第2章
(一)
牛乳瓶の底のような、分厚い眼鏡。レンズの向こうに小さく縮小されてみえる鋭い眼。眼鏡の下に陣取る大きな鼻。口を開けば歯全体が茶色く変色している。相当なヘビースモーカーのようだ。
頭を剃り黄土色の法衣を身に着けていて、一応僧侶らしい外見はしているが、どこか生臭い。
夜が明け、朝日が東の空に昇っている。
文次郎の家から歩いて十分程。街外れにある大光院の庫裏で、文次郎と美奈は美奈の叔父智海と対座していた。
「初めまして。八岡文次郎と申します。あなたとは遠い親戚にあたります」
文次郎が座したまま頭を下げる。
智海はそれには答えず、美奈の方を向いた。
「何で連れてきた。例のことを喋ったんじゃあるまいな」
「それしかなかったんです」
美奈が応じた。
「財宝のありかを示す刀は、文次郎さんのお宅でも大事に仕舞われていたんです。写真だけ撮ってくるなんて、到底できませんでした」
「ふん。そうかい」
智海は不機嫌そうに呟くと、懐から煙草とライターを取り出し、火を点けた。一息吸うと、やや口元を上に上げ、紫煙を吐き出す。
「それで、あんたはどうしたいわけ?」
文次郎に視線を移し、智海が言った。初対面の相手にいかにもぞんざいな態度だ。
文次郎は正座し膝に両手を置いている。掌に冷や汗が滲んだ。
「はい」
あえてひと呼吸置いてゆっくりと返事をする。自分自身の緊張を和らげるためだ。
後ろに置いてあった刀を膝の前に置く。
「ご覧になりたいものはここにあります。美奈さんの家に伝わっていた鞘と、我が家にあった鍔と柄。二つの刀を合わせたのがこの刀です」
「見せてもらっていいかな」
再び紫煙を吐きながら、智海が言った。
「その前に」
文次郎が智海の言葉を遮った。
「条件が二つ、あります」
「ほう。条件。何だね」
文次郎は正座し膝に両手を置いたまま言い放つ。両手とも拳を固く握り締めている。
「一つは、美奈さんのことです。あなたは美奈さんを僕の家に侵入させた。美奈さんはそのことで凄く悲しみ苦しんでいます。今後美奈さんをご自分の財宝探しのために利用することはやめていただきたい」
智海は煙草を銜えたまま文次郎をひと睨みすると、一旦煙草を手に取り、傍らに置いてあった灰皿に煙草の灰を落とした。
「分かった」
再び煙草を銜えると、紫煙を吐き出す。
「で、もう一つは?」
「はい」
文次郎は落ち着き払って言った。
「もし財宝が見つかったら、美奈さんにも分けてあげてください」
「えっ」
これには美奈が反応した。
「私は弁当屋が潰れなければそれでいいんです。財宝の分け前なんか」
「そうはいきません」
文次郎は美奈に視線を向けた。
「大金が手に入れば、セレモニーホールの仕事切るぞって脅されることもないでしょう」
「でも…」
言いかける美奈を智海が遮った。
「じゃあ。文次郎さん。あんたは分け前いらないって意味かい?」
「いりません」
「ハッハッハ」
智海が噴き出した。
「分け前、いらんのか。こりゃ面白い」
「いりません」
文次郎は無表情で繰り返す。
智海は膝を打った。
「そんな条件なら、喜んで呑むよ。気に入った。あんた欲ないね」
智海は茶色い歯を出して笑みを浮かべる。
「約束してくださいよ。絶対この条件守るって」
「ああ承知した。承知したから、早くその刀、見せてよ」
「はい」
文次郎は頷くと、刀を捧げ持ち智海に渡した。
(とりあえず良かった)
ポーカーフェースのまま、文次郎はほっとしていた。美奈の話から、智海は恐ろしい男のように予想していたからだ。文次郎の条件を呑んでくれなかったらどうしよう。美奈や自分に危害を加えようとしたらどうしようと恐れ、身構えていたのだ。
(案外、怖くなかった。いや。これで油断しちゃいけない。この坊主、条件をあっさり呑んでおいて、何を企んでいるか)
文次郎と美奈が注視する中、智海は刀の鍔を眺め回した。
「『百歌』『引取』『庚申』『不鳴』か」
智海は独り言のように呟いた。この地域の土地の年配の人は、一種の方言で「ひ」と「し」が同じになってしまう。智海は「百」を「しゃく」と発音していた。
「これで何か分かりますか」
美奈が問いかける。
「あんたはどう思う?」
智海は美奈にではなく、文次郎に向けて問いを発した。
「そうですね」
文次郎は美奈に目配せをした。美奈が質問しているのに無視された格好になったので、気を遣ったのだ。
「僕の直感ですけど、『歌』といえば和歌です。『百』の和歌といえば百人一首。百人一首に何か謎を解く鍵がありそうに思えます」
美奈が膝を叩いた。
「そう。百人一首! 私もそれを思いました」
「はは。俺もそう思った。ここは見解が一致だな」
文次郎が膝を僅かに前へ進めた。
「それで、場所を示すのが『百』と『庚申』です」
「ほう」
智海がずり落ちて来た眼鏡を上げた。
「美奈さん、庚申、カノエサルて何だか知ってる?」
「ええ、何となくは。甲乙丙丁…の十干と子丑寅卯辰巳…の十二支とを組み合わせて、暦を表すっていう。昔は誰でも知っていたけれど、今は年賀状を書くときに位しか使わないアレですよね。六十日ごとに庚申日がやって来て、六十年に一度庚申年が訪れる」
「そうそう」
「庚申信仰ってのが遥か昔、平安時代からあってね」
智海が続いた。
「庚申の夜、無病息災を願いながら眠らないで過ごすっていう風習があってね。江戸時代には、特に盛んだった」
「ええ。それで、熱心な信者や信者の集まりが『庚申塔』を造立した。中には一か所に庚申塔が百も建てられる所もあって」
「私、五百羅漢ていうのは見たことあります。学校の遠足で。それと似たような話で、庚申塔が百集まったのが『百庚申』ですね」
美奈が頷いた。
「まあそんな感じです。で、その百庚申が、この大光院の裏手の洞穴にもある」
智海が応じる。
「よく知ってるね。そう、この大光院には裏山があってね。山全体が寺の土地になってる。その山の麓に、百基の庚申塔が建てられた洞穴があって、『百庚申洞』といわれてる」
文次郎が続いた。
「実は僕、中学生の時社会科見学ということで、百庚申洞を見学したことがあるんです。財宝云々ではなく、文化財として。洞穴の中に神様だか仏様だかの像が沢山並んでいて、それぞれに何故か一首ずつ、百人一首の歌が刻まれていて。強い印象があったんです」
「成程。それで刀の『百歌』『庚申』から直ちに百庚申洞を連想したって訳か」
「そういうことです。吾等が宝、百庚申に在り、と読めば、八岡家の財宝が百庚申洞に隠されているってことになります。僕はあそこが財宝の隠し場所じゃないかって気がするんです」
文次郎は膝を進めた。
「よかったら百庚申洞を調べさせていただけませんか」
「うーん」
智海はちょっと考えると、首を曲げずに顔面を少し突き出したまま、頭部全体をぐいっと下げた。頷いているのか違うのか、微妙な仕草である。
「ああ。いいよ」
「どうもありがとうございます」
文次郎は頭を下げた。
「でも、『不鳴』ってのはどう読む? 暗号を全部解読しなけりゃ、財宝を見つけることは無理だと俺は思うがね」
「無理かどうかは、行って調べてみないと分かりません」
智海は横に置いてあった灰皿に、煙草の吸殻をぐいと押し付けた。
「随分自信があるんだね」
「はい」
智海は懐から次の煙草を一本取り出すと、火を点けた。
「ま、やってみるんだね。俺の代わりに宝探し。俺は足が悪いからやってくれるんなら助かる」
「ええ。必ず見つけてみせます」
文次郎が次の言葉を発しようとしたとき、黙って二人のやり取りを聞いていた美奈が割って入った。
「私も」
普段物静かな美奈の声が裏返っている。
「私も参加させてください! 横で見ているだけじゃ、つまりません」
智海が美奈に顔を向けた。
「ほう。どうするつもりだ」
美奈は声を大にして言った。
「文次郎さんと一緒に財宝を探します。丁度今日から一週間、弁当屋はお盆休みだし」
美奈は隣に座っている文次郎ににじり寄ると文次郎の腕を取った。
文次郎と美奈がこれ程までに近い距離で接したことはない。美奈の体の温かささえ、文次郎の体に伝わってくる。文次郎は美奈の思わぬ行動にどぎまぎした。
「いいでしょ? 文次郎さん」
「え、ええ。勿論」
「はは。まあ、勝手にしろ」
智海は吸いかけの煙草を灰皿に押し付けた。
「宝探しの、期限は? 別に設けなくていいですか」
立ち上がりかける智海に、文次郎が声をかけた。
智海が右手を突き出し、文次郎の眼前で一本の指を立てた。
「一日だ」
「え? たった一日? どういうことですか」
目を見開く文次郎から視線を逸らし、智海は天井を見上げた。
「株に手え出して大損してね。裏山の土地と建物を借金の担保に取られてる」
「えっ。そんな」
文次郎と美奈が同時に声を上げた。
「借金返済の期限は明日。正確には、明日の夜明けまで。つまりそれまでに財宝が見つからなきゃ、百庚申洞は他人に取られちまう。酷え話だが、そしたら財宝探せないだろ。だからちょいと焦って、美奈をあんたの家に侵入させたってこと」
文次郎がのけぞった。
「それ、最初に言ってくださいよ」
文次郎が言いかけたとき、智海は既に立ち上がり、後姿になっていた。
「ま、そういうことで時間がない。すぐに宝探しを始めるんだな」
智海の後姿が視界から消えるのを待って、美奈が文次郎に言った。
「ごめんなさい。不愉快だったでしょう。叔父って傲慢っていうか、他人が全く眼中にないっていうか。若い頃からああなんですって」
「いや。謝らなくてもいいです。美奈さんを苦しめていた方だから、ある程度覚悟はしてましたから。美奈さんの方が余程、大変だったでしょう」
「そんな風に思ってくれるのは、文次郎さんだけです」
美奈は文次郎の手を取った。
「期限は明日の夜明けまで。それまでに暗号を解読して、財宝を見つけないといけない。かなり難しいけど、一緒に頑張りましょう」
「はい」
美奈の手はふわふわと柔らかく、暖かい。
文次郎は思った。
(僕は少し、変われたかもしれない)
自分は風采の上がらない、つまらない男。口下手でお金もなく、スポーツとか芸事のような特技もない。そんな風に自分を捉え、生まれてから今日までのニ十余年、漠然とした劣等感を持ち続けてきた。
ついさっきも賊の侵入に気づき、賊が日本刀を担いでいるのを見て恐れ慄いた弱い自分でもある。
が、今はどうであろう。
傲慢で他人が眼中にない、高圧的な智海を相手に、自分の考えを堂々と主張し、諸々の条件を呑ませることができたではないか。
(美奈さんを守ろうと必死になったからだ)
そうなのだ。守るべきひとがいる。守るべきひとのためなら、人間は強くなれる。
財宝が見つかっても、自分は分け前はいらない。そう言ったのは智海に対する作戦とか、駆け引きのようなものではない。
(美奈さんのためになるなら、何の得もなくていい。持っているものを全部、捨ててもいい)
という感情がごく自然に湧きでてきたのである。
無償の愛。
(たとえ片想いでも、無償の愛というのはあり得る筈だ)
美奈の手を握り締めながら、文次郎の心に強い心が漲り始めていた。
(二)
「叔父から鍵を借りて来たんで。今開けます」
大光院の裏山の麓にある洞穴の入口で、美奈が文次郎に声をかけた。
入口は大人一人が通れる程度の小さなものだ。その上に「百庚申洞」と彫られた扁額が架かっている。入口には観音開きの扉が付けられ、南京錠が施錠されていた。
美奈が扉を開いた。文次郎の先に立って洞穴に足を踏み入れる。
入口から差し込んでくる外光は、僅か数メートル中に入ると途切れてしまう。漆黒の闇だ。
小さな羽音を立て、何かが二人の頭上を掠めた。
「きゃっ」
声を上げる美奈に、文次郎が声をかけた。
「大丈夫。蝙蝠ですよ」
歩きながら文次郎は、懐中電灯で洞穴の天井を照らした。
「この洞穴は、恐らく人工的なものじゃない。自然にできた洞穴をちょっと加工して百庚申にしたんでしょうね。天井はごつごつした自然の岩のままだ」
美奈が天井を見上げた。
「そうですね」
「智海さんの仰る通り、本当に何億円相当の財宝があるなら、ある程度広い置き場所が必要な筈だ。隠し部屋のような場所が。とすると洞内のどこかに、隠し場所に通ずる隠し扉みたいなものがあるんじゃないかって、僕は思うんです」
「成程。文次郎さんのお部屋にあった本棚の裏の隠しロッカーと一緒ですね」
「はは。そういうことです。財宝を隠したご先祖様も子孫の僕達も同じ発想ということですね」
文次郎は懐中電灯を通路側面に向けた。
「でも、天井もそうですけど側面の壁も天然の岩。岩を砕いて隠し部屋を作るのはかなり難しそうですね」
美奈が地面を指差した。文次郎が懐中電灯を足元に向ける。
「じゃあ、地面ですか? 地面は土だから、隠し部屋の入り口を作ってその上に土を被せて見えなくしてるっていうのもありかもですね」
文次郎が頷いた。
「ええ。その可能性もあると思います。もう一つ、ありそうなのは」
「ありそうなのは?」
美奈が首を傾げる。
文次郎は前へ進み、前方を指差した。
通路の向かって右側に高さ一メートル半ほどの窪みがあり、その中にすっぽり収まる形で小さな庚申塔がある。
「この洞穴には、その名の通り百基の庚申塔が並んでいますよね。それぞれの庚申搭が置かれている窪みは、明らかに庚申搭のサイズに合わせて岩を砕いて加工している。加工ついでに、隠し扉を近くに作ったとしても不自然じゃない」
美奈が首肯した。
「成程。窪みも確かに候補地になりそうですね」
庚申塔の前には、二本の蝋燭が対で灯されており、美奈と文次郎は、蝋燭の明かりを頼りに、その前へ立った。
美奈が背負っていたリュックから懐中電灯を取り出す。
「これ、使いますか」
「ありがとう」
文次郎が受け取り、塔を照らす。
「ここの庚申塔のご本尊は庚申塔としてはポピュラーな青面金剛。三つの眼と六本の腕を持つ神様です」
「ですね」
「庚申信仰を持った人達は庚申日には眠らず、徹夜で過ごす。その象徴として、金剛の足元近くには、鶏の姿が刻まれることがある。鶏って夜明けを告げる鳥ですから」
美奈が頷いた。
「ええ。で、下には『見ざる、言わざる、聞かざる』の三猿が描かれるんですよね。人々の悪事を見ない、告げ口しない、聞かないってことで」
「そういうことです」
「文次郎さん、お詳しいですね」
文次郎は頭を掻いた。
「いえ、今のは中学の先生の受け売りですよ。社会科見学の時の。美奈さんこそお詳しそうで」
「いいえ。私は叔父の影響でちょっと知ってるだけです」
「でも、良かった。お互い少しでも予備知識があれば宝探しの役に立ちますね」
「ええ」
美奈が微笑んだ。
「一旦家に帰って、懐中電灯以外にも、宝探しに必要そうなものを色々持って来たんですよ」
美奈は、刀に代わってピンク色のリュックを背負っている。リュックを前に持ち直して文次郎の前で開けて見せた。
「データ収集と整理のためのタブレット。壁や天井を叩いてみるための木槌。地面を掘り返すのに使うシャベル。あと、百人一首の参考書、『ニュー百人一首』」
「いやー。それだけあれば十分です。どうもありがとうございます。僕も使いましたよ。『ニュー百』」
「じゃあ、早速始めましょうか」
美奈が楽しげに言った。
文次郎が頷く。
「そうですね。まずは一つ目の庚申塔の観察。百人一首の歌が一首、刻まれている筈だ」
庚申塔の台座に、何か文字が見える。文次郎は懐中電灯で照らした。
「えーと。来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに」
「焼くや藻塩の身もこがれつつ。百人一首の選者の、藤原定家の歌でしたよね」
「ですね。でも、百人一首では最後の方になっている歌。これがいきなり先頭なんですね」
「ええ。なんかちょっと不自然」
美奈は、タブレットをリュックから取り出した。
「入口から順に番号でも振って、撮影しときませんか。今見て成果がなくても、後でよく分析したら何か分かるかも」
文次郎が手を打った。
「ナイス! 是非そうしましょう」
「タブレット、持って来てよかった。洞穴の中じゃ通信はできないけれど、単体としては使えますよね」
美奈は言いながら、一つ目の塔を写真に収めた。
「よし。次に行ってみましょうか」
二人は、二つ目の塔へと歩を進めた。
台座の文字を懐中電灯で照らす。
「ひさかたの光のどけき春の日に」
文次郎が口ずさむ。
「しづごころなく花の散るらむ。紀友則ですね」
美奈が続いた。
美奈はリュックからニュー百を取り出し、パラパラと捲る。
「これなんか百人一首の中では三十三番目の歌ですよ。ここでの順番とはまるで関係ないんですね」
「と、いうことですね」
文次郎が首を傾げる。
「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」
「君がため惜しからざりし命さへながくもがなと思ひけるかな」
文次郎と美奈は、一つひとつの庚申塔の文字を読み上げながら、洞穴の奥へと進んで行く。
「恋の歌が続きますね」
美奈が心から楽しそうに、微笑んだ。
「恋の歌、僕も好きですね。『瀬を早み』なんて大好きです」
文次郎も笑みを返した。
順々に調査と撮影を進めて、数時間。
五十番目の庚申搭の撮影を終えた文次郎と美奈の前に、一際大きな庚申搭が現れた。
高さは、これまで見てきた庚申搭の倍、二メートルはある。小柄な美奈は勿論、文次郎から見ても見上げる高さだ。
「吹くからに秋の草木のしをるれば」
「むべ山風を嵐といふらむ」
台座に刻まれた歌を二人で読み上げ、美奈が撮影する。
「ここの百庚申って小さな庚申搭、『子庚申』が九十九あって、その中心に大きな『親庚申』があるんです。これがそうですね」
「大きいだけでなく、綺麗ですよね」
「子庚申」が黒く着色されているのに対し、「親庚申」は極彩色。身体は青色。目は赤。三匹の猿の毛は茶色。鶏は鶏冠が赤、羽毛が白・赤・茶の三色で彩色されている。
「むべ山風、かあ。何でこれが親庚申なのかな」
文次郎は顎に手を当て、呟いた。
「これって何でしょう」
美奈が鶏の顔の部分を指差す。
鶏の嘴がない。
「今まで見た中で、これだけですよ」
文次郎は首を捻った。
「さあ。ちょっと引っかかりますけど・・・・。古い時代のものだから、欠けてしまった?」
百庚申洞の中心に、「むべ山風を」の歌。唯一、欠けている嘴。何か不自然さはあるが、文次郎も美奈もそれがどういう意味なのか、掴めない。
「うーん。分からない。引っかかるんだけどなあ」
腕を組む文次郎を、美奈が促した。
「まずは、先に進みましょ。悩むのはそれからでも」
美奈が微笑む。
「そうですね。悩むのは後にしましょう」
文次郎は微笑を返すと、前に進んだ。
進みながら、腕時計を見る。
(もう、三時になっちゃったな。時間がない)
文次郎の心に、焦りが生まれ始めていた。
十歩程進むと、五十一番目の庚申塔があった。
「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋は悲しき」
美奈の言葉に、文次郎の声が上ずった。
「あ、『鳴く』ですね。鳴くって言葉が出てきましたね」
「鳴くですね。『不鳴』の暗号を解く鍵になるかもですね!」
二人はすぐに次の庚申塔へ向かった。
「淡路島かよふ千鳥の鳴く声に」
「いく夜寝覚めぬ須磨の関守」
「わあ。また『鳴く』だ。さっきは鹿。今度は千鳥」
美奈が歓声を上げた。
次の庚申塔。
「ほととぎす鳴きつる方をながむれば」
「ただ有明の月ぞ残れる」
「ほととぎす!」
今度は二人同時に声を上げた。
そして、次。
「世の中よ道こそなけれ思ひ入る」
「山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」
二人は顔を見合わせた。
「鹿は二匹目ですね」
美奈が笑った。
文次郎の顔にも笑みが浮かぶ。
さらに次の庚申塔。
「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに」
「衣かたしきひとりかも寝む」
「きりぎりす。虫もいたんですね」
二人の興奮が止まらない。
「『鳴く』歌って随分多いですね。これならきっと、お宝の手がかりも見つかりそう」
「ですね」
美奈はニュー百を取り出し、ページを繰った。
「『鳴く』って言葉が入っている歌は全部で五首。つまり、ここにみんな集まっているんですよ」
「ここに『鳴』のつく歌が全部集中しているってことは」
美奈が大きく頷いた。
「お宝はこの辺にある気配がしますね」
「そう。刀の暗号、『百歌』『庚申』、そして『不鳴』。『不鳴』の『不』と『引取』がまだ解けてないですけど、ここなら八割か九割は暗号に合致しますよね」
「文次郎さんの推理では、庚申塔の窪みか地面に秘密の隠し部屋の入口がありそう、でしたよね」
文次郎は笑みを浮かべ、頷いた。
「まずは窪み、突いてみましょうか。木槌をお持ちでしたよね」
「ええ」
美奈は背負っているリュックから木槌を取り出し、文次郎に渡す。
「じゃあ、僕が上の方、叩いてみます」
「じゃあ、懐中電灯で照らすんで」
「はい。お願いします」
美奈が照らす窪みの一角を、文次郎は木槌で叩き始めた。
「もし隠し部屋への入口があるなら、先が空洞になっている。別の面とちょっと違う音がする筈」
「成程」
窪みの上方は、殆どが固い岩である。地下水があるらしく、所々から水滴が滴っている。
文次郎は庚申塔の真上を中心に木槌で叩いてみる。
が、岩が詰まっている音がするばかりで、隠し部屋がありそうな気配はない。
五基あった「鳴」ありの庚申塔の天井面を全て叩いたが、隠し部屋の入口がありそうな音は聞こえなかった。
「ここが勝負どころかも知れない。次は、地面掘ります」
「まずは、『奥山に紅葉』からですね」
文次郎は頷くと、持って来たスコップを地面に入れた。
「結構、湿ってますね。地下水が浸み込んでる。砂利も多い」
文次郎が呟いた。
(砂利が多くて湿ってる分、重いな)
「大変ですか」
文次郎の足元を懐中電灯で照らしながら、美奈が言った。
「いえ。大丈夫です」
(左肩に不安はあるけど、今の所そう痛くはない)
今朝、美奈を助けるため痛めた左肩。そこに針で刺したような疼きが兆し始めていた。
程なく、庚申塔の周囲に直径一メートル程の丸い穴が出来た。深さも同じ、一メートル程。文次郎は汗まみれになっていた。
「もう少し、掘れるかな」
文次郎がやや力を込めてスコップを入れた時、硬いものにぶつかった。
「おっ。何かぶつかりましたよ」
「本当ですか」
穴の上にいた美奈も、文次郎の足元に見入る。
文次郎はスコップを使って、今手応えのあった所の周りの土をどけた。
「あー。下の岩盤だ」
「残念。じゃあここの穴は断念ですね」
「ええ」
文次郎は言うと、掘った穴の端に両手を掛け、よじ登ろうとした。
(痛っ)
文次郎は悲鳴を上げそうになるところ、懸命に我慢した。
(いけない。掘るときは痛まないよう注意してたのに、油断したか)
「大丈夫ですか」
文次郎が一瞬、顔を歪めたのを見て取ったのか、美奈が声を掛けた。
「はは。大丈夫、大丈夫。ちょっと滑っただけですよ」
文次郎は何事もなかったかのように、笑顔を作り、穴から這い上がった。
続いて、「淡路島」、「ほととぎす」、さらに「世の中よ」の歌が刻まれている庚申塔周辺に、文次郎は穴を掘った。
が、やはり一メートルほどの深さで、文次郎のスコップは阻まれた。
文次郎は疲労を感じ始めた。左肩の痛みも、緩やかなものから次第に、時折激痛が走るものに転じていた。
(左肩、さすがにちょっとやばいかな)
そう思いつつ「鳴」の字がつく最後、「きりぎりす」の歌が刻まれた庚申塔の前に文次郎が進んだ時、大きな音が聞こえた。
ゴロゴロゴロ…。
「やだ。雷ですね」
美奈が声を上げた。
「夕立かな」
文次郎が応える。
ドドドドーン。
「恐い。近いですよ」
洞穴の中ゆえ稲光は見えないが、音はよく聞こえる。
やがて、激しい雨音が二人の耳に入って来た。
「恐がらなくても大丈夫ですよ。ここは雷が落ちることもないし、雨も入って来ない。夕立ならすぐに止みますよ」
美奈の不安を和らげるよう文次郎は言うが、美奈の恐怖心は収まらないようだ。
(まあ、大丈夫だろ。灯りが蝋燭だから、雷が落ちて停電ってこともない)
考えながら文次郎は、スコップを動かす。
やがて、これまでの四つと同じく、直径一メートル深さ一メートル程の穴が掘りあがった。
「ここもだめなのか、えいっ」
文次郎がやや力を込めて次のスコップを入れた瞬間である。
バリバリバリバリ…。
「やだ。雷、近くに落ちましたよ」
叫ぶ美奈。
その時とほぼ同時に、文次郎が悲鳴を上げ、スコップを取り落した。
「うあああああっ」
「文次郎さん。文次郎さん。どうしたの」
美奈は懐中電灯を落とすと、文次郎が掘った穴に飛び降り、文次郎を背中から支えた。
「痛い。痛い。左肩が痛い」
文次郎が耐え切れず声を上げる。
美奈の顔から血の気が引いた。
「左肩ってもしかして、蔵の中で私を助けようとして観音様の下敷きになった時の…」
文次郎は顔をしかめながら頷いた。
「痛い所、見せてください」
文次郎は地面に座り込み、身に着けていた白いTシャツの左袖を捲り上げた。
貼ってあった湿布を、美奈が丁寧に剥す。
「酷い」
美奈は剥した湿布を落とし、両手で顔を覆った。
文次郎の左肩は、薄闇でもはっきり判る程赤く、大きく腫れ上がっている。
美奈は患部に触れてみた。
「凄い、熱もってますよ」
美奈は口を押えた。目元に涙が浮かぶ。
「私のせいです。私のせいで、文次郎さんにこんな怪我をさせて…」
美奈の目から涙が零れる。
「しかも、私のためにこんな重労働をさせてしまって…。私を叔父から助け出してくれようとしたばかりに、こんな痛い思いを」
美奈はがくりと膝をついた。
「ごめんなさい…ごめんなさい」
「いえ。美奈さんのせいじゃない」
美奈の涙が止まらない。
文次郎は痛みで顔を歪めながら、右手を振った。
「蔵の中でも言ったでしょ。観音様の下敷きになったのは、僕が鈍いからだって。美奈さんのせいじゃない。今怪我が悪化しちゃったのも、僕が美奈さんの前でカッコつけようとしたからです。自分の責任ですよ」
美奈は頭を振った。何か言おうとするが、涙で言葉にならない。
文次郎がポケットからハンカチを取り出し、涙を拭いてやると、美奈はやっと泣き止んだ。
「今日はもう遅いけど」
美奈は腕時計を見た。
「まだ、間に合います。今から病院行きましょ。ね。宝探しはもういい。文次郎さんの体が大事」
「え。でも」
文次郎は首を振った。
「だめですよ。宝探しの期限は明日の日の出まで。病院なんて行ってる時間はないです」
「行くんです!」
美奈は文次郎の手を取り、叫ぶように言った。
普段穏やかな美奈の真剣な大声を、文次郎ははじめて聞いた。
「行くんです。でないと私の気が収まりません」
「でも、もう夕方近いですよ。今から行っても間に合いませんよ」
「大丈夫です。遅くまで開いてる病院を知ってます。あそこなら絶対開いてますよ」
「はいはい。じゃあ行きますけど、僕一人で行けます。美奈さんは宝探しを続けていてください」
「だめです」
美奈は握っていた文次郎の手をさらに強く握った。
「私も付き添って行きます。私が怪我させてしまったのに、一人では行かせません」
言いたいことを全て語りつくした美奈は、再び涙の中に崩れ落ちた。




