第3章
(一)
「傷、痛む?」
整骨院から百庚申洞へと戻るタクシーの中で、美奈が訊いた。
「うん、少し痛むけど。鎮痛剤を打って貰って、随分楽になったよ」
「そう。それなら良かった」
美奈は文次郎の眼を見て頷いた。二人は今日一日で急速に親しくなった。最早、デスマス調の話し方は不要だった。
「ありがとう。悪いね。診察料や薬代も持ってくれて」
美奈は首を振った。
「いえ。当然。だって、私が怪我をさせてしまったんだから。お金位出さないと私の気が休まらない」
「でも…」
言いかける文次郎の前で美奈は首を振った。
「ねえねえ。それより。私、凄い発見しちゃったの」
「凄い、発見?」
美奈はタブレットを取り出した。
「整骨院、待ち時間長かったでしょ。待っている間に、百庚申洞に戻って残りの庚申塔の写真を撮って。百庚申の写真をもう一度全部見てみたの」
「全部見てみたんだ。そりゃあ、大変だったでしょ。何か分かった?」
美奈はタブレットの画面を文次郎に向けた。
「親庚申の鶏の嘴が欠けていたでしょ。他に欠けているのがないか、よく見てみたの」
「親庚申以外にも、あったの? 嘴が欠けてるのが」
「ええ。これなの。親庚申の一つ前の、四十九番目の子庚申」
美奈はタブレットを操作し、49とナンバーが振られた写真を表示させた。
「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の…長々し夜をひとりかも寝む、の歌のだね」
「そうなの」
美奈が鶏の拡大画像を表示させる。
親庚申と違って子庚申は彩色されていない。それゆえ非常に見にくいが、確かに嘴がない。
「そうか! 分かった! 繋がったぞ」
文次郎は右手で膝を叩いた。
「つまり、『不鳴』だ。嘴がなければ鶏は鳴けない。鶏の彫像の顔に、暗号を解く鍵があったってことだね」
「良かった。私の考えと一緒」
美奈は文次郎の方を向き、嬉しそうに微笑んだ。
「良かった。私、文次郎さんに怪我をさせちゃったから、その分、頑張らなくちゃって」
「そんな、気にしなくていいのに…」
「でも、困ったな。痛み止めの薬のお陰で痛みは治まったけど、打撲としては重傷で、動かすなって言われちゃった。穴掘ったりはできない」
文次郎の左腕は、包帯で巻かれ、三角巾で吊るされている。
「勿論。そんなことしちゃ駄目。できる訳ない」
「でも、掘らなきゃどうしようもない。明日の日の出までしか時間ないよ」
「ううん。いいのよ」
美奈は首を振った。
「今度は私が掘るわ」
「ええっ。本気?」
「大丈夫よ。スコップ使うのはちょっと敬遠だけど、シャベルで少しずつなら、私だって出来る。文次郎さんは懐中電灯で照らしてて」
「無理しないでね」
「やるしかないわ。『百歌』『庚申』それに『不鳴』。まだ『引取』があるけど、やっと暗号の殆どが説明できる場所が見つかったんだから。何とか財宝を見つけ出したいわ」
俄然、やる気を高めて来た美奈を、文次郎は止める気にはならなかった。
(二)
「じゃ、まずは天井を叩いてみて。駄目なら掘ってみようか」
百庚申洞の親庚申の前に戻ると、二人は眼を見合わせた。
まずは文次郎が「むべ山風を嵐といふらむ」の親庚申、「長々し夜をひとりかも寝む」の子庚申の天井を、動くほうの右手を使って木槌で叩いた。
文次郎は首を捻った。
「うーん。残念。ここには隠し部屋の入口、なし」
「いいわ。穴掘って、絶対何か見つけてみせる」
美奈は、既に軍手を両手にはめ、シャベルを手にしている。
文次郎は木槌を懐中電灯に持ち替え、親庚申の前の地面を照らした。
美奈がシャベルで、地面を掘り始めた。
「時間ももうそれ程ないし。出来ることを最大限、やりきらなくちゃ」
美奈は言うと、新たに持って来たバケツに掘った土を入れる。
「結構重いわ。地下水で湿ってるし。小石が沢山混じってる」
美奈はシャベルを地面に入れながら、先刻の文次郎と同じ感想を漏らした。
それから、数刻が過ぎた。
宝探しの刻限が迫る中、「吹くからに秋の草木」の親庚申と、「あしびきの山鳥の尾」の子庚申の前には、直径一メートル、深さ五十センチほどの穴が出来上がった。
文次郎は舌を巻いた。
小柄な体、非力な筈の美奈がこれ程までの穴を一人で掘ってしまうとは。美奈の精神力、集中力の高さに文次郎は一驚していた。
美奈の額には、うっすらと汗が滲んで来ている。
「きゃっ」
その時、美奈のシャベルに、硬いものがぶつかった。
「あー。やっぱりここも駄目かあ」
美奈はがっくりとうなだれた。
昨日文次郎が掘った『鳴』の字がある五つの庚申塔の時と同様、洞穴の岩盤が出て来てしまったのだ。
「ここにも、隠し部屋はないのか」
文次郎も声を落とす。
文次郎は腕時計を見た。時刻は既に午後九時。
「今の季節、朝五時ちょっと前には日の出だ。あと八時間ほどになってしまった」
「かなり残り時間、厳しくなって来ちゃったね」
「幾らでも時間があれば、僕の怪我が治ってからゆっくり、洞穴の地面を全部掘り返してみることも出来るけど…」
「このあとどこをどう探せばいいのかしら。ここ以外となると、ちょっと見当がつかない」
「そうだね」
文次郎は右手を顎に当てた。
「僕の勘だけど、やっぱりこの辺りのどこかに隠し部屋があるのかもしれない。『百歌』『庚申』それと『不鳴』。この三つが差し示しているのがはっきりしている場所はここだけ。まだこの辺りを探してみる余地はありそうだ」
「ある?」
美奈は首を傾げた。縋るように上目遣いで文次郎を見つめる。
「一つ引っかかるのは、歌なんだ。『吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ』の歌。何でこの歌が百庚申洞の中心、親庚申の歌なのか…。特別な意味があるのかもしれないって、どうも引っかかるんだ」
「特別な意味?」
文次郎が頷いた。
「うん。僕もまだはっきりとは分らないけど、何かあるんだ。百人一首の最初の二首は、天智天皇と持統天皇。最後の二首は後鳥羽院と順徳院。皇族って特に昔の人にとっては桁外れに重要人物だ。だからこそ最初と最後に据えられているんだと思う。『吹くからに秋の草木』の作者は文屋康秀だろ。康秀も確かに高名な歌人だけど、失礼ながら敢て百庚申の中心、親庚申に据える程じゃない。ひょっとすると『吹くからに秋の草木』の歌を中心に据えたことに、財宝のありかを示す鍵があるのかも」
「この歌って、考えようによってはただの言葉遊びよね。秋の山風が吹くとすぐに、草木が萎れ始める。成程。だから、山風を嵐というのだろうって意味で、山と風の字を合わせると嵐って字になるっていう」
「だよね。狂おしいばかりの恋心もなければ、移りゆく世の無常を嘆くでもない。ただの言葉遊びだ。秋の季節感を色濃く出していると言えなくもないけれど、つまるところ『山』に『風』を足すと『嵐』だっていう言葉遊び」
「それからすると、『あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む』の方も、意味の薄い歌なんじゃないかって思うわ」
「意味の薄い、歌?」
美奈は頷いた。
「ええ。『あしびきの』が『山鳥』の枕詞でしょ。それで、『あしびきの山鳥の尾のしだり尾の』全体が『長々し夜』を導き出す序詞。結局、意味的には『山鳥の尻尾みたいに長い夜を独りで寝るんだな』だけじゃないかって」
「成程。まあそれでも、ある種の淋しさや情緒が漂っているとはいえるけど」
文次郎は右手を膝に置き、とんとん叩き始めた。
「それって凄くヒントになりそうなんだけど…。まだちょっと財宝と結びつかない」
文次郎の心に、焦りが広がり始めていた。
その時である。
美奈の瞼がふいに下がり始めて来たと思いきや、完全に下がってしまった。
「文次郎さん…ごめん…私、眠くって」
かろうじてそれだけ言うと、美奈はリュックを枕代わりに、横になってしまった。
やがて、すやすやと寝息を立てはじめる。
「えっ。あれっ。美奈さん?」
文次郎は美奈を揺り動かそうとして、思い止まった。
美奈は相当疲れている筈だ。今日は午前三時頃文次郎の家に侵入。その後文次郎と一緒に智海と対決。で、ついさっきまで重労働の穴掘り。疲れていなかったらおかしい位だ。
文次郎自身もかなり疲れている。美奈と違うのは左肩を怪我したこと位の違いだ。
それでも文次郎は、今度は自分が頑張る番だと、美奈のタブレットに手を伸ばした。
タブレットならば、片手でも扱えると思ったからだ。
文次郎は、今話題に上った「あしびきの山鳥の尾」の歌が刻まれた庚申塔の画像を仔細に観察してみた。実物は目の前にあるが、洞内は薄暗いし、タブレット画面のほうが拡大縮小が出来て観察しやすいと考えたからである。
「あれえ」
文次郎はひとりごちた。
「この歌の作者って、山上憶良だったかな」
歌に続けて小さく彫られている作者の名に、文次郎は違和感を覚えた。
念のため、ニュー百を捲ってみる。
「そうだ。やっぱり、人麻呂だ」
この歌の作者は、柿本人麻呂。「あしびきの山鳥の尾」の歌は百人一首では天智天皇、持統天皇に続いて三番目。皇族以外では最初に出てくる重要な位置の歌なのである。
(それなのに、何故作者が違うんだ)
文次郎の脳裏に疑問が湧いた。
一方、山上憶良は、大変有名な歌人で名歌もありながら百人一首には選ばれていない。
(作者の所は、余り意識してなかったな)
文次郎は美奈が撮影してくれたそれぞれの庚申塔の歌が刻まれた部分の画像と、ニュー百に載っている百人一首の正しい作者が一致しているかを照合してみることにした。
結果はすぐに判った。
(これだけか)
「あしびきの山鳥の尾の」の山上憶良。作者が間違っているのはこれただ一首だった。
(これかもしれない。これに決定的な何かが、隠されているのかも)
ここまで考えるのが、文次郎の体力の限界だった。
「あしびきの山鳥…あしびきのやま…」
文次郎は殆ど無意識に呟きながら、眠りに落ちていた。
(三)
「えーっ。もう、こんな時間! 日の出まであと一時間ないじゃない」
美奈が腕時計を見て、叫んだ。時刻は午前四時を指している。
「起きて! 文次郎さん。起きて!」
美奈に揺さぶられて、文次郎が目を擦り擦り、半身を上げた。
「美奈さん。分かったよ」
「えっ。寝ていて分かったの?」
「ああ。今閃いた。ひと眠りして元気になったせいかな。今度こそ、全部繋がった」
「ホントに? 寝ぼけてるんじゃないの?」
文次郎は頷いた。
「『百歌』、『庚申』、『不鳴』。それに最後に残った『引取』。『吹くからに秋の草木』』の歌と『あしびきの山鳥の尾』の歌。『吹くからに秋の草木』の歌の一見意味のない、言葉遊び。『あしびきの山鳥の尾』の作者が間違っていること」
「えっ。どういうこと?」
文次郎は美奈が寝ている間に『あしびきの山鳥の尾』の作者が間違って山上憶良と彫られており、これが唯一の作者違いであることを話した。
「でも、どうしてそれでお宝の場所が分かるの」
美奈が不思議そうに尋ねた。
「『不鳴』が庚申塔の鶏に嘴がないことを表しているのは、美奈さんの推理通りだ」
「うん。違ってないなら、嬉しいわ」
「で、『吹くからに秋の草木』の歌と『あしびきの山鳥の尾』の歌。これらは前者が意味のない言葉遊び。後者は意味が薄い歌と、考える」
「ええ」
「『吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ』…。つまるところこの歌の言葉遊びは、『山』と『風』を足すと『嵐』になるってことだ。ここで僕も煮詰まりかけたけど、たった今閃いたんだ」
「どういうこと?」
「最後の暗号、『引取』さ」
文次郎は右手で拳を作った。
「親庚申に一見似合わない『吹くからに秋の草木』の歌を持って来ているのは、そういった言葉遊びの発想で、親庚申以外のいずれかの庚申塔の歌と作者を読んで見ろっていうご先祖様のメッセージだった。つまり、親庚申が暗号解読の指示書だったのさ。そいつを最後の暗号『引取』と併せて読み解く」
「分かった! 私にも分かったわ」
美奈は膝を叩いた。
「『あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む 山上憶良』。『あしびき』の『あし』は足。言い換えれば最後の一文字。これを『引』く。『鳥』は『取』り。『山上憶良』から最後の一文字、『良』を引き、『山』を取って読め、ってこと」
文次郎は深く頷いた。
「その通り。つまり、わざと間違った『山の上のおくら』から『山』と『ら』を取ってしまう。これで『上のおく』という場所を示す言葉が浮かび上がるってことだ」
文次郎は笑みを浮かべた。
「『あしびきの山鳥』というフレーズには、『引』きも『取』りも入ってる。眠る前にそれを口の中で呟いていたから、目覚めた瞬間に閃いたのかも知れない」
文次郎は木槌を持って、「あしびきの山鳥の尾」の歌が刻まれた庚申塔の天井を見上げた。
「真上の天井を叩いても何も出なかった。でも、上の奥なら、必ずある」
文次郎は自信に満ちた表情で、天井近くの奥の壁を叩いた。
「えっ」
文次郎の目が泳いだ。
「えっ。隠し部屋、ない…? ここも、違ったのか?」
時刻は四時半を回っている。文次郎の脳裏に絶望が広がり始めていた。
その時である。
「左です」
美奈が囁いた。天使のような優しい声である。最後の土壇場で文次郎を救ってくれるその声は、文次郎には天使の声に聞こえた。
「え」
文次郎が振り向いた。
「左です。歌の方にもまだ、意味が隠されているんじゃないかと思って。私の父はひろゆきって名前だったんです。この辺りでは、年配の人は『ひ』と『し』は発音が一緒になってしまうでしょう。それで母は父のことを『しろゆきさん』って呼んでいて…。白雪姫みたいだっていつも家族で笑っていました」
文次郎は目を見開いた。
「そうか。『ひ』と『し』が一緒。つまり、『しだり』は『ひだり』なのか!」
智海が「百庚申」を「シャクコウシン」と発音していたのを、文次郎は思い起こしていた。
文次郎はさっき叩いた上の奥の左の壁を、力強く叩いた。
土煙が立つ。
その向こうに、大きな穴が開いた。
(四)
穴が開き、その先に見えたのは、あかつきの光だった。
暗闇から出た文次郎と美奈は、一瞬眩しさに目をつぶった。
「ふふん。案の定、ちゃんと出て来たな」
美奈が目を開ける。
「叔父さん…」
智海の満面の笑みが、そこにあった。
「俺の計算通りだ。ちょうど夜明けに脱出して来た」
「脱出って…? ここに財宝があるんじゃなかったんですか」
智海は首を振った。
「ああ。多分、昔はあったんだろ。だが、今はない」
「どういうことです」
「財宝はとっくに俺達の先祖の誰かが暗号を解いて持って行っちまったんだろうな。で、暗号を刻んだ刀だけが残っていた。文次郎さんに見せて貰うまでもなく、暗号の中身も予め知ってた」
「えっ? どういうことですか」
眼を見開く文次郎に、智海は口元に笑みを浮かべて応えた。
「俺の目的は別にあってね。美奈が文次郎さんを連れてくることも、二人一緒に宝探しをする成行きになることも全部計算してた。不動産屋に百庚申洞を取られるってのも全部作り話さ」
「なんで? 何をしたかったのか全然判んない」
美奈が叫んだ。
「酷いじゃない。そのせいで文次郎さんは大怪我をして、病院まで行くことになったのよ」
「ああ。その点は誤算だった。すまん。大変申し訳ねえことをした」
智海は文次郎に頭を下げた。
「だがな」
智海は頭を上げた。眼鏡の下の小さな瞳に、涙を浮かべている。
「俺はな。美奈を嫁にやりたかったんだよ」
「えっ」
「美奈はな。高校生の時に父親に死に別れてな。大学進学を諦めて、父親が遺した弁当屋を継いで切り盛りして来た。けどよ。それで美奈は本当に幸せなのかって考え始めたんだ。だから無理にでも嫁に行けるよう仕向けたんだよ」
「余計なお世話だわ。私は父の遺した弁当屋を、守って行く義務があるのに」
「義務なんかねえよ。俺がセレモニーホールとセットで経営すりゃいい話だろ」
智海の眼から、一筋の涙が零れ落ちた。
「美奈はついこないだまで、男の影が全然見えない子だった。けど、最近になって毎日のように弁当屋に通って来る男の話をするようになった」
「あっ。それって…」
文次郎が頬を赤らめた。
美奈も頬を染めている。
「さあ。行っちまえ。幸せになるんだぞ」
智海はくるりと後ろを向き、足を引きずりながら歩き始める。
「あの。私」
美奈は文次郎に向き直ると、張り詰めた顔になった。
「私、あなたのこと好きなんです。私と、結婚してください」
文次郎は軽い眩暈を覚えた。体中の血液が顔面に集中した思いに打たれた。
美奈はとうに自分の気持ちを固めていたのだ。
「はい。お願いします」
美奈は頷くと、文次郎にからだを寄せ、目を閉じた。
文次郎は美奈を抱き寄せ、目を閉じる。
文次郎は美奈の唇を吸った。
美奈の唇はふわふわと柔らかい。
一旦離れると、美奈は
「もう一度」
と求めてきた。
文次郎はまた目を閉じ、唇を重ねた。
美奈が舌を入れてきた。
(宝は、なかったわけじゃない。僕には美奈さんこそが最高の宝なんだ)
夏の明るい陽射しが、抱擁する二人を優しく包み込んでいた。




