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不純な産声、歪なゆりかご ~壊れた夫婦が選んだ「偽りの家族」~  作者: ledled


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第5話:不純な産声と、揺れる境界線

季節は静かに巡り、外の世界は冬の厳しい寒さを抜け出して、春の柔らかな日差しに包まれるようになっていた。街の街路樹には若葉が芽吹き、生命の息吹が至る所に感じられる季節。しかし、佐藤家のマンションの室内だけは、あの雨の夜からずっと、氷点下の空気が淀んだまま凍りついていた。


「管理者」として冷徹に義務を果たす悠真と、「寄生虫」として罪悪感に押しつぶされながら息を潜める美咲。会話のない食卓、交わらない視線、完全に分けられた生活空間。お互いの存在が互いの心を削り取るような、歪で息の詰まる共同生活が数ヶ月間続いていた。


美咲のお腹は臨月を迎え、はち切れんばかりに大きくなっていた。足元が見えないほどの膨らみは、彼女の中に確かに別の命が育っていることを容赦なく主張していた。


その夜は、春の嵐が吹き荒れていた。窓ガラスを叩きつける激しい雨音と、建物を揺るがすような風の唸り声が、深夜のマンションに不気味に響き渡っていた。


深夜二時過ぎ。


浅い眠りの中にいた悠真は、自室のドアを細く叩く音で目を覚ました。気のせいかと思ったが、雨音に混じって、確かにドアの向こうから微かな呻き声が聞こえる。


ベッドから身を起こし、ルームウェアのままドアを開けると、暗い廊下に美咲がうずくまっていた。


「……どうした」


悠真の冷たい問いかけに、美咲は顔を上げ、苦痛に歪んだ表情を見せた。額には脂汗がびっしりと浮き、両手で大きなお腹を必死に抱え込んでいる。


「痛い……っ、お腹が、すごく張って……さっき、破水……したみたいで……」


荒い息を吐きながら途切れ途切れに告げる美咲の足元を見ると、フローリングの床が濡れていた。陣痛が始まったのだ。しかも、予定日より二週間早い。


事なかれ主義で冷静な悠真は、この状況下でも決してパニックを起こすことはなかった。あらかじめ準備しておいた「管理者」としてのマニュアル通りに動くだけだ。


「病院に連絡する。お前はそこに座っていろ」


悠真はすぐにスマートフォンを取り出し、登録してあった産婦人科の夜間救急窓口に電話をかけた。状況を短く的確に伝えると、すぐに来るようにとの指示を受けた。


玄関に置いてあった入院用のボストンバッグを肩にかけ、悠真は廊下にうずくまる美咲を見下ろした。


「立てるか」

「……はいっ、なんとか……」


壁に手をつき、這い上がるようにして立ち上がろうとする美咲。その足取りはおぼつかなく、次の陣痛の波が来たのか、再びその場にへたり込みそうになった。


悠真は無言で手を伸ばし、彼女の腕を力強く掴んで体を支えた。直接肌に触れるのは、あの日カフェの前で彼女を問い詰めて以来のことだった。彼女の体は驚くほど熱く、小刻みに震えていた。


「歩け。車まで運ぶ」


悠真は感情の籠もらない声で言い、美咲を半ば引きずるようにしてエレベーターへと向かった。


地下駐車場に降り、助手席に美咲を押し込む。雨はさらに激しさを増しており、フロントガラスを叩きつける雨粒が視界を激しく歪ませていた。悠真はエンジンをかけ、深夜の濡れたアスファルトへと車を滑らせた。


車内には、美咲の苦痛に満ちた荒い呼吸音だけが響いていた。


「うぅ……っ、はぁ、はぁ……痛い、痛いよぉ……っ」


シートベルトを握りしめ、身をよじって痛みに耐える美咲。悠真はハンドルを握りながら、チラリと彼女の方に視線をやった。


(ついに、この日が来たか)


悠真の心境は、自分でも驚くほど冷え切っていた。新しい命の誕生を待ち望む父親の喜びなど微塵もない。ただ、この長く不快な「復讐という名の共同生活」が、ようやく終わりを迎えるのだという安堵感のようなものがあった。


子供が産まれれば、約束通り美咲はこの家を出ていく。自分は再び一人になり、誰にも乱されることのない平穏な生活を取り戻す。高橋という男への憎しみも、自分を裏切った妻への歪んだ執着も、すべてはこの夜を境に終わるはずだった。


車が病院の夜間救急の入り口に滑り込む。事前に連絡を受けていた看護師たちが、ストレッチャーを引いて駆け寄ってきた。


「佐藤さんですね! さあ、こちらへ!」


美咲は車から降ろされ、ストレッチャーに乗せられると、そのまま慌ただしく分娩室のあるフロアへと運ばれていった。悠真は受付で手続きを済ませた後、ゆっくりとした足取りでその後を追った。


分娩室の前の待合室に着くと、そこは深夜ということもあり、誰もいなかった。無機質な白い壁と、蛍光灯の冷たい光。悠真はパイプ椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。


数十分後、分娩室のドアが開き、血相を変えた当直医が飛び出してきた。


「ご主人ですか! 奥様の状態ですが、胎児の心拍が急激に低下しています。おそらく常位胎盤早期剥離の疑いがあります。このままでは母子ともに危険なため、すぐに緊急帝王切開を行います。こちらに同意書のサインを!」


突然のイレギュラーな事態の宣告。医師の切羽詰まった声に、悠真の心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ねた。


「……分かりました」


悠真は渡されたクリップボードを受け取り、ボールペンで乱暴に自分の名前を書き殴った。


すぐさま分娩室から美咲を乗せたストレッチャーが押し出され、手術室へと向けて廊下を猛スピードで移動していく。美咲の顔は紙のように真っ白で、酸素マスクが当てられていた。


すれ違いざま、美咲の虚ろな目が悠真を捉えた。彼女は酸素マスク越しに何かを訴えようと、力なく右手を宙に伸ばした。


「悠真……っ」


ストレッチャーの横を並走しながら、悠真はその手を無意識に握り返していた。美咲の手は氷のように冷たく、ひどく震えていた。


「怖い……もし、私になにかあったら……この子だけでも……どうか……っ」


それは、死を覚悟した母親の、悲痛な叫びだった。自分の命に代えても、お腹の子供だけは助けてほしいという、純粋で強烈な母性の発露。


悠真はその言葉を聞き、一瞬だけ言葉に詰まった。しかし、すぐに冷たい仮面を被り直し、美咲の手を振り払うようにして離した。


「馬鹿なことを言うな。無事に産み落とすのがお前の唯一の義務だ。俺に面倒を押し付けるな。生きて、自分の足で出て行け」


冷酷な言葉を浴びせられた美咲は、ポロリと一筋の涙をこぼし、そのまま手術室の分厚い扉の向こうへと吸い込まれていった。バタンという重い音とともに、赤い「手術中」のランプが点灯する。


廊下に一人残された悠真は、自分が振り払った右手をじっと見つめていた。美咲の冷たい体温が、まだ手のひらに残っているような気がした。


なぜ、あんなに冷たい言葉を投げつけてしまったのか。いや、これでいいのだ。彼女は高橋の子供を身ごもり、自分を裏切った女だ。ここで優しくするなど、自分のプライドが許さない。


悠真は手術室の前のベンチに腰を下ろし、両手を組んでうつむいた。


静寂に包まれた廊下に、壁掛け時計の秒針の音だけが響いている。チク、タク、チク、タク。第一話で美咲の不倫を疑い始めたあの夜から、狂い続けてきた時計の針。それが今、最終的な結論を出そうとしている。


時間が、異常に長く感じられた。


一時間経過しただろうか。手術室のランプはまだ点灯したままだ。


悠真の脳裏に、これまでの数ヶ月の光景が走馬灯のように蘇ってきた。


ホテルでボロボロになって泣き叫ぶ美咲。冷え切った食卓で、涙をこぼしながら自分の作った料理を食べる美咲。大きくなるお腹をさすりながら、エコー写真を差し出してきた美咲。


憎かった。許せなかった。だが、その反面、彼女が苦しむ姿を見るたびに、自分の胸の奥も確実に抉り取られていくのを感じていた。


高橋への復讐。美咲への執着。そんなドロドロとした感情に支配され、「管理者」として彼女を支配することで、自分は何かを得られたのだろうか。結局のところ、自分自身を深い孤独の底に縛り付けていただけではないのか。


「……くそっ」


悠真は組んだ手に額を押し当て、低く唸った。


もし、このまま美咲が死んでしまったら。

もし、生まれてくる子供が助からなかったら。


そう考えた瞬間、悠真の背筋に冷たい恐怖が走った。美咲が死んでほしいと願ったことなど、一度もなかった。高橋の子供がどうなろうと知ったことではないと思っていたはずなのに、先ほどの「この子だけでも」という美咲の悲痛な声が耳から離れない。


その時だった。


「オギャー……! オギャー……ッ!」


分厚い手術室の扉の向こうから、かすかに、しかし生命力に満ちた、甲高い泣き声が聞こえてきた。


赤ん坊の産声だった。


その声を聞いた瞬間、悠真の全身に電流が走ったような衝撃が突き抜けた。ベンチから弾かれたように立ち上がり、手術室の扉を見つめる。


オギャー、オギャー。


泣き声は次第に力強さを増し、廊下の静寂を打ち破っていく。


それは、不純な命の誕生を告げる忌まわしい音のはずだった。高橋と美咲の裏切りの結晶が、この世に生を受けた証拠。悠真にとって、これ以上ないほど残酷な現実のサイレン。


しかし、不思議なことに、悠真の胸の中に憎しみや怒りは湧き上がってこなかった。


代わりに押し寄せてきたのは、理屈を完全に超越した、圧倒的な「命の力」に対する畏敬の念だった。


どれほど醜い欲望や裏切りの果てに宿った命であろうと、今、必死に空気を吸い込み、自分がここにいると泣き叫ぶその姿には、一切の罪はない。ただ純粋に、生きようとする一つの独立した生命がそこにあった。


「佐藤さん」


しばらくして手術室の扉が開き、マスクを外した看護師が笑顔で出てきた。


「おめでとうございます。元気な男の子ですよ。奥様も出血が多かったですが、無事に処置を終えて状態は安定しています。……赤ちゃん、別室でお清めが終わったので、抱っこしてみますか?」


悠真は言葉を発することができなかった。ただ、頷くことしかできなかった。


看護師に案内されて新生児室へ向かう。ガラス張りの部屋の奥から、小さなコットに乗せられた赤ん坊が運ばれてきた。


「さあ、お父さん。首が座っていないので、しっかり支えてあげてくださいね」


看護師に促され、悠真は恐る恐る両手を差し出した。白いおくるみに包まれたその小さな塊が、悠真の腕の中に預けられる。


その瞬間、悠真は息を呑んだ。


重い。

たった三千グラムほどの小さな体なのに、想像していたよりもずっとずっしりとした命の重みが、腕の筋肉を通して直接伝わってきた。


赤ん坊は目を固く閉じ、真っ赤な顔をして、小さな口をモゴモゴと動かしている。不規則な呼吸のたびに、小さな胸が上下している。悠真の腕から伝わる体温は、驚くほど熱かった。


(これが……命か)


血の繋がりなどない。他の男の遺伝子を受け継いだ子供だ。その事実は変わらない。

しかし、腕の中で懸命に生きようとするこの無垢な存在を前にして、悠真の心にまとわりついていた憎悪や執着の鎧が、ボロボロと音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。


自分はこの数ヶ月間、何をそんなに意固地になっていたのだろうか。

裏切られた惨めさ、プライドの傷、他人への憎悪。そんなちっぽけな感情に囚われ、この純粋な命の誕生から目を背けようとしていた自分が、ひどく愚かでちっぽけな存在に思えた。


「……っ」


悠真の視界が急にぼやけた。気づけば、自分の目から大粒の涙が溢れ出し、頬を伝って落ちていた。


それは悲しみの涙でも、悔しさの涙でもなかった。生命に対する根源的な慈しみ。ただ一つの命がこの世に生まれ落ちたことに対する、魂を揺さぶられるような感動だった。


「お父さん、泣いてらっしゃるの? 嬉しいですよね。本当に、頑張って生まれてきてくれましたよ」


看護師の温かい声かけに、悠真は「ええ」と短く掠れた声で答え、腕の中の小さな命をさらにしっかりと抱きしめた。


数時間後。


悠真は、麻酔から覚め、個室のベッドに横たわる美咲の病室を訪れた。


点滴の管に繋がれ、顔面は蒼白だったが、美咲の表情にはこれまでのような怯えや絶望はなく、どこか憑き物が落ちたような安らかな光が宿っていた。


悠真がパイプ椅子を引き寄せて座ると、美咲はゆっくりと首を向け、力なく微笑んだ。


「悠真……」

「無事だったな。……男の子だ。元気だったぞ」


悠真の声は、以前のような氷の刃ではなくなっていた。静かで、どこか穏やかな響きを帯びていた。


美咲の目から、ツーツーと涙がこぼれ落ちた。


「ありがとう……。悠真が病院に連れてきてくれなかったら、私とこの子、どうなっていたか……。本当に、ありがとう……」


美咲は震える声で、心からの感謝を口にした。


「私は、最低な妻でした。悠真を裏切って、傷つけて、そのくせ一人で生きていく覚悟もなくて……悠真の優しさに甘えて、ずっとこの部屋に寄生していました」


美咲はポツリポツリと、懺悔するように言葉を紡いでいく。


「でも、あの手術室に入る時……悠真が手を握ってくれた時、私、目が覚めたんです。もう、逃げちゃいけないって。自分が犯した罪の重さを、ちゃんと背負わなきゃいけないって」


美咲はゆっくりと深呼吸をし、まっすぐに悠真の目を見つめた。


「約束通り、私の体が回復したら……この子と一緒に、この家を出ていきます。実家に戻るか、どこか遠くで働きながら育てるか、まだ分からないけど……もう二度と、悠真の人生の邪魔はしません」


それは、救済への祈りだった。悠真を縛り付けていた鎖を解き放ち、彼に本来の自由と平穏を返すための、美咲なりの最後の誠意であり、贖罪の決意だった。


「今まで、こんな私を見捨てないでくれて、本当にありがとうございました」


美咲が深く頭を下げるのを見つめながら、悠真は何も答えなかった。


病室の窓の外では、夜明けの光が春の嵐の雲を切り裂き、少しずつ空を白ませていた。


出ていく。それでいいはずだ。それが当初の目的であり、契約だった。


しかし、悠真の胸の奥には、数時間前に腕の中で感じたあの圧倒的な命の重さと温もりが、まだ確かな感触として残っていた。


自分と血の繋がらない子供。自分を裏切った妻。

その「偽りの家族」の境界線が、今、悠真の心の中で激しく揺れ動いていた。


悠真は無言のまま立ち上がり、病室の窓際へと歩み寄った。そして、白みゆく朝焼けの空を見上げながら、深く、長く息を吐き出した。彼の中で、これまでの人生で最も重く、そして最も不条理な決断が、静かに形作られようとしていた。

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