フィナ・エバーリア①
第2話は、少しばかり頭の悪いお話です。
『あのー、もしもーし! 聞こえてますよねぇ? そろそろここから出してもらえませんかぁー? そんでもって、あなたのお名前と人生について聞かせてくださぁーい! あっ、忘れてた。僕は箱の精霊イプスでーす! ほらほら、精霊ですよぉー! 精霊が会いに来ましたよぉー!』
フィナ・エバーリア、十五歳。
立った今、彼女は一生の恋の相手と決めた男に振られたばかりだ。
何もかも投げ捨てて、駆け落ちする予定だったのに。
どうしてこんなことになってしまったのか。
『おーい! 返事してくださいよぉー! ああもう困ったなぁ……もう帰っちゃおうかなぁ。でもなぁ、そうすると怒られるのは僕だもんなぁ……はぁ……』
さめざめと泣くばかりだったフィナが、ぱちぱちと瞬いた。
長い睫毛から垂れる涙が、持ってきた鞄に染みを作る。
恐る恐る鞄を広げると、無造作に積まれた四角い金属の中に、見慣れない薄い板のようなものが紛れていた。
眩い光を放つ四角い板は、触れるとほんのり温かかった。
フィナは、冷たくなった手で板を胸に抱く。
「精霊さん……とても温かいわ。私に幸せをくれるなら、いくらでもお話します。だから、今だけは、ちょっとだけ……冷えてしまった私の心を温めてください」
『ああ、熱放散ですねぇ。いくらなんでもそんな熱では温まらないと思いますよー?』
フィナの耳に、精霊の言葉は届いていなかった。
それ以外の如何なるものも、フィナには届いていなかった。
彼女は、ただ自身の内に籠っていたのだ。
何度も繰り返し思うのは、愛しい男の残した言葉だけ。
「やっぱりやめよう。こんなことは良くないよ。フィナのお、おと、お父さん……ヒッ! イルブランドさんも、悲しむよ。だから今日はお互い帰って、それから今後のことを考えよう」
そう言って、駆け落ちの待ち合わせ場所から去って行った男の後ろ姿をフィナは呆然と見送っていた。
あのときの光景を、頭の中でもう何度繰り返したことか。
思い出せば思い出すほど愛しさが募り、同じくらい不満が積み重なる。
どうして、いきなり彼は心変わりしてしまったのだろう。
自分にはわからない、決定的な落ち度があったのだろうか。
せめて理由が知りたい。
こんなとき、相談できる誰かがいれば――。
フィナが、ぱちりと目を開いた。
手の中に握った温もりが、凍ったフィナの心をいつの間にやら溶かしていた。
「精霊さん。どうか、私の話を聞いてください。そして、何がいけなかったのか教えてください」
『あっ、はいはいー。よろこんでー! では、張り切ってどうぞー』
*****
フィナは、エバーリア家の一人娘である。
サファイア色の髪に黄金色のトパーズを嵌め込んだような瞳で、エバーリアの宝玉と呼ぶ者もいる。
エバーリアといえば、知らぬものはないくらい有名な商家だ。
食品、生活雑貨、衣類、薬品、家畜、貴金属から魔道具まで、凡そ商売と名のつくものは手広く扱っている。
客層も広く、片田舎の村落も王都の貴族も、エバーリア商会の顧客リストには載っていた。
現在の商会トップであるイルブランド・エバーリアは、フィナの父親だ。
従業員に対しては厳しいが、一人娘は目の中に入れても痛くないどころか、目をくり抜いて代わりに入れられるのなら眼窩に閉じ込めて守りたい、と公言していることで有名だった。
その言動からわかる通り、フィナは箱入り娘である。
それもただの箱ではない。
美しい彫刻のされたガラス細工の箱をきらびやかなダイヤで覆い、周りをオリハルコンとミスリルの合金で囲って、宮廷魔術師の作った魔術錠を何重にもかけ、耐熱耐震耐水耐ドラゴンの金庫に丁寧にしまってから、虹の欠片で編んだリボンをかけて、異世界迷宮の奥深くに隠したような――
要するに、イルブランドの目の届く安全な檻から出してもらえない、憐れな雛鳥であったのだ。
箱入りとはいえ、全く外界との接触がないわけでもない。
周りをガチガチに護衛に固められているが、たまには街に出ることもある。商会の幹部や使用人たちから市井の話を聞くこともある。
幼い頃は特に疑問も持っていなかったが、それなりの年齢になったフィナは外の世界に興味を持ち、軟禁生活にも嫌気がさしてきた。
「私だって、街で食べ歩きをしてみたいわ。素敵な服や宝石を見て回りたい」
そう言ってみれば、イルブランドは娘のために商会の最高級品をずらりと屋敷いっぱいに並べてみせた。
そういうことではない。
不満に頬を膨らませるも、街は危ない、屋敷にいれば良い、と父は取り合ってくれない。
そのときは渋々引き下がったが、フィナにはもう一つどうしてもやってみたいことがあった。
いつか、それだけは父にも邪魔されずにやり遂げてみせる、と密かに息巻いていたこと。
それは、恋をすることだった。
数年前、フィナの境遇に同情した使用人の一人が、市井では有名だという恋物語を内緒でこっそり教えてくれた。
恋物語といっても、子供向けのおとぎ話だ。
珍しくもなんともない内容だが、初めて聞くフィナにとってはキラキラした宝石のような時間だった。
その話をいたく気に入り、フィナは何度も何度も使用人にその話をせがんだ。
すっかり夢中になったフィナに呆れた笑顔を向けながらも、使用人は何度も何度も同じ話をしてくれた。
何度聞いても色褪せない鮮やかな物語は、いつしかフィナの心の支えになっていた。
だが、フィナに恋物語を教えてくれた使用人は、ある日突然エバーリア家からいなくなってしまった。
挨拶もないなんて、薄情な娘だ。
今日からもうあの恋物語が聞けないではないか。
ならば、他の使用人に恋物語を聞かせてもらおう。
フィナはそう考えたが、声をかけた使用人は誰もあの恋物語を知らなかった。
唯一の楽しみであった恋物語が聞けなくなり、フィナはすっかり気分が沈んでしまった。
あの恋物語の内容は全部覚えていたけれど、自分で話してみても使用人が話していたときのようにドキドキもワクワクもしない。
使用人たちに他のものでもいいから恋物語を聞かせてほしいとせがんだが、みな一様に「恋物語はひとつも存じ上げません」と言う。
「ああ、恋物語が聞きたい。心が熱くなるような、そんな恋が知りたい……」
呟いて溜め息をついたフィナが、ぱちぱちと大きな瞳を瞬かせた。
今、自分が言ったことをもう一度口に出してみる。
「恋が……知りたい…………?」
自分が知りたいのは、恋物語ではなく恋だったのか。
それに気付くと、全てに納得してしまった。
何故、フィナがあんなにも恋物語に夢中になったのか。
それは物語の恋人たちに共感したからだ。
全身全霊をかけてお互いを愛する恋人たちが、羨ましかったからだ。
「私は、恋をしたいのだわ」
であれば、やるべきことが幾つかある。
まずは屋敷の外に出なければ。
素敵な異性との素敵な出逢いがなければ、素敵な恋は始まらない。
外に出たいと言ってみたものの、父親は危険だからと許可をくれなかった。
だが、そのくらいは想定内だ。
自室に戻ったフィナは、小さな拳を握りしめて、大きな決意を口にした。
「お父様の許可などいりません。私はもう二年も前に成人してるし、結婚だってできる年齢だわ。親の言うことを聞いて、仕事もせずにこうして家にいることがおかしかったのよ。こうなったら、家出するしかないわ!」
そうと決めたら、早速準備に取りかからなければ。
外に出るなら、布地の豊富なドレスや柔らかい絹の靴ではダメだ。
一人で暮らしていくのにはお金も要る。
フィナは使用人を呼び出し、家出に相応しい服と靴を用意させた。
それから父親にお小遣いを貰い、ついて来ようとした護衛に家出することを告げて街に出た。
こうして、とうとうフィナは箱抜け娘になったのである。
*****
『んんん? あの、ちょっとよくわからなかったんですけど、フィナさんは家出をしたんですよね? 服と靴を用意させて、お小遣いを貰って、家出を宣言して???』
「ええ、街までは馬車で送らせました。もしかして精霊さんは家出をご存知ないのかしら?」
『馬車ですかぁー……。いやー、家出は知ってるんですけど、どーも僕の知ってる家出とちょっと違ったみたいなんで』
「あら、そうでしたか。精霊界の家出は、私たちの世界の家出とは少し違うのかもしれませんね」
『うーん、多分、そちらの世界でもかなり珍しいタイプの家出だと思いますけどねー』
「そうですか? でも、私は家出したおかげで、あの方に出逢うことができたんですよ」
フィナが、赤味の差した頬に手を当てる。
うっとりと伏せられた瞳は、愛しい男の優しい笑顔を思い出していた。




