フィナ・エバーリア③
フィナは、暴れウサギとの衝突を覚悟して身を固くした。
だが、その瞬間は訪れることがなかった。
猛烈に駆けていたウサギが、突然真横に弾き飛ばされたのだ。
本当に突然、何の前触れもなく進路を変えたようにしか見えなかった。
大きく飛んだウサギは、ぴくぴくと痙攣し、そのまま動かなくなる。
よくわからないが、取り敢えずの危機は去ったのだろうか。
ほうっと息を吐いて、フィナは横を向く。
そして、もう一度驚きで大きく息を呑むことになった。
「あの……大丈夫?」
フィナの視線の先。
そう声をかけてきたのは、細身の若い男だった。
地味な生成りの服を纏っているが、よく見れば生地も仕立ても悪くない。
蜂蜜色の髪を緩く結ぶ組紐は、やはり地味な色だが正絹でできている。
男性にしては珍しい白い肌。
深い森の奥にある湖のような、静謐な翠の瞳。
決して美しいわけではないが、不思議と人好きのする顔立ちをしている。
それはこの男の持つ柔和な雰囲気のせいだろうか。
一見して地味なだけの男だが、よくよく見れば彼がただの市民ではないことがわかる。
伸びた背筋と、滑らかに動く長い手足、指先まで洗練された動き。
そして、指に嵌められた貴重な魔法石の指輪。
魔法石がどれほど貴重なものか、エバーリア商会の娘であるフィナは知っていた。
これ一つで、平民なら一家が一年贅沢をして暮らせる程度の高価なもの。
しかも青年の魔法石は、大きさといい深みのある色合いといい、一般に流通している魔法石よりもずっと高価なものである可能性が高い。
間違いない。彼は貴族だ。
フィナは、ふるりと肩を震わせた。
「ごめんね、咄嗟に風の魔法で仕留めてしまった。君のウサギだったかい?」
ぼうっと男を見つめていたフィナは、やっとのことで首を横に振った。
もう、言葉も出なくなっていたのだ。
「そうか。それなら良かったよ」
男は、ふわりと微笑むともう動かなくなったウサギに目を向けた。
「あの憐れなウサギは、ぼくが処理させてもらうよ」
そう言って、軽く会釈をするとフィナの前から立ち去ろうとする。
慌てたフィナは、思わず男の腕を掴んでいた。
男は少し驚いたような顔を見せたが、優しい声音で「どうかした?」と問い掛けた。
はしたない真似をしたと焦ったフィナは、羞恥で耳まで赤くなった。
けれど、掴んだ腕を離すことはしない。
この出逢いを逃がすわけにはいかなかった。
フィナには、絶対に彼を繋ぎ止めなければならない理由があったのだ。
「あの、お礼をさせてください。せめて、お名前だけでも……」
ただの平民であるフィナが、貴族の腕を掴んで名前を尋ねるなど、とんでもないことである。
本来ならこのまま兵士に突き出されても仕方のないことだが、彼ならば大丈夫という自信があった。
事実、男は柔らかな笑顔のまま、真っ赤になったフィナを優しく見つめていた。
「そうだなぁ。可愛らしいお嬢さんの、可愛らしいお礼なら楽しみだね。ぼくはグラン・ホロウフッド。しがない子爵家の放蕩息子で、よく街にも遊びに来ているよ。おかげでこんな可愛らしいお嬢さんと知り合うことができた。君は、見かけないけどこの辺に住んでいるのかな?」
「はい! あの、私はフィナです。フィナ・エバーリア。街には初めて来ました。グラン様には危ないところを助けていただき、本当にありがとうございました」
フィナが頭を下げると、グランの白い顔がなぜか更に白くなっていた。
*****
『貴族と平民』は、子供の寝物語として有名な外国のおとぎ話だ。
貴族の令息と平民の娘が恋に落ち、家の反対にあいながらも愛を育むという恋物語である。
物語の冒頭、二人は郊外の丘で出逢う。
馬に乗って出掛けた女が、蜂に刺されて暴れた馬に襲われ、そこをたまたま通りかかった男が魔法を使って助けるのだ。
そこでお互いに名乗り、身分差を知りながらも惹かれ合う。
「私とグラン様の出逢いは、まさに貴族と平民の出逢いだったのよ」
「あー、そうかもねぇ」
全く興味なさそうにフィナの話に相槌を打ったのは、専属護衛のジェナだ。
家出から帰宅したフィナは、自身の身に起こった奇跡のような出逢いを誰かに聞いてもらいたくて堪らなかった。
行き合う使用人たちに声をかけたが、誰も彼も『貴族と平民』のことは「存じ上げません」と頭を下げると、視線をきょろきょろとさせながら足早に去って行く。
この話を教えてくれた使用人は誰でも知っている有名な話だと言っていたが、案外知られていなかったらしい。
もしかしたら、外国の物語だからかもしれない。
残念に思いつつ、それでも諦めずに声をかけ続けると、一人だけ「知ってるよ」と言う者があった。
それがジェナである。
彼女は、フィナの護衛ではあるが、他の護衛たちのようにエバーリアに雇われた者ではない。
エバーリアとは別口で個人的にフィナを護衛しているため、彼女とフィナの関係は、単なる護衛対象や雇い主に対するものよりもずっと気安いものだ。
「で、お互い名乗ったから、次は逢瀬を重ねて愛を深めるだけって?」
ジェナがそう言うと、フィナは瞳をキラキラとさせてこくこくと何度も頷いた。
その様子を見て、ジェナはこっそりと溜め息を吐く。
どうやら、出逢い話を五回も聞かされるという苦行は回避できたらしい。
同じ話を既に四回も聞かされた後で、お腹一杯だったのだ。
「問題は、どうやってグラン様にお会いするかということね。また家出するしかないのかしら?」
「家出ねぇ……。今度は難しいんじゃないの? なんたってあのイルブランドが、男に会うためなんて理由で外に出るのを絶対に許さないと思うけど」
そうなのよね、とフィナは小首を傾げて頬に手を置いた。
「家の人に反対されるのも、物語の通りなのよ。女性が家に閉じ込められるのもね。だけどそれは今じゃないわ。もう少しグラン様と親交を深めてからでないと」
眉をハの字にして垂れさせたフィナが、困った顔でジェナを窺う。
ジェナも腕組みをしてうーんと唸ってから、ぽつりと呟いた。
「難しいけど、ま、可愛いフィナの我儘だからね。あたしがなんとかしてみるよ。あの娘バカくそ親父の慌てる顔を見るのも面白そうだしね」
ぱあっとフィナの顔が輝いた。
これで、恋物語の主人公になる準備が整った。
あとは教科書にそって行動すれば、何もかもうまくいく。
恋をしたいというフィナの夢が、叶う。
「あなたが味方で良かったわ。早速だけど、グラン様にお手紙を書くから届けてね。あっ、でも――」
「わかってるよ。家の人に見つからないように、こっそり男に渡せばいいんでしょ。物語と同じようにさ」
ジェナがぱちりと片目を瞑り、フィナがにこりと微笑んだ。




