は、空気中に混ざるタイプですねぇ』
「それこそ有り得ない。目に見えない毒のことは知っているが、あれは洞窟などで発生するのだろう? 臭いがひどく毒の発生はすぐにわかるし、上に溜まるものだから姿勢を低くすれば問題ないはずだ」
アールスがそう主張すれば、イプスは『あー』と妙な声をあげた。
『それはまた、限定的な毒ですねぇー。いいですか、空気中に混ざる毒にも色々あります。無臭のものも、空気より重いものも』
「重い? どういうことだ?」
『そうかぁー、そこからかぁ。えーとですねー、空気も見えないだけで重さがあるんですよ。アールスさんが言っているのは、空気より軽い毒だから上に溜まるんです。けど、空気より重い毒は下に溜まります。だから、姿勢を低くしたら余計に危険なんですよぉ』
イプスの言葉に、ぎょっとした。
そんな話は聞いたことがない。だが、精霊の口から語られたことを否定することもできない。
アールスの中で、形にできない何かが次々に繋がっていく。
たがそれを認めたくなくて、必死に否定の材料を探す。
それなのに、イプスはあっさりとアールスが考えないようにしていた答えを言ってしまった。
『まあ、普通に考えて毒を盛ったのはセシルさんでしょうねー。あ、もしかしてお父さんにも同じ毒を盛ってたかもですねぇ。ああ、ほら、AIもそうだと……へえ、なるほど。AIの予想だと、男爵さんも同じ毒で亡くなったようですよ』
「いや……まさか、そんなはずが……」
『うーん、まあ、あくまで予想なんで。的中率120パーセントの予想ですから、外れてる確率の方が低いですけどねぇー』
信じたくない。
そう思うのに、考えれば考えるほど、それが事実のような気がしてくる。
特注でアールスのベッドを低くしたのは。
窓や扉を開けないようにしたのは。
背の低い子どもを慌てて抱き上げたのは。
全てがセシルの計算だったならば。
「いや、いや……。だとしたら、セシルはどうやって俺に毒を盛ったんだ。ただの出戻り令嬢にそんな毒が手に入るわけがない。もしも男爵にも同じ毒を盛っていたというなら尚更だ!」
『あ、それも簡単に説明がつきますよ。セシルさんの毒は花ですね。毎日、彼女自ら活けていたんでしょ? アールスさんの頭のすぐ上にある、その花瓶に』
「そ、それはおかしい。植物には毒を持つものがあることは知っているが、ただ活けただけで発生する毒なんて、そんなものあるわけがない!」
それが本当なら、花屋は今すぐに毒屋になれる。
さすがにアールスもイプスの言葉を疑った。
『花というより、正確には土でしょうねー。もしくは肥料? 根から吸い上げた毒の成分が、茎や花に溜まってしまうんですよ。もしかしてその花、珍しい色だったりしませんか?』
「……ああ、確かに。花自体はありふれたものだが、こんな色はとても珍しいと聞いた」
『恐らくペーハーによって花の色が変わるんでしょうね。紫陽花なんか有名ですけど。あれ? この世界には紫陽花ないんだっけ? まあいいや。とにかく、毒性分のせいで水素イオン指数が変化して、珍しい色になったんじゃないですかねぇー』
やはり精霊の言うことはあまり理解できない。
辛うじて、毒のせいで花の色が珍しいものになったと言っていることはわかった。
『多分、そのまま咲いているだけなら毒性はないんでしょうけど。切り花にしたことで茎から滲み出した毒が、花瓶の水と触れて……恐らくこっちの水にも何らかの成分が含まれてるんでしょうねぇ。それが反応して蒸発することで空気中に散って、やがて下に沈んで溜まるってところでしょうか。いやー随分と手をかけてますよねぇー、セシルさん』
「そんな……信じられない……」
恐らく、信じたくないだけだ。
アールスはもう、イプスの話すことが真実だとどこかで気付いてしまっている。
だけどそれを信じたら、もう自分の人生そのものが信じられなくなってしまうような気がするのだ。
『えー。まぁ、肉親に殺されそうになってるなんて、信じたくないのは理解できますけど。でしたら、僕の言ってることが本当かどうか、ちょっと実験してみましょうよ』
「実験?」
『そーそー、簡単ですよ。暫くその花を遠ざければいいんだけですから。そしたら、毒抜きできてアールスさんも元気になるし、セシルさんの毒も証明されるし一石二鳥じゃないですかー。やりましょう、ね、やりましょうよー 』
「そんな。あの花は、セシルが……誰にも触らせずに、大切に育てていて……それを、毎日俺のために摘んでくれてるのに……受け取らなかったら、気を悪くするだろうから……」
言っているうちに、アールスは自分でも矛盾に気付いてしまう。
セシルはあの花を誰にも触らせないようにしていた。
使用人にも絶対に世話させず、手折るときにも大切な花が傷付かないよう慎重にしている様子だと、庭師が話しているのを聞いたことがある。
アールスだけではなく、父が存命の頃も、セシルはあの花を沢山ベッドサイドのテーブルに置いた花瓶に活けていたという話だった。
静かな微笑みを浮かべながら、夫である男爵にも同じ花を活けている姿を簡単に想像できてしまい、アールスはふるりと頭を振った。
それに。
今日、ディアスが花を摘んできたと知ったときの、珍しく声を荒げたあの慌てよう。
一輪だけ挿された花瓶に水が入っていないことを確認したときの、安心したように微笑んだあの表情。
思い当たることが多すぎて、アールスは俯いてしまった。
『そうですねぇー、受け取るだけなら、まぁ。話を聞く限り、どうも室温も関係しているような感じでしたからね。花瓶に水を入れない、部屋の温度を低く保つ、しっかり換気する。あとは既に毒が染み込んでいる布製品も一新した方がいいですねー。これだけ徹底すれば、花くらいあっても毒は発生しないと思いますよー』
もうアールスに逃げ場はない。
項垂れたままぼんやりと精霊の光を見つめる。
「……わかった。やってみよう」
結果のわかりきっている実験を。
アールスは、ぽそりと呟いた。
『そーですか、その気になってくれて良かったですよぉー。これで僕も貴重なサンプルのお礼ができたってもんです。それじゃ、頑張ってくださいね。あ、結果がわかった頃、追加調査にまた伺いますんでー。ではっ!』
そう言うと、現れたときと同様にイプスは唐突に消えてしまった。
精霊界に帰ったのだろう。
「やるしか、ないのか……」
アールスのぼんやりした頭の片隅は、既に動き始めていた。
長年の侯爵教育は伊達ではない。
どれほど衝撃を受けても、アールス個人の感情など置き去りに、侯爵としての最適解を出すようアールスは訓練されている。
ゆっくりと目を閉じると、大きく息を吐いた。
体に溜まった悪いものを全て吐き出すようにして。
目を開けると、アールスのやるべきことはもう決まっていた。
震える手でベルを鳴らすと、使用人を呼び出す。
「もうすぐ姉上が花を持ってくる。受け取るのはいいが、姉上は絶対に部屋に入れるな。ああ、まずは窓を開けろ。それから家令をここに呼べ」
「あの、それは、セシル様にはなんとご説明すれば……」
「説明の必要はない。その後は部屋の模様替えもする。ただし、この部屋に入れるのは俺が許可した者だけだ。部屋の中の様子を誰かに話すことも禁じる。いいな」
「は、はいっ……!」
寝付いてからは、力なく弱々しい目で見上げるだけだった若き侯爵の、この変わり様はどうだろう。
相変わらずベッドに横たわっているだけだというのに、アールスは使用人を圧倒していた。
亡き前侯爵を思わせるような厳しい目に睨まれ、使用人は慌てて部屋を出る。
アールスは、時間をかけて少しずつ半身を起こすと、枕を背凭れにして寄りかかった。
すっかり息はあがっているが、まだやることはある。
深く呼吸を繰り返しながら、アールスはこれからの苦しい闘病生活を思い描いていた。




