離 ~ 旅立ちの時、来たれり ~
「のう婆さんや、紗枝から何か連絡は来ておらんかのぅ」
荘厳な法衣を脱ぎ捨て、身軽な室内着を纏った老翁が、伴侶である老婆にお茶を差し出しながら問う。
「なんですか貴方、紗枝が旅に出てからまだ三日しか経っていませんよ?」
明日の仕込みを終えて肩を叩きながら居間へと入って来た老婆は、老翁の言葉に呆れたような顔をする。
「そうは言っても心配なものは心配なんじゃ。特に紗枝はこの前まで不憫な目にあっておったしのぅ」
まるで駄々をこねる子供のようだと呆れながら、老婆は差し出されたお茶を啜り、人心地を付く。
あの日、大神殿へと帰還した老翁達に届けられたのは、『暫く旅に出ます』と書かれた紗枝の兄である宗司の符であった。
「宗司もきなこも一緒なんです。何の心配もありませんよ」
「それはそうじゃが……。全く、鈴もめったに連絡を寄越さんし、達樹はなにをやっとるんじゃ……。それに千代も環も宮子も ――」
「はいそこまでですよ。全く、千代なら先日手紙が来たばかりじゃないですか、環は一月前に顔を見せに来ましたし。そもそも『便りの無いのは良い便り』と言うじゃありませんか、皆息災でやっていますよ」
老翁の口から、最近巣立っていった者達の名が止めど無く流れ出そうになるのを、老婆の声が遮る。
長年連れ添った仲であれば、いつもの事だと慣れっこにもなるし、受け流す事など朝飯前である。
毎晩のように繰り返されるやり取りに、老婆は呆れた溜息を吐き、老翁の言葉を右から左へと軽く聞き流す。
あの時見せた威厳はどこへやら、今の老翁の姿は、孫を心配する祖父であり、孫に会いたいと駄々をこねる駄目舅のそれであった。
「全く……宗司も宗司じゃ、事が終わったのだから一回帰ってくれば良いものを……梓も待っていると言うに……」
小言の向き先は、今度は紗枝の兄である宗司にも向かう。
「そうは言ってもあの宗司ですからね。仕方ありませんよ」
「全く……あの子たちはもう少し兄離れ、妹離れをするべきじゃと思うんじゃがのぅ……」
「何時まで経っても孫離れ出来ない貴方が言う事じゃありませんね。さて、明日も早いし私はお先に休みますよ」
老翁の言葉をばっさり切り捨て、老婆は湯呑を抱えて部屋から出て行く。
その姿を見送り、孫煩悩な老翁は一人溜息を零すのだった。
§
「ねぇ、お兄ちゃん。結局あれって何だったの?」
とある街の食堂で、肩に止まったきなこに細く切った野菜を与えながら、思い出した風に紗枝が訊ねる。
二人きりの時にだけ見せる少し甘えた様子に、猫を被るのが上手くなったものだと宗司はある種感心していた。
「ん~、どこから説明したもんかな……」
事の起こりは、三年ほど前に大神殿を訪れた王国の使者が、神子としての紗枝の能力を目にしたことに始まる。
その頃、行き過ぎた血統主義と、それに伴う気位の高さから他国を見下しがちな王国は、各国からも嫌厭されがちであり、王国自身もそれを感じ取ってはいた。
さりとてその気位を多少低くしようとは思わないところが血統主義者の血統主義者たる所以ではあるのだが。
兎にも角にも、自らを省みる事無く他国からの尊敬を取り戻そうと躍起になっていた王国は、紗枝の存在に飛びついたのだ。
王国に伝わる建国の伝説。
それは、今なお王国で建国の母と呼ばれ、聖女とも伝えられる一人の女性の存在。
初代国王の伴侶たるその女性は、癒しの力を以て戦いに傷付いた夫の身を癒し、その大いなる加護は、一騎当千、百戦錬磨の力を授けたと伝えられている。
初代国王はその力によって並み居る敵を打ち倒し、やがては今に続く王国を打ち建てるに至ったのだと。
紗枝の存在を知ったクリストフは王国の伝説に思い至り、息子のリュシアンに大いなる加護が与えられれば、かつての威厳を取り戻す事が出来ると考えた。
自らを省みて戒める事も無く、だ。
クリストフにとって誤算だったのは、彼らが『聖女の加護』と呼んでいるそれが、聖女自身の意思で与えるものでは無かったというところ。
そして、彼らの考える『施し』が、それを受ける側にとっては何の価値も無かったという事だろう。
いつまで経ってもリュシアンに加護を与えようとしない紗枝に業を煮やし、強引にでもそれをさせようと一芝居打ったのが、あの茶番のあらましである。
各国に対して自らの行いの正当性を主張しようという意図があったようだが、蓋を開ければ杜撰も良いところ。
たとえ神殿騎士団の介入が無かったとしても、各国の白眼視は免れなかっただろう。
「ふ~ん。でも、『加護』が欲しいだけなら私じゃなくても良かったんじゃない? 大神殿には私以外にも神子はいっぱいいるし」
宗司の話を聞きながら、紗枝が率直な感想を述べる。
「まぁ、そうなんだけどな……」
伝説にある聖女が癒しの力というわかりやすい力を持っていた為、癒しの力を発現させた紗枝が聖女として迎えられたが、『加護』を与えられる神子は紗枝一人ではない。
この世界の女神は人が大好きで、特に色恋沙汰に興味津々である。
女神は時に、大神殿の孤児院の子供達の目を通して恋愛を疑似体験する。
初恋の男の子を眺める女の子と一緒にドキドキしてみたり。
恋人と手をつなぐ女の子と一緒にワクワクしてみたり。
遠く旅する思い人を想って切なくなってみたり。
年老いた夫と共に縁側でお茶を飲みながらほっこりしてみたり。
自分がその子の人生を覗き見させてもらうお礼として、その力の一端を、女の子の望む才覚を与える。
それが『神子』。
そして、神子に近しく、神子の最も信頼する者に神子を守る力を与える。
それが『加護』。
なので、数年に一度、新たな神子は誕生しており、大神殿において『神子』と呼ばれる存在は実はそう珍しくはない。
子供達からは『ばっちゃん』と呼ばれて慕われている教皇の妻は、好きな人に美味しい料理を食べさせたいと願い、今では孤児院の食堂で日夜鍋を振るっている。
お裁縫が好きだったのは、神殿騎士団第一団の団長の奥さんである千鶴姉。日々新しい服を作っては孤児院の子供相手に品評会を開き、女の子からは喜ばれ、男の子からは恐れられている。
歌うのが好きだった鈴姉は、夫である第二団団長の達兄と共に、吟遊詩人として世界を旅している。今回の件も、鈴姉の口から新たな歌として世界へ広められていく事だろう。
そして、紗枝が神子に選ばれた時、彼女は癒しの力を望んだ。
それは、野犬から紗枝を守る為に大怪我を負った幼い日の宗司を救う為の力だった。
故に、宗司に加護が与えられたのは、自然な流れであると言える。
なお、全八団ある神殿騎士団の各団長、及び副団長は全て加護持ちで構成されており、それ以外の団員の中にも加護持ちは複数存在している。
また、加護持ちを相手に日夜訓練に明け暮れる者達の集まりであれば、たとえ自らは加護持ちでなくとも、その実力や察して知るべし。
神殿騎士団がこの世界の最高戦力と言われる所以はそこにあった。
「まぁ、大神殿の対応を見誤ったってのもあるだろうけどな。まさか紗枝が苛められていると激怒したじっちゃん達が大挙して押し寄せてくるとは夢にも思ってなかっただろうしなぁ」
最も、本人たちには『苛めていた』という意識すらなかっただろうが。
自らを貴い者と思い込んだ者達の、傲慢さ故の行いに思いを馳せ、宗司は心の中で溜息を吐く。
大神殿の孤児院の者達にとって、孤児院の子供たちは全て自分の家族である。
身寄りの無い子供達は大神殿へと誘われ、大神殿の子として育てられる。
長じて巣立った者は、感謝と共にそれを新たな大神殿の子達へと返す。
商才を現わした者の中には、その稼ぎから少なくない額を喜捨する者もいる。
時折大神殿を訪れては物資を収め、目を輝かせる子供達に旅の物語を語る者もいる。
そうして巡り巡って大神殿の孤児院は運営されてきたのだ。
大神殿の子達にとって、先達は祖父母であり、両親であり、兄姉である。
大神殿の先達たちにとって、大神殿の子達は弟妹であり、子であり、孫である。
故に、家族を害する者達を大神殿の者達は決して許さない。
今回は、たまさか紗枝が神子であった為に神罰という手段を用いただけだった。
では、神子でない者が虐げられた時、大神殿の者達がどう相対するか。
答えは簡単。
単なる実力行使である。
それは、過去の歴史が証明している。
「まぁ、紗枝がとっとと大神殿に戻っていれば、あそこまで大騒ぎにはならなかったかもしれないけどなぁ……」
宗司の言葉に、紗枝は『うっ』と言葉を詰まらせる。
「だって……約束を破って戻ったりしたら、皆に迷惑がかかるかと思ったんだもん。お兄ちゃんもきなこも居てくれたから、そこまで辛いとは思ってなかったし……」
しょんぼりとして視線を落とす紗枝の頭に手をのせると、宗司は優しくその髪を撫でる。
女神は紗枝を神子に選んだが、今のところ紗枝に色恋沙汰の気配は無い。
この少々甘えん坊で世間知らずの妹が、恋を覚えるのはいつの日になるだろうか。
その時、自分に与えられている加護は、その男へと与えられるのかもしれない。
それは、少し寂しい事だけれど、悲しい事ではない。
その時が訪れた後の事を宗司は考える。
第四団の団長は辞する事になるだろうが、その後はどうしようか。
そのまま団員として残留するのも良いが、ばっちゃんの食堂を手伝うのも良いかもしれない。
千鶴姉の手伝いは……男の子から恨まれそうだ。
外に出た人達を手伝っても良し、なんなら独り立ちして商売を始めたり、いっそ冒険者なんて者になっても良いかもしれない。
大神殿の中にも外にも、自分にも妹にも、可能性は無限にある。
髪を撫でられて嬉しそうに目を細める妹を眺めながら、宗司はそんな事を思っていた。
それが思いの外先になる事も、その間に自分が大神殿の歴史でも珍しい『二重の加護』の持ち主になる事も、今の宗司には思いもよらない事ではあったが。
有難う御座いました。