第4話:氷点下の共同生活
雨の夜、うらぶれたビジネスホテルから美咲を連れ戻したあの日から、佐藤家のマンションは全く別の空間へと変貌を遂げた。
玄関のドアを開け、泥のように重い足取りで中に入った美咲に対し、悠真は靴を脱ぐよりも先に、冷たく響く声で新しい生活の絶対的なルールを宣告した。
「よく聞け。お前をここに置くのは、出産が終わるまでだ」
リビングの冷たい照明の下、悠真は美咲と一切視線を合わせることなく、淡々と言葉を紡いだ。その声には、かつての夫としての愛情も、怒りさえも含まれていなかった。ただ事実を羅列するだけの、無機質な機械のようだった。
「期間は、お前がその腹の中の子供を産み落とすまで。産後の体調が回復したら、子供をどうするか決めて、速やかに出て行ってもらう。それまでの間、俺はお前の夫ではない。ただの同居人であり、お前の腹の中にいる胎児の『管理者』だ」
美咲は震える両手で自分のお腹を抱きしめながら、ただ黙って俯いていた。反論する権利など、彼女にはとうの昔に失われていた。
「寝室は俺が使う。お前は元々客間だった北側の部屋を使え。食事はこちらで用意する。掃除も洗濯も俺がやる。お前は家事に一切手を出さなくていい。ただ安静にして、腹の子供を無事に産むことだけを考えろ。無駄な会話は必要ない。俺から話しかけない限り、お前から口を開くことも禁ずる。分かったな」
「……はい」
消え入るような声で美咲が答えると、悠真はそれ以上何も言わず、自分の寝室へと消えていった。バタンと閉まったドアの音が、二人の関係を完全に遮断する壁のようだった。
こうして、夫婦の愛の巣だったはずのマンションで、氷点下のような奇妙な共同生活が幕を開けた。
翌朝から、悠真は有言実行した。彼は朝六時に起床し、手際よく二人分の朝食を作り始めた。事なかれ主義で生きてきた彼だが、一人暮らしの経験はあり、家事が全くできないわけではなかった。それに、今の彼にとって家事を完璧にこなすことは、美咲から「妻としての居場所」を徹底的に奪い去るための、冷酷な復讐の手段だった。
トーストの焼ける匂いと、コーヒーの香りがリビングに漂う。かつては美咲が悠真のために作り出していた朝の風景を、今は悠真自身が冷ややかな手つきで再現している。
客間のドアが遠慮がちに開き、身支度を整えた美咲がリビングに入ってきた。悠真と目が合うと、彼女はビクッと体を震わせ、気まずそうに視線を彷徨わせた。
「……おはよう、ございます」
蚊の鳴くような声の挨拶に、悠真は返事すらしなかった。ただ、無言でトーストと目玉焼き、サラダが乗った皿をダイニングテーブルの端に置き、自分の分だけを持って向かい側の席に座った。
美咲は恐る恐る席につき、手を合わせて食事を始めた。カチャカチャという食器の音だけが、息が詰まるような沈黙の空間に響き渡る。美咲は味など全く感じていない様子で、ただ義務として胃に食物を流し込んでいた。悠真はその様子を視界の端に捉えながら、淡々と自分の朝食を平らげた。
食事を終えると、悠真は美咲の空いた皿を無言で奪い取り、シンクに放り込んだ。
「あ、あの、洗うのは私が……」
美咲が立ち上がって手を出そうとした瞬間、悠真は振り返り、氷のように冷たい視線で彼女を射抜いた。
「座っていろと言ったはずだ。お前はただの妊婦だ。俺の決めたルールに従えないなら、今すぐこの家から出て行け」
その言葉に、美咲は息を呑み、力なく椅子に座り直した。彼女の目からポロポロと涙がこぼれ落ちたが、悠真はそれに一瞥もくれず、手早く洗い物を済ませてスーツの上着を羽織った。
「行ってくる」
誰に向けるでもない言葉を残し、悠真は玄関のドアを閉めた。残された美咲は、広々としたリビングで一人、すすり泣くことしかできなかった。
悠真が仕事に出ている間、美咲にとってのマンションは、まるで快適な牢獄のようだった。外に出る用事もなく、家事をする権利も奪われ、ただ一日中、ソファやベッドで横になっていることしか許されない。テレビをつける気にもなれず、静まり返った部屋の中で、自分がどれほど愚かな過ちを犯し、すべてを壊してしまったのかという事実だけが、刃となって何度も何度も彼女の心を切り刻んだ。
夕方、悠真が帰宅すると、再び凍りつくような時間が始まる。
悠真は帰ってくるなり、ワイシャツの袖をまくり、無言で夕食の準備に取り掛かる。美咲のために栄養バランスを緻密に計算した、野菜中心の温かい食事。かつて美咲が悠真に作っていたような、手の込んだ料理がテーブルに並ぶ。
しかし、そこに込められているのは愛情ではない。「お前の腹の中のものを、確実に出産させるための作業」としての、冷徹な義務感だった。
美咲が「美味しい」と言っても、悠真は無視した。「ありがとう」と言っても、無表情のまま皿を下げるだけだった。
悠真のこの「献身」は、美咲にとってどんな暴力よりも残酷だった。もし悠真が声を荒げて罵倒し、手を上げてくれたなら、彼女は少しは罪悪感から解放されたかもしれない。自分が罰を受けていると実感できたかもしれない。しかし、悠真は決して美咲を直接的に傷つけることはしなかった。ただ、快適な環境と栄養を与え、存在そのものを透明人間のように扱い続ける。
「お前はもう、俺の妻ではない。ただの寄生虫だ」
言葉にこそ出さないが、悠真のすべての行動がそう物語っていた。美咲の心は、消えることのない罪悪感と、それ以上に重く冷たい夫の優しさによって、限界まで擦り切れていった。
同居を再開して一ヶ月が過ぎた頃、美咲は妊娠五ヶ月に入り、お腹の膨らみが少しずつ目立つようになってきた。
月に一度の妊婦健診の日。悠真は有給休暇を取り、美咲を車に乗せて産婦人科へと向かった。
車内にはカーラジオの単調な声だけが流れ、二人の間に会話は一切ない。悠真はただ前を見据えてハンドルを握り、美咲は助手席で窓の外を流れる景色を虚ろな目で見つめていた。
病院の待合室には、幸せそうな夫婦や、大きなお腹を愛おしそうに撫でる妊婦たちが溢れていた。彼らの姿を見るたびに、美咲は自分の置かれている状況の異常さを思い知らされ、身を縮こまらせた。
「佐藤美咲さーん、診察室へどうぞ」
看護師に名前を呼ばれ、美咲は立ち上がった。悠真に視線を向けたが、彼はスマートフォンの画面から目を離さず、ついてくる気配は全くなかった。
「……行ってきます」
美咲が小さな声で告げると、悠真は小さく顎を動かしただけだった。
診察室に入り、エコー検査を受ける。モニターに映し出される、小さな命の輪郭。心臓がピクピクと動いているのが見える。
「順調ですね。大きさも標準的ですし、元気によく動いていますよ」
医師の明るい声に、美咲の胸の奥で、今まで感じたことのない温かな感情がじんわりと広がっていくのを感じた。
(生きている。私のお腹の中で、この子は確かに生きている)
それは、理屈ではない、圧倒的な生命の躍動だった。誰の子供であろうと関係ない。自分の体の中で育っている、自分自身の血を分けた子供。美咲の中に、遅まきながら「母親」としての自覚と、強烈な母性が芽生え始めていた。
診察が終わり、エコー写真を受け取って待合室に戻る。悠真は先ほどと同じ姿勢で座っていた。
「……終わりました」
美咲が声をかけると、悠真は無言で立ち上がり、会計へと向かった。
帰りの車の中、美咲は膝の上でエコー写真を強く握りしめていた。見せたい。この小さな命が、どれほど懸命に生きているのかを、悠真に知ってほしかった。もしかしたら、これを見れば、彼の凍りついた心も少しは溶けるのではないかという、身勝手で淡い期待があった。
「あの……悠真」
信号待ちで車が止まった時、美咲は意を決して口を開いた。
「先生が、順調だって。大きさも標準だし、元気だって……。これ、エコーの写真なんだけど……」
美咲は震える手で、白黒の不鮮明な写真を悠真の方へ差し出した。
悠真はゆっくりと顔を向け、その写真を冷ややかな目で見下ろした。そして、表情を一切変えることなく、吐き捨てるように言った。
「俺に見せてどうする。俺には関係のないことだ」
「っ……」
「それは高橋の子供だ。俺の血は一滴も流れていない。順調に育っているならそれでいい。俺の管理者としての責任が果たされる日がいち早く近づいているというだけのことだ」
青信号に変わり、悠真は再びアクセルを踏み込んだ。美咲は差し出した手をゆっくりと引っ込め、エコー写真を自分の胸に押し当てた。
分かっていたはずだ。悠真がこの子を愛することなどあり得ない。彼にとって、この膨らみ続ける腹は、妻の裏切りと、自分を嘲笑う不倫相手の存在を常に突きつける、忌まわしい証拠でしかないのだ。
母性に目覚め、この子を愛しいと思えば思うほど、悠真を深く傷つけているという現実が、美咲を容赦なく打ちのめした。彼女は窓の外に顔を向け、声を殺して泣き続けた。車窓に映る自分の顔が、ひどく醜く歪んで見えた。
その夜、悠真は美咲が寝静まった後、真っ暗なリビングで一人、ウイスキーのグラスを傾けていた。
氷がカランと溶ける音が、静寂に包まれた部屋に虚しく響く。
悠真の心の中は、決して彼が装っているような冷徹な氷の塊などではなかった。美咲を痛めつけ、惨めな思いをさせ、復讐の快感に酔いしれているわけではなかった。
(俺は、一体何をしているんだ)
琥珀色の液体を喉に流し込みながら、悠真は自嘲気味に笑った。
美咲を追い出した時、彼は確かに彼女を憎んでいた。完全に切り捨てたつもりだった。しかし、ホテルでボロボロになって泣き叫ぶ彼女を見た時、見捨てることができなかった。
憎しみと、哀れみと、そして自分を裏切った女に対する底知れない執着。
彼女をこの家に縛り付け、「管理者」として君臨することで、悠真は自身のプライドを保とうとしていた。だが、毎日少しずつ大きくなっていく美咲の腹を見るたびに、悠真の胸には高橋への殺意に似た憎悪が再燃し、自分自身の不甲斐なさが抉り出されるようだった。
「俺には関係ない……か」
車の中で自分が放った言葉を反芻する。
関係ないのなら、なぜわざわざ病院まで送り迎えをしているのか。なぜ、彼女の栄養を考えて毎日食事を作っているのか。なぜ、彼女が夜中に寝苦しそうに寝返りを打つ音に、いち早く反応してしまうのか。
献身という名の復讐。それは、相手を傷つけると同時に、自分自身の心をも確実に削り取っていく、諸刃の剣だった。
ふと、客間のドアの向こうから、微かな声が聞こえた。
耳を澄ますと、それは美咲のすすり泣く声だった。押し殺したような、だが深い絶望に満ちた泣き声。
悠真はグラスをテーブルに置き、客間のドアの方へ視線を向けた。立ち上がってドアを開け、彼女を抱きしめて「もう泣くな」と言ってやれたら、どれほど楽だろうか。
だが、悠真の足は床に縫い付けられたように動かなかった。
一度壊れてしまったものは、もう二度と元には戻らない。あの幸せだった日々は、もう幻なのだ。
悠真は再びグラスを手に取り、残りのウイスキーを一気に飲み干した。アルコールの熱が喉を焼くが、心の中の凍てつくような寒さは少しも和らがなかった。
氷点下の共同生活。出口のないこの冷たい牢獄の中で、二人はただ、決定的な「終わり」が訪れる日を、息を潜めて待ち続けることしかできなかった。お互いの傷に塩を塗り込み合いながら、静かに、そして確実に、出産という運命の日が近づいていた。




