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不純な産声、歪なゆりかご ~壊れた夫婦が選んだ「偽りの家族」~  作者: ledled


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第2話:白日の下に晒された「偽り」

休日の朝の光が、リビングの白いカーテン越しに柔らかく差し込んでいた。テレビからは週末ののどかな情報番組の音声が流れており、キッチンからはコーヒー豆を挽く香ばしい匂いが漂ってくる。絵に描いたような平穏な休日の朝の風景。しかし、佐藤悠真にとって、この空間を満たしているすべての要素が、今は酷く空々しいものに感じられた。


あの日、美咲の妊娠が発覚し、彼女のスマートフォンに『ケン』という男から不穏なメッセージが届いた夜から、悠真の時間は泥沼に足を踏み入れたように重く、淀んだものになっていた。


仕事中も、食事中も、そして美咲の隣で目を閉じている夜でさえ、頭の片隅には常にどす黒い疑念が渦巻いていた。彼女の無邪気な笑顔の裏に、一体どんな秘密が隠されているのか。自分のお腹を愛おしそうに撫でるその手は、他の男に抱かれた手ではないのか。そんな吐き気をもよおすような想像が、事なかれ主義で生きてきた悠真の心を内側から蝕んでいた。


「悠真、コーヒー入ったよ。パンも焼けてるから、熱いうちに食べてね」


エプロン姿の美咲が、トーストと目玉焼きが乗った皿をテーブルに運んでくる。彼女の表情は、妊娠を知ってからの数日間、ずっと晴れやかで輝いているように見えた。


「ありがとう。……今日、出かけるんだったよね」


悠真がコーヒーカップに口をつけながら尋ねると、美咲は少しだけ肩をビクッと揺らし、それから慌てたように満面の笑みを作った。


「うん。前の職場の、仲の良かった女の子たちと久しぶりにランチしてくるの。妊娠したことも、みんなに報告したくて。少し帰りが遅くなるかもしれないけど、夕飯の支度はしていくからね」

「そうか。無理はするなよ、体調が第一なんだから。楽しんでおいで」

「ありがとう、悠真。本当に優しいね」


美咲は嬉しそうに微笑み、寝室へと着替えに向かった。悠真は冷めかけたコーヒーを見つめながら、ゆっくりと息を吐き出した。


前の職場の女の子たち。その言葉が真実である保証はどこにもない。むしろ、彼女がウキウキとした足取りで準備をしている様子を見れば、それが「女友達」に会いに行くためのものではないことなど、少しでも勘の働く者ならすぐに気づくはずだった。


一時間後、美咲はいつもより丁寧にメイクを施し、淡いブルーのワンピースに身を包んで家を出て行った。普段、近所に買い物に行く時の彼女とは明らかに違う、女としての隙と色気を纏った装いだった。


玄関のドアが閉まり、鍵がかけられる音が響いた瞬間、悠真はソファから跳ね起きた。あらかじめ用意してあったジャケットを羽織り、財布とスマートフォンだけをポケットに突っ込んで、足音を殺しながら後を追う。心臓が早鐘のように鳴っていた。自分が今からしようとしていることは、夫婦という関係の根底を破壊する行為だ。だが、もう引き返すことはできなかった。真実を知らなければ、一生この疑念という名の地獄に焼かれ続けることになる。


駅までの道のり、美咲は何度も立ち止まってはスマートフォンの画面を確認し、誰かとメッセージのやり取りをしているようだった。そのたびに彼女の口元が緩むのを、悠真は少し離れた電柱の陰から冷たい目で見つめていた。


電車に乗り込み、悠真は別の車両からドア越しに美咲の姿を監視し続けた。彼女が降り立ったのは、青山にある洗練された街並みの駅だった。休日の昼時とあって、駅前にはおしゃれな服装をしたカップルや若者たちが溢れ返っている。美咲はその人混みを慣れた足取りで抜け、メインストリートから一本裏に入った、閑静な路地裏へと向かっていった。


彼女が吸い込まれるように入っていったのは、アンティーク調のレンガ造りが特徴的な、隠れ家風のカフェだった。通りに面して大きなガラス窓があり、テラス席には緑豊かな観葉植物が飾られている。


悠真は通りの向かい側にある雑貨屋の陰に身を潜め、ガラス越しに店内の様子を窺った。


美咲が向かった窓際の奥の席には、すでに一人の男が座って待っていた。


年齢は悠真と同じか、少し上くらいだろうか。仕立ての良いカジュアルなジャケットを着こなし、髪は綺麗に整えられている。端正な顔立ちだが、どこか薄っぺらで、甘い言葉で女性を懐柔することに長けていそうな雰囲気を漂わせていた。高橋健一。悠真が後になって知ることになる、その男の名前だった。


美咲が席に着くなり、高橋は満面の笑みを浮かべて彼女に身を乗り出した。美咲もまた、悠真の前では決して見せないような、熱っぽく、そしてどこか従順な女の顔で男を見つめ返している。


高橋の手がテーブルの上を滑り、美咲の白い手を包み込んだ。美咲はそれを拒むどころか、嬉しそうに自分のもう片方の手を重ねた。


その光景を目にした瞬間、悠真の視界がぐらりと揺れた。周囲の街の喧騒がスッと遠のき、耳の奥でキーンという鋭い耳鳴りだけが響き渡る。


信じたい気持ちなど、とうの昔に擦り切れていた。だが、決定的な証拠を突きつけられたことで、最後に残っていた細い希望の糸が、無惨にもブツリと音を立てて千切れた。


腹の底から、黒くドロドロとした感情が湧き上がってくる。それは底知れない絶望であり、同時に、あの男の首を今すぐ絞め殺してやりたいという、生まれて初めて覚える明確な殺意だった。


悠真はポケットからスマートフォンを取り出し、カメラのレンズを二人に向けた。手が震えてピントがなかなか合わない。何度か深呼吸をして感情を押し殺し、二人が親密に触れ合っている瞬間を連続で写真に収めた。フラッシュは焚かない。シャッター音は街の雑踏にかき消された。


証拠は揃った。今すぐ店に踏み込んで、二人が座るテーブルをひっくり返し、男の顔面を殴りつけてやることもできた。だが、悠真はそうしなかった。事なかれ主義で生きてきた彼の本質が、逆上という短絡的な行動を抑え込んだ。代わりに彼の心を支配したのは、氷のように冷たく、論理的で、徹底的に相手を追い詰めるための冷徹な計算だった。


一時間後。


カフェのドアが開き、高橋と美咲が連れ立って出てきた。高橋が美咲の腰に親しげに手を回し、二人は通りを歩き始める。美咲は幸せそうに高橋の顔を見上げ、何かを囁いている。


悠真は雑貨屋の陰から静かに歩み出た。そして、二人が向かってくる歩道の真ん中に、立ちはだかるようにして足を止めた。


二人の距離が、十メートル、五メートルと縮まっていく。


美咲がふと前を向き、悠真の姿を視界に捉えた。その瞬間、彼女の顔から表情という表情が完全に消え失せた。歩みがピタリと止まり、高橋の腕に回していた手がダラリと力なく下がる。


「……えっ?」


美咲の口から、掠れた声が漏れた。幽霊でも見たかのように目を見開き、全身が小刻みに震え始めている。


「どうした、美咲?」


突然立ち止まった美咲を不思議に思い、高橋が彼女の視線の先を追う。そこに立っている悠真と目が合った。高橋は一瞬怪訝な顔をしたが、美咲の異常な反応を見て、目の前の男が誰であるかを察したらしい。サッと血の気を引き、美咲から慌てて距離を置いた。


悠真は表情を一切変えず、静かな、しかし周囲の空気を凍りつかせるような低い声で口を開いた。


「偶然だね、美咲。前の職場の女の子たちとのランチは、随分と楽しそうだったじゃないか」

「ゆ、悠真……ちがっ、これは……」


美咲は後ずさりしながら、必死に言葉を紡ごうとする。しかし、パニックに陥った頭ではまともな言い訳など思いつくはずもなかった。


悠真の冷ややかな視線は、美咲から高橋へと移った。


「初めまして。佐藤悠真と申します。妻がいつも、大変お世話になっているようで」


礼儀正しく、淡々とした口調。それが逆に不気味さを増幅させ、高橋は怯えたように一歩後退した。


「あ、いや、これは誤解です! 私はただ、偶然通りかかって、彼女の体調が優れないというので少し休ませていただけだ! そ、そうですよね、佐藤さん!」


高橋の保身に満ちた言葉に、悠真は心の中で冷笑を浮かべた。こんな薄っぺらい、自分の保身しか頭にないような男に、美咲は惹かれたのか。


「体調が優れない? なるほど。お腹にいる『あなたの子供』のせいで、ですか?」


悠真が鎌をかけた瞬間、高橋の顔が絶望的なまでに引き攣った。


「おっ、お前! 旦那に言ったのかよ!」


高橋は声を荒げ、憎々しげに美咲を睨みつけた。美咲はただ首を横に振り、泣き崩れそうになるのを必死に堪えている。


「違う、言ってない! 私は何も……!」

「ふざけるな! 俺は関係ないからな! 誘ってきたのはそっちだし、そもそも俺の子供かどうかも分からないじゃないか! 家庭がある身なんだ、これ以上俺を巻き込むな!」


高橋は吐き捨てるようにそう叫ぶと、美咲を見捨てるように背を向け、逃げるように足早にその場から立ち去っていった。自分の家庭が壊れることを恐れ、責任をすべて美咲に押し付けて逃亡したのだ。身勝手なリアリストとしての本性が、これ以上ないほど露悪的な形で露呈した瞬間だった。


残された美咲は、逃げ去る高橋の背中を呆然と見送り、やがてその場にへたり込んだ。アスファルトの上に膝をつき、両手で顔を覆って声にならない嗚咽を漏らし始める。


悠真はそんな彼女を見下ろしながら、微塵の同情も感じなかった。ただ、足元で泣き崩れる女が、ひどく滑稽で、哀れで、そしてひどく汚らわしいものに見えた。


「立て。家に帰るぞ」


悠真の声には、怒りも悲しみも含まれていなかった。ただの冷たい命令。美咲はビクッと体を震わせ、ふらつく足取りで立ち上がった。二人は一言も言葉を交わすことなく、重苦しい沈黙に包まれたまま帰路についた。



自宅のマンションのドアを開け、リビングに入る。つい数日前、妊娠の報告を受けて手を取り合って喜んだ、あの温かい空間。しかし今は、そのすべてが嘘で塗り固められた舞台セットのように感じられた。


悠真はソファに深く腰を下ろし、腕を組んだ。美咲はソファに座ることも許されないと感じたのか、フローリングの床に正座し、力なくうなだれている。


「さて、答え合わせをしようか」


悠真は裁判長が罪人に判決を下すような、冷徹な響きで言った。


「いつからだ。あの男との関係は」


美咲はボロボロと涙をこぼしながら、震える唇を開いた。


「半年前……くらいから……」

「どうしてだ」

「寂しかった……悠真はいつも仕事で遅くて、私は一日中この部屋に一人で……。そんな時に、前の職場の同窓会で彼に会って、優しくされて……私、馬鹿だった……本当にごめんなさい……!」


美咲は床に額をこすりつけるようにして謝罪の言葉を繰り返す。寂しかったから。そんな陳腐な理由で、彼女は自分が必死に守ってきた家庭を、自分への信頼を、すべて泥で汚したのだ。


「それで、あの男との間に子供ができた。俺との間にはずっとできなかったのにな。皮肉な話だ」

「違う! 違うの、悠真! この子は、悠真の子かもしれない……!」

「嘘をつくな!!」


悠真は初めて声を荒げ、テーブルを力強く叩いた。バンッという大きな音がリビングに響き渡り、美咲はヒッと短い悲鳴を上げて身をすくませた。


「俺たちが最後にセックスをしたのはいつだ? もう三ヶ月以上前だ。妊娠の週数と合わないことくらい、俺だって計算すれば分かる。お前は、自分の不倫を隠すために、そしてあの男から逃げられた時の保険のために、俺に自分の子供だと嘘をついた。そうだろ?」


悠真の冷酷な事実の羅列に、美咲は反論する言葉を完全に失った。彼女の目から溢れる涙が、フローリングに落ちて小さな染みを作っていく。


逃げ場はどこにもなかった。嘘も、言い訳も、すべてが白日の下に晒され、完膚なきまでに論破された。


「……そうです。彼の子です……。本当に、ごめんなさい……私は、最低な女です……」


美咲はついに、お腹の子が高橋の子供であることを認めた。その言葉を聞いた瞬間、悠真の心の中で、美咲に対する最後の「情」のようなものが完全に死に絶える音がした。


全てが終わった。美咲は諦念に支配され、ただ泣き続けることしかできなかった。自分が犯した罪の大きさと、失ってしまったものの価値に気づき、心が完全にへし折れていた。


悠真はそんな彼女を冷たい目で見下ろしながら、立ち上がった。


「もういい。お前の顔は二度と見たくない。今すぐ荷物をまとめて出て行け」

「悠真……お願い、見捨てないで……私には、もう行くところなんて……」

「それは俺の知ったことじゃない。お前が自分で選んだ道だろう」


悠真は冷たく言い放つと、振り返ることなく寝室へと向かった。扉を乱暴に閉め、ベッドの端に腰掛ける。


部屋は静まり返り、リビングから漏れ聞こえる美咲のくぐもった泣き声だけが、暗い部屋に響いていた。悠真は両手で顔を覆い、暗闇の中で激しく息を吐いた。


怒り、絶望、憎悪、悲哀。あらゆる感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、もはや自分が何を感じているのかすら分からない。ただ一つ確かなことは、彼らが築き上げてきた「幸せな家庭」という名のメッキが完全に剥がれ落ち、そこには醜く壊れた残骸だけが転がっているという事実だった。


静かに狂い始めた時計の針は、もう二度と元に戻ることはない。偽りの家族の形が、今、完全に崩壊した。

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