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アールス・ブランブルーム⑥



 月が明るい夜だった。

 少しだけ開けられた窓からは、刺すような冷たい空気が部屋に入り込んでいる。

 時折、しゃらりと揺れるカーテンは、アールスの指示で新調されたものだ。


 真夜中にも関わらず、アールスは目を開けてベッドに横たわっていた。

 ベッドサイドには、感情の抜け落ちた微笑みを湛えたセシルが立っている。

 部屋の中ではあるが、二人の吐く息は白く凍えていた。


「何故かしら。不思議だわ。あなたが何を考えているのか、わからないの」


 セシルは、ベッド脇から遠くに移動されたサイドボードの花瓶に目をやり、こくりと首を傾げた。

 花瓶には以前と同じようにセシルの花が挿されている。

 だが、花瓶には水がない。

 アールスが使用人たちに、湿()()()()()()()()()()()()命令していたからだ。


「奇遇だな。俺も不思議だよ。姉上が何故こんなことをしたのか、考えてもわからない」


「それは当然だわ。アールスは何も知らないのだもの」


「ああ。知らないから聞いた。我が侯爵家の家令は優秀だな。父が存命のうちは何一つ決して洩らさなかったが、現侯爵である俺が命じたら話してくれたよ。あれは、俺や父に仕えているのではない。正しく、ブランブルーム侯爵家に仕えているのだな」


 アールスは、くつくつと喉の奥で嗤う。

 何も知らずに生きてきた自分を嘲笑うかのように。

 青白い月明かりの下で、セシルの顔がさっと蒼褪めるのがよく見えた。


「ダメだよセシル。侯爵令嬢たるもの、そんなにわかりやすく感情を顔に出してはいけない。そう父上に教わっただろう? あんなに書斎で()()されたのに、父上が亡くなったらすっかり忘れてしまったのか?」


 セシルが、戦慄く唇をぎゅっと噛んだ。

 忠告されたばかりだというのに、睨み殺ろすような勢いでアールスに厳しい視線を投げつける。


「ははっ、まさかそんな厳しい目ができるなんてな。幼い頃はわからなかったが、その目は父上そっくりだ」


「やめて!」


「俺を憎む目だ。そうだろう?」


 ぎりっ、とセシルの歯が鳴った。

 背中に隠されていた腕から、月明かりに鈍く薄い光がきらめく。

 セシルが放った凶刃は、迷いなく真っ直ぐアールスへと振り降ろされた。


 キインッ!

 甲高い音がして、痛みに似た痺れがセシルの腕に走った。

 アールスの持つ短剣がナイフを弾き飛ばしたのだと、一瞬遅れて理解する。


「まさか、もう動けるようになっていたなんて……」


 セシルの目からは険がとれ、ただただ驚きに見開かれていた。


「これでも騎士学校で鍛えてたんだ。父や男爵よりもずっと若いから、回復も早い。毎日、苦痛に喘ぎながらも体を動かす訓練だってしていたし、当然だろう」


「ふふ……そうね。世間知らずでのんびり屋の弟だとばかり思っていたけれど、わたくしの知らないうちに立派になっていたのね。騎士だなんて……敵うわけがなかったんだわ」


 セシルの腕から、だらりと力が抜けた。

 弾き飛ばされたナイフにちらりと視線をやるが、すぐに諦めたようにアールスを見つめる。


「学校にいた頃からのただの習慣だ。寝ていても気配があれば目覚めるし、襲撃に備えて寝床でも武器を置いておく。俺が騎士教育を受けていなければ、今頃は簡単に刺されて死んでいただろうな」


 セシルが、泣いているような笑っているような、歪な顔をした。

 姉がこんなにも感情溢れる顔を見せたのはいつ以来だろうか。

 幼い頃は、笑ったり泣いたり怒ったり、とても感情豊かな少女だったのに。

 彼女の育った環境が、彼女から大切な感情を奪ったのだ。

 そのことに、アールスは今更ながら泣きたいくらいに心揺らされてしまった。


 セシルはゆっくりと手を伸ばす。

 アールスの頬に触れた白く細い手は、氷のように冷たかった。


「お願いだよ、アールス。ねえ、あたしを助けてよ……」


 そうだった。

 まだ幼い頃、セシルはアールスの前でだけこんなくだけた話し方をしていた。


 アールスの前でだけ白い歯を見せて、真夏の空のように晴れやかに笑い、すぐアールスに抱きついてきた。

 そしてその度に、父の鋭く厳しい視線が向けられた。

 視線の先はセシルではなくアールスだ。

 なのに、叱責に呼び出されるのはいつもセシルだった。

 どうして忘れていられたのだろう。


「殺したくなんてなかった……なのに、殺したいほど憎くて堪らなくって……」


 どうして気付いてやれなかったのだろう。

 セシルの心は、もうとっくに壊れてしまっていたのに。

 アールスの心を占めるのは、後悔の念ばかりだ。

 何も知らずにいた自分が恥ずかしく、セシルを追い詰めてしまった自分が情けない。


「助けてあげられなくて、ごめん。セシル……」


 アールスの瞳からいつの間にか流れていた涙を、セシルの唇が掬い取る。

 右の目を。左の目を。

 頬を。

 唇の端を。

 幼い頃、隠れて泣いていた姉弟が何度もそうしていたように。


「ホントだよ。ばかアールス。ずっと苦しくて、辛くて、なのに全然助けてくれないんだもん。……でも、あたしも。今まで八つ当たりして、ごめんね」


 八つ当たりという言葉ではあまりに可愛らしすぎるが、それもセシルの激しい愛情によるものだったのだろう。

 アールスを愛していたからこそ、何も知らず助けてもくれなかったアールスが許せなかったのだ。

 今ならそれも理解できる。


 だが、今のアールスはブランブルーム侯爵だ。

 衝動のままに行動する幼い子供でも、青臭い正義のために立つ少年でもない。

 失ったものは、もう取り戻すことはできないのだ。


「なあ、教えてくれ。ディアスは……誰の子だ?」


 だから、侯爵の責任としてこれだけは聞いておかねばならなかった。


「心配しなくても、あの子はちゃんとブランブルームの正当な血筋を継いでるよ」


「……そうか。それを聞いて安心した…………」


 これは侯爵の立場としての言葉だ。

 アールス個人としては、安心など到底できるはずもない。

 心のどこかで、そんな事実はなかったと否定してほしかった。

 愛する姉の身に起こったことを、嘘で隠しておいてほしかった。

 往生際悪くそんなふうに考えてしまう自分が、心底醜くて卑しくて仕方がなかった。


「大丈夫だよ、アールス。ディアスのことは、ちゃんと愛していたから」


 くしゃりと歪んだアールスの顔に、もう一度セシルの唇が落ちてくる。

 初めてセシルから贈られた唇へのキスは、アールスにはひどく苦く感じられた。

 なのに、離れたセシルは、思わず見惚れてしまうような晴れ晴れとした笑顔を覗かせる。


「あたしにも教えて。なんでアールスは気付いたの? 錬金術師の暗い青(ブルネイヴィ)の花のことは、土地の人以外に誰も知らないはずだったのにさ」


「親切な精霊が、教えてくれたんだ」


 アールスは自嘲気味に笑った。

 セシルは満面の笑みで笑った。


 まるで、真夏の空のような、晴れやかな眩い笑顔で。

 喜色を浮かべながら、セシルが素早く動く。

 止める間もなく、彼女は薄く鈍い光へと駆け寄った。


「すごいね! だったら、アールスは絶対に幸せになれるんだ。良かったねぇ!」


 それが、アールスが最後に聞いた姉の言葉だった。



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