第3話:蜘蛛の糸が切れる音
がらんとしたリビングに、冷蔵庫のモーター音だけが低く響いている。悠真はソファに深く身を沈め、ローテーブルの上に無造作に置かれたビールの空き缶をぼんやりと見つめていた。美咲に荷物をまとめさせ、このマンションから追い出してから、ちょうど二週間が経過していた。
部屋の中は、驚くほど荒み始めていた。脱ぎ散らかしたワイシャツやスーツがソファの背もたれに掛けられたままになり、シンクには洗い物をサボった食器が山積みになっている。ゴミ箱からはコンビニ弁当の空き容器が溢れ出し、部屋全体に微かな腐臭と男の体臭が混ざったような不快な匂いが漂っていた。かつて美咲が隅々まで磨き上げ、季節の花を飾り、温かい空気に満ちていたこの場所は、たった二週間でただの無機質なコンクリートの箱へと成り果てていた。
事なかれ主義で生きてきた悠真にとって、日常生活におけるあらゆる「面倒事」を美咲に依存していたのだという事実を、一人になって初めて痛感させられた。帰れば美味しい食事が用意されており、風呂は沸いていて、アイロンの当てられた清潔なシャツがクローゼットに並んでいる。その完璧な裏方の仕事があってこそ、悠真は仕事に全力を注ぐことができていたのだ。
しかし、その平穏な生活の土台が、他の男の存在によって根底から腐りきっていたことを知った今、悠真の心には途方もない虚無感だけが残されていた。
職場である「ネクスト・コア・ソリューションズ」での悠真の態度も、この二週間で明確に変わり始めていた。これまでは後輩のミスをカバーし、上司の理不尽な要求にも作り笑いで応じてきた彼だったが、今はただ機械的に自分の業務だけをこなすようになっている。面倒な案件を押し付けられそうになっても、冷ややかな視線で「それは私の管轄外です」と切り捨てるようになった。
同僚たちは悠真の異変にすぐに気がついた。「最近、佐藤さん少しピリピリしてません?」「奥さん、ご実家にでも帰られてるんですか?」と、気遣うふりをして探りを入れてくる者もいたが、悠真はそのすべてを適当な愛想笑いと短い言葉でシャットアウトしていた。誰とも関わりたくなかった。自分の家庭が、妻の不倫というこれ以上ないほど陳腐で醜悪な理由で崩壊したなどと、誰にも知られたくなかった。
時計の針は深夜二時を回ろうとしていた。悠真は酔いの回った頭で、明日も仕事だというのに眠りにつく気になれず、ただ天井の木目を見つめていた。
その時、ローテーブルの上に放り出されていたスマートフォンが、ブーッ、ブーッと鈍い振動音を立て始めた。
画面が明るくなり、暗い部屋の中に青白い光を投げかける。着信画面に表示されていたのは、「美咲」の二文字だった。
悠真の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。無視するべきだ。もう完全に終わった関係なのだ。彼女は高橋という男を選び、あの日、自分の意志でこの家を出て行ったのだから。悠真はそう自分に言い聞かせ、画面が暗くなるのをじっと待った。
しかし、着信は一度切れた後、数秒の空白を置いて再び鳴り始めた。二度、三度と執拗に繰り返される振動音は、まるで暗闇の中で鳴り響く警報のように悠真の神経を逆撫でした。
五回目の着信が鳴った時、悠真の指は無意識のうちに「応答」のアイコンをスライドさせていた。怒りでもなく、心配でもなく、ただこの不快な音を止めたかったからだ。
「……なんだ。今更何の用だ」
極力感情を交えない、冷たく突き放すような声で悠真は言った。しかし、電話の向こうから聞こえてきたのは、悠真の予想を遥かに超える、悲惨な声だった。
『悠真……っ、ごめんなさい……ごめんなさい、私……っ』
それは、息も絶え絶えに泣きじゃくる女の嗚咽だった。まるで喉の奥から絞り出すような、痛切な悲鳴に似た声。悠真はわずかに眉をひそめた。
「泣いてる暇があるなら要件を言え。俺は明日も仕事だ」
『助けて……悠真、助けて……っ。お腹が、痛くて……でも、お金もなくて……どこにも、行けなくて……っ』
「は? お腹が痛い? あの男はどうした。高橋に連絡すればいいだろう」
悠真がその名前を口にした瞬間、電話の向こうで美咲がヒッと息を呑む音が聞こえた。そして、さらに激しい嗚咽が漏れ出した。
『捨てられたの……っ! 連絡、つかなくて……MINEも、ブロックされて……電話も、出てもらえなくて……私、一人ぼっちになっちゃった……!』
その言葉を聞いた瞬間、悠真の頭の中で何かがパズルのようにカチリと音を立てて組み合わさった。
あの日の昼下がり、カフェの前の路上で美咲を置いて逃げ出した高橋の無様な背中。あれは一時的な逃亡ではなく、完全な「切り捨て」だったのだ。自分の家庭を守るため、不倫相手である美咲を、お腹の子供ごと完全に切り捨てた。
「……今、どこにいる」
『駅の裏の……「ビジネスホテル・サンロード」……302号室……お願い、悠真……痛いよぉ……っ』
通話が一方的に切れ、ツーツーという無機質な電子音だけが悠真の耳に残された。
悠真はスマートフォンをテーブルに放り投げ、両手で顔を覆った。見捨ててしまえばいい。他の男の子供を身ごもり、自分を裏切った女だ。自業自得であり、因果応報だ。このまま放置して、どこかでのたれ死のうが、俺には関係のないことだ。
だが、悠真の脳裏には、先ほどの美咲の悲痛な叫び声がこびりついて離れなかった。「助けて」というその声が、悠真の心の奥底にある、歪んだ「何か」を刺激していた。それは決して純粋な愛情や優しさではなかった。裏切った女が、自分がすがった男にも見捨てられ、惨めに這いつくばっている。その事実に対する、底知れない哀れみ。そして、あれほど自分を傷つけた女を、まだ完全に自分の人生から切り離すことができないという、おぞましいほどの「執着」だった。
「……クソッ」
悠真は短く毒づき、ソファから立ち上がった。車のキーと財布を掴み、深夜の静まり返ったマンションを飛び出す。外はいつの間にか冷たい雨が降り始めており、アスファルトを叩く雨音が夜の街に響き渡っていた。
駅の裏手にあるそのビジネスホテルは、外壁の塗装が剥がれ落ち、ネオンサインも一部が切れているような、うらぶれた安宿だった。フロントには誰もおらず、悠真は呼び鈴を鳴らすこともせずにそのままエレベーターに乗り込み、三階へと向かった。
薄暗い廊下を進み、302号室の前に立つ。ノックをするのももどかしく、ドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった。
「美咲」
部屋に入り、壁のスイッチを押して明かりをつける。目に飛び込んできたのは、ひどく乱れたベッドの上で、毛布にくるまって胎児のように丸まっている美咲の姿だった。
「……悠、真……?」
光に反応して、美咲がゆっくりと顔を上げた。その顔を見た瞬間、悠真は思わず息を呑んだ。
たった二週間。それだけの時間で、人間はここまで醜く、惨めな姿に変われるものなのか。
美咲の頬はげっそりとこけ、目の下には黒々とした隈が張り付いていた。髪は脂で汚れ、ボサボサに乱れている。着ている服も、家を出た時に着ていたものと同じで、至る所にシワが寄り、薄汚れすら感じさせた。いつも綺麗にメイクをして、花のように笑っていた妻の面影は、そこには微塵も残っていなかった。
「お前……そのザマはなんだ」
「悠真……っ、来てくれた……ごめんなさい、本当にごめんなさい……っ」
美咲はベッドから這いずるようにして降りると、悠真の足元にしがみつき、ボロボロと涙をこぼしながら泣き崩れた。悠真はそんな彼女を抱き起こすこともせず、ただ冷たい目で見下ろしていた。
「腹が痛いと言っていたな。出血はしているのか?」
「ううん……出血は、ない……でも、痛みがずっと続いてて……怖くて……」
「精神的なストレスからくる収縮だろう。安静にしていれば治まるはずだ」
悠真は淡々と事実だけを告げ、部屋の隅にあるパイプ椅子を引き寄せて腰を下ろした。そして、足元で泣き続ける美咲を見据え、冷徹な声で問いかけた。
「それで? 高橋に捨てられたというのはどういうことだ。詳しく説明しろ」
美咲はビクッと肩を震わせ、力なく床に座り込んだまま、途切れ途切れに話し始めた。
家を追い出されたあの日、美咲は行く当てもなく、とりあえず手持ちの現金でこの安いビジネスホテルに転がり込んだ。すぐに高橋に連絡を取ろうとしたが、何度電話をかけても繋がらない。メッセージアプリのMINEを送っても、既読すらつかなかった。
焦りと恐怖に駆られた美咲は、翌日、公衆電話から高橋の携帯に電話をかけた。見知らぬ番号からの着信に、高橋は一度だけ電話に出た。
『……もしもし、健一? 私、美咲だけど……』
『お前か! 一体何のつもりだ!』
電話の向こうの高橋の声は、かつて甘い言葉を囁いていた時とは別人のように、怒りと苛立ちに満ちていた。
『お願い、健一。私、夫に家を追い出されちゃって……これからどうしたらいいか分からなくて……っ。お腹の子供もいるし、助けて……』
『ふざけるな! 俺は関係ないと言っただろう! そもそも、その子が俺の子供だという証拠がどこにある!』
『そんな……っ、でも、あの時……』
『いいか、よく聞け。俺には妻も子供もいるんだ。お前みたいな女に関わって、家庭を壊すわけにはいかないんだよ! 二度と俺に連絡してくるな。これ以上つきまとうなら、弁護士を立てて接近禁止命令を出すぞ。慰謝料を請求されてもいいのか!』
それだけを一方的に捲し立てると、電話は無残に切られた。それ以降、高橋とは一切の連絡が取れなくなった。彼の職場に行くことも考えたが、もし本当に弁護士を立てられ、妻に訴えられれば、専業主婦で貯金もない美咲は完全に破滅する。その恐怖が、彼女の足をすくませた。
頼れる友人はいなかった。前の職場の同僚たちには、幸せな専業主婦を演じていた手前、不倫をして追い出されたなどと相談できるはずもない。実家の両親は高齢で、しかも厳格な父親にこの事実を知られれば、勘当されることは目に見えていた。
ただ一人、すがるように縋っていた蜘蛛の糸が、あまりにもあっさりと、無残にブツリと切れてしまった。
美咲は完全な孤独と絶望の中に突き落とされた。持ち出したわずかな現金は底をつき始め、ホテルの宿泊費すら払えなくなる日が近づいていた。満足な食事もとれず、妊娠中の体調の変化と極限のストレスが彼女の心身を削り取っていった。
「……私、馬鹿だった……。彼の優しい言葉を、全部信じて……。悠真がいつも仕事でいない寂しさを、彼で埋めようとして……。でも、彼は最初から、私のお腹の子供のことなんて、少しも考えてくれてなかった……」
美咲は両手で顔を覆い、しゃくり上げるように泣き続けた。
悠真はその悲惨な話を聞きながら、胸の奥で黒い炎がメラメラと燃え上がるのを感じていた。
それは、自分を裏切った美咲に対する怒りだけではなかった。むしろ、その怒りの矛先は、高橋という男の卑劣さに強く向いていた。
(他人の家庭を壊しておいて、自分の家庭は守りたいだと? 女を孕ませておいて、責任はすべて押し付けて逃げるだと?)
怒りで視界が赤く染まるような錯覚を覚えた。あの時、カフェの前で高橋の顔面を殴り飛ばしておけばよかったという激しい後悔と、殺意にも似た憎悪。身勝手なリアリストである高橋の行動は、悠真の倫理観を根底から蹂躙するものだった。
そして同時に、目の前でボロ雑巾のように泣き崩れる妻に対して、悠真は奇妙な感情を抱き始めていた。
裏切った女だ。憎むべき存在だ。だが、高橋に見捨てられ、一人で産む覚悟もなく、孤独への恐怖に怯える彼女の姿は、あまりにも哀れだった。かつて自分が愛し、守ろうとした女が、ここまで落ちぶれてしまったことに対する憐憫の情。
「悠真……っ、私、どうしたらいいの……? 行くところなんてない……死ぬしかないの……?」
美咲がすがるような目で悠真を見上げた。その瞳には、かつての夫に対する期待と、見捨てられることへの恐怖が入り混じっていた。
突き放すのは簡単だ。ここで背を向けて部屋を出ていけば、悠真はすべての煩わしさから解放される。
だが、悠真は動かなかった。彼の心の中に巣食っていた「執着」が、美咲をこのまま終わらせることを拒絶していたのだ。
自分を裏切った女が、最も惨めな底辺で苦しんでいる。その女を救えるのは、世界でただ一人、自分しかいない。この事実が、悠真の傷ついた自尊心を奇妙な形で満たし始めていた。
これは愛情ではない。狂気に満ちた、執着と支配欲の入り混じった感情だ。高橋への復讐心と、美咲への歪んだ慈悲。それらが悠真の思考を黒く染め上げていく。
「……死ぬ必要はない」
悠真の口から、冷たく、だが決定的な言葉がこぼれ落ちた。
美咲がハッと息を呑み、涙で濡れた顔を上げる。
「一人で産む覚悟もない。行く当てもない。なら、俺が面倒を見てやる」
「え……? 悠真……?」
信じられないというように、美咲の瞳が見開かれる。
「ただし」
悠真は立ち上がり、美咲を見下ろしながら、宣告するように言った。
「俺たちはもう夫婦じゃない。お前はただの『お腹に子供を宿した女』だ。俺が提供するのは、雨風をしのぐ場所と、最低限の食事、そして出産のための費用だけだ」
美咲の顔に、安堵と、それ以上の深い絶望が同時に浮かび上がった。悠真の提案が、愛による救済などではなく、彼女の罪を永遠に突きつけ続けるための残酷な檻であることを悟ったからだ。
「帰るぞ。荷物をまとめろ」
悠真はそう言い捨てると、ドアに向かって歩き出した。背後で、美咲が力なく立ち上がり、這うようにして荷物をまとめ始める音が聞こえる。
蜘蛛の糸は切れた。だが、美咲は今度は、悠真という冷たく鋭い茨に自ら絡め取られる道を選んだのだ。そして悠真もまた、自分を裏切った女を支配するという、決して後戻りのできない狂気の領域へと足を踏み入れていた。




