第四章 白銀の街に灯る春 前編
暖炉の薪が、ぱちりと音を立てた。
書斎には、羽ペンの走る音と、時折めくられる書類の乾いた響きが満ちている。
窓の外では、夕暮れの光が雪原を薄青く染め始めていた。
アルジェンは机に向かい、第三鉱山の報告書へ目を通していた。
向かい側では、ギルバートが確認済みの書類をまとめている。
先ほど交わした会話は、すでに終わったはずだった。
――明日も、元気な顔を見せてくれるなら、それに越したことはない。
そう答えたのは、自分だ。
リディアが無事に回復し、日々を穏やかに過ごせることを願う。それ自体は、ごく自然な感情だろう。
だが、ギルバートに尋ねられて初めて気づいたことがある。
自分は、彼女が明日も書斎へ来ることを、思いのほか楽しみにしているらしい。
アルジェンは、報告書の同じ行をもう一度読み返した。
「……ギルバート」
「はい、閣下」
「……少し、聞いてもいいか」
ギルバートが顔を上げる。
「珍しいですね。何でしょう?」
アルジェンは羽ペンを置いた。
「お前は、誰かと過ごす時間を楽しみに思うことがあるか?」
ギルバートは一瞬、目を瞬かせた。
それから、少し考えるように首を傾げる。
「もちろん、ありますよ。気の合う友人との食事もそうですし、久しぶりに会う知人との約束も楽しみなものです」
「……そうだな」
アルジェンは頷いた。
自分にも、その感覚は分かる。
家族と過ごす時間も、ギルバートをはじめとする友人たちとの語らいも、決して嫌いではない。
むしろ、忙しい日々の中で大切にしてきた時間だった。
だが、今感じているものは、それらと少し違う気がする。
「……では」
アルジェンは言葉を選んだ。
「まだ知り合って間もない相手と、翌日も会えることを楽しみに思うのは……どういうことなのだろうな」
ギルバートの表情が、わずかに変わった。
「なるほど」
彼はゆっくりと頷いた。
「その方とお話ししていると、楽しいのですか?」
「……ああ」
「その方が笑っていると、ご自身も嬉しくなる?」
アルジェンは少し考えた。
シチューを美味しそうに食べるリディア。
図書室の話をした途端、目を輝かせた彼女。
そして、客室の前で告げられた言葉。
――また明日、書斎でお会いできるのを楽しみにしております。
「……そうだな」
静かに答えた。
ギルバートは柔らかく微笑んだ。
「でしたら、好意を抱いていらっしゃるのでしょうね」
「……好意」
「ええ。ただ、それが友情なのか、恋なのか。今の段階で決めつける必要はないと思いますよ」
アルジェンは、その言葉を胸の内で繰り返した。
好意。
確かに、リディアを好ましく思っていることは否定できない。
だが、それがどのような種類の感情なのかは、まだ分からなかった。
「……お前は、随分と落ち着いているな」
「閣下が珍しく私に相談してくださったので、ここぞとばかりにからかいたい気持ちはありますが」
「……ギルバート」
「冗談です」
ギルバートは笑った。
「こういうことは、急いで答えを出すものでもないでしょう。閣下がご自身で確かめていけばよいのではありませんか」
アルジェンはしばらく黙っていた。
彼女の素性も、ここへ来るまでに何があったのかも、まだ分からない。
それでも、今の彼女が安心して過ごせるようにしたいという気持ちは変わらなかった。
自分の感情を確かめるために、彼女を困らせるつもりもない。
「……そうだな」
やがて、アルジェンは頷いた。
「今すぐ結論を出す必要はない」
「ええ」
「まずは、彼女がこの屋敷で穏やかに暮らせることが大切だ」
ギルバートは、穏やかな眼差しで主君を見つめた。
「……閣下らしいお考えです」
アルジェンは羽ペンを手に取った。
「さて、仕事に戻ろう。第三鉱山の搬出量については、現場の監督に改めて確認が必要だ」
「承知いたしました」
再び書類へ向き直りかけて、アルジェンはふと顔を上げた。
「……ギルバート」
「はい?」
「今の話は、ほかの者には伏せておいてくれ」
ギルバートは一瞬だけ目を丸くした。
それから、人懐こい笑みを浮かべる。
「もちろんです。友人として、お約束しますよ」
アルジェンは短く頷いた。
その返事を信じ、仕事へ戻る。
ギルバートも、それ以上は何も言わなかった。
ただ、長年の友人である彼には分かっていた。
主君はまだ、自分の気持ちを恋とは呼ばないだろう。
けれど、誰かとの明日を、これほど気にかけるようになった。
それは確かな変化だった。
*
それから、およそ一か月が過ぎた。
ニヴェリスの冬は、相変わらず厳しかった。
夜の間に降り積もった雪は、朝になると屋敷の庭を真っ白に覆い尽くす。
窓には霜が降り、屋根の縁には長い氷柱が垂れ下がった。
それでも、ヴォルフェルト伯爵邸の中には、以前とは少し違う時間が流れていた。
リディアは順調に体調を取り戻し、今では屋敷の中を不自由なく歩けるようになっていた。
初めの頃は使用人に案内されていた廊下も、今ではすっかり覚えている。
もっとも、一度だけ似たような扉を間違えて開けてしまい、通りかかった使用人に笑顔で道を教えられたこともあった。
その話を聞いたアルジェンが、
「……やはり、あの時計を目印にした方がいいな」
と大真面目に助言したものだから、リディアは思わず笑ってしまった。
そんな小さな出来事も、今では屋敷の日常の一部になっていた。
午前中、書斎には二人分の羽ペンの音が響く。
アルジェンが領内の報告書を確認し、リディアは公開可能な集計資料や、機密に触れない過去の交易記録を整理する。
彼女の扱う書類は、あくまでもアルジェンが内容を確かめたものに限られていた。
領民の個人情報や、鉱山の詳細な収支、外交に関わる記録などは、引き続き彼自身とギルバートが管理している。
リディアも、その区別について不満を口にすることはなかった。
むしろ、任された範囲の仕事を丁寧に進め、時折、集計方法について新たな提案をすることもあった。
そのたびにアルジェンは彼女の意見へ耳を傾け、必要に応じて検討を重ねた。
午後になると、リディアは図書室へ足を運ぶことが多かった。
ニヴェリスの歴史や文化について書かれた本を読み、分からないことがあれば使用人たちに尋ねる。
そうしているうちに、屋敷の者たちとも自然に言葉を交わすようになっていた。
ある日には、厨房から漂ってきた焼き菓子の香りに誘われ、料理長へ作り方を尋ねに行ったこともある。
もっとも、本人が作るつもりだったわけではない。
「……味見でしたら、いつでもお手伝いできます!」
そう真剣に申し出たものだから、料理長は声を立てて笑ったという。
その話を聞いたアルジェンも、思わず口元を緩めた。
食事の時間には、二人で同じ食卓を囲むことが増えた。
アルジェンは相変わらず仕事に熱心だったが、以前のように昼食を急いで済ませることは少なくなった。
ギルバートから、
「閣下、最近は温かいうちにスープを召し上がるようになりましたね」
と意味ありげに言われたこともある。
アルジェンは、
「……冷める前に食べる方が合理的だからな」
と答えたが、ギルバートはなぜか満足そうに頷いていた。
そんな日々の中で、リディアの顔色は見違えるほどよくなっていった。
雪原で倒れていた頃の青白さは薄れ、琥珀色の瞳には本来の明るさが戻っている。
アルジェンは、その変化を喜ばしく思っていた。
ただ、彼女が笑うたびに自分まで気持ちが軽くなる理由については、まだ結論を出せずにいた。
*
ある朝のこと。
「おはようございます、伯爵様」
いつものように書斎を訪れたリディアが、柔らかな笑顔で挨拶した。
アルジェンは羽ペンを止める。
「……おはよう、リディア。今日も早いな」
「ふふっ。すっかり習慣になってしまいました」
リディアは自分の席へ向かいかけて、ふと窓の外を見た。
朝の光が、雪に覆われた庭を照らしている。
遠くには、白く霞む街並みが見えた。
屋敷へ来てから一か月。
その間、彼女はほとんど敷地の外へ出ていなかった。
身体を休める必要があったこともある。
けれど、今では体調もすっかり落ち着き、屋敷の中で過ごす日々にも慣れてきた。
「……そういえば」
リディアは小さく呟いた。
「私はこちらへ来てから、まだ屋敷の外をほとんど歩いておりませんね」
アルジェンが顔を上げる。
「確かに、そうだな」
リディアは少し考えるように首を傾げた。
書物を通して知ったニヴェリス。
使用人たちから聞いた、冬の暮らし。
だが、それらはまだ、誰かの言葉や記録の中にある景色だった。
実際にこの土地で暮らす人々を、自分の目で見てみたい。
「伯爵様」
「何だ?」
「もし差し支えなければ、今度、領内の市場を見に行ってみたいのですが……」
アルジェンの手が止まった。
リディアは期待に満ちた瞳で続ける。
「こちらの方々が、どのような暮らしをしていらっしゃるのか、ぜひ自分の目で見てみたいんです」
市場。
アルジェンは、その言葉を胸の内で繰り返した。
彼女の願いは、もっともだった。
書物や記録から得られる知識には限界がある。
市場には、領民の生活そのものが表れる。
何が売られ、何が不足し、人々が何を求めているのか。
それを知ることは、この土地を理解する上でも意味があるだろう。
だが同時に、気にかかることもあった。
ニヴェリスの冬は、慣れた者にとってさえ厳しい。
雪道は滑りやすく、気温が下がれば、短時間の外出でも身体が冷え切ってしまう。
彼女は一か月前、雪の中で倒れていたのだ。
その記憶は、アルジェンの中に鮮明に残っている。
それに、市場には多くの人が集まる。
リディアが自分の素性について多くを語りたがらないことも、彼は承知していた。
人目のある場所へ出ることに、何か不安はないだろうか。
アルジェンは少し考えてから口を開いた。
「……リディア」
「はい?」
「市場へ行くこと自体は、もちろん構わない」
リディアの顔が明るくなる。
「ただ、冬の街は屋敷の中とは勝手が違う。雪道も歩きにくいし、人も多い」
アルジェンは穏やかに続けた。
「……人混みが苦手だったり、外へ出ることに不安があったりするなら、無理をする必要はないぞ」
リディアは、少しだけ目を瞬かせた。
それから、柔らかく微笑んだ。
「……ありがとうございます」
彼女は小さく頷いた。
「でも、大丈夫です。ぜひ、行ってみたいです」
その声には、確かな意志が込められていた。
アルジェンは彼女を見つめた。
無理をしている様子はない。
少なくとも今は、外へ出てみたいという気持ちが、不安よりも勝っているのだろう。
「……そうか」
彼は静かに頷いた。
そして、机の上の予定表へ目を向ける。
「それなら……よければ、私が案内しよう」
「……伯爵様が?」
「ああ。明後日の午前中なら、時間を作れる」
アルジェンは予定表を確かめた。
「ちょうど街の様子も確認しておきたいと思っていたところだ。市場を見て回るには、よい機会だろう」
リディアの表情が、ぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「ああ」
アルジェンは頷いた。
「君がよければ、市場を一緒に歩こう。その後、体調や天候に余裕があれば、街のほかの場所も少し案内できる」
「まあ……!」
リディアは嬉しそうに両手を胸元で合わせた。
「ぜひ、お願いいたします!」
その弾んだ声に、アルジェンの胸の奥がわずかに温かくなった。
「ふふっ。実は、ずっと気になっていたんです」
「何がだ?」
「こちらの市場には、どんな食べ物や工芸品が並んでいるのかしらって」
リディアは楽しそうに微笑んだ。
「本で読むのも好きですけれど、やはり実際に見てみたいですもの」
「そうだな」
アルジェンも、わずかに口元を緩めた。
「ニヴェリスの冬の市場は、ほかの季節とは随分と趣が違う」
「そうなのですか?」
「ああ。保存食や毛織物、冬の暮らしに欠かせない道具などが多く並ぶ。雪の中でも商いを続けるため、店ごとにさまざまな工夫をしているんだ」
「まあ……! ますます楽しみになってきました」
その様子を見て、アルジェンは静かな満足を覚えた。
だが、リディアはふと何かを思い出したように表情を変えた。
「……でも、伯爵様」
「何だ?」
「お仕事は大丈夫ですか?」
彼女は少し心配そうに眉を下げた。
「私のために無理をなさっては申し訳ありませんし……」
アルジェンは小さく首を振った。
「仕事の心配は無用だ」
そして、わずかに苦笑する。
「……君も知っている通り、私は仕事が趣味のようなものだからな」
「ふふっ……それは、よく存じております」
「明日までに済ませておくべきものは片づける。急ぎの案件についてはギルバートとも調整しておこう」
アルジェンは机の端に置かれた書類を整えた。
「それに、領主が市場の様子を確かめるのは、正当な職務の一つだ」
少し間を置く。
「……君を案内することは、そのついでに過ぎないと言えば、納得してくれるだろうか」
リディアは目を瞬かせた。
それから、くすりと笑った。
「……ふふっ」
「何だ?」
「いいえ。伯爵様らしいなと思いまして」
アルジェンは、わずかに首を傾げた。
リディアは微笑んだまま続ける。
「でも、ありがとうございます。伯爵様とご一緒できるなら……とても嬉しいです」
その一言に、アルジェンはわずかに言葉を止めた。
とても嬉しい。
彼女は何のためらいもなく、そう言った。
その素直さが、彼には少し眩しかった。
「……無理をしているわけではない」
アルジェンは、改めて静かに答えた。
「私も、君と街を歩くのは楽しみだ」
リディアが顔を上げる。
アルジェン自身も、口にしてから少し驚いた。
だが、その言葉を取り消す気にはならなかった。
「屋敷の中だけでは、君に見せられない景色も多いからな」
彼は、ふと一か月前の雪原を思い出した。
腕の中で冷え切っていた彼女。
かすかに残る呼吸を確かめながら、屋敷へ急いだあの日。
あのときは、ただ命を救わなければならないと思った。
それが今では。
彼女と一緒に、街を歩く約束をしている。
何とも不思議な巡り合わせだった。
「当日は、暖かいコートと滑りにくい靴を用意させよう」
アルジェンは言った。
「それから、手袋と厚手のショールも忘れずに。市場では温かい飲み物を扱う店もあるから、途中で休憩するといい」
「まあ……! それも楽しみです」
「……ただし、寒さを我慢する必要はない。少しでも身体が冷えたら、すぐに言ってくれ」
その言葉には、いつも以上の真剣さがあった。
リディアは、彼が何を心配しているのか理解していた。
雪原で倒れていた自分を、助けてくれた人なのだから。
「はい。無理はいたしません」
彼女は素直に頷いた。
それから、少し楽しげに続ける。
「伯爵様にご心配をおかけして、またお仕事を増やしてしまってはいけませんものね」
アルジェンは目を瞬かせた。
そして、小さく笑った。
「……そういうことにしておこう」
「ふふっ」
二人の間に、穏やかな笑い声がこぼれた。
「明後日を楽しみにしていますね!」
リディアは嬉しそうに言った。
アルジェンは、その言葉を静かに受け止めた。
「……ああ」
短く答える。
「私も、楽しみにしている」
*
その後、二人はいつものように仕事へ戻った。
リディアは記録簿を開き、アルジェンは予定表を確認する。
書斎には、再び羽ペンの音が響き始めた。
何も変わらない、いつもの午前だった。
けれど、アルジェンの意識は時折、明後日の予定へと向かっていた。
市場の視察。
領民の暮らしを確認する、正当な職務。
そう説明すれば、誰も不思議には思わないだろう。
実際、それは嘘ではなかった。
だが、彼は気づき始めていた。
自分が楽しみにしているのは、市場の視察そのものではないのかもしれない。
リディアが、初めて見る街並みにどんな表情を浮かべるのか。
どんな品物に興味を示すのか。
どんなことを尋ね、何を見て笑うのか。
そんなことばかりを考えている。
ふと、ギルバートの言葉が脳裏をよぎった。
――その方が笑っていると、ご自身も嬉しくなる?
アルジェンは、そっと羽ペンを止めた。
好意。
あの日、初めて自分の感情について考えたとき、ギルバートが口にした言葉。
それが友情なのか、恋なのか。
まだ、分からない。
けれど一つだけ、確かなことがあった。
明後日が来るのを、楽しみにしている。
仕事のためだけではなく。
領主としての責任のためだけでもなく。
ただ、彼女と同じ景色を見るために。
アルジェンは、机の向こうに座るリディアへ視線を向けた。
彼女は真剣な表情で記録簿を読み込み、時折、気になる箇所へ印をつけている。
その横顔を見て、彼は静かに微笑んだ。
雪に閉ざされたニヴェリスの冬は、まだ終わらない。
けれど、白銀の街へ出かける約束が一つ生まれただけで、いつもの日々が少し違って感じられる。
――明後日。
その日が来るのを待っているのは、どうやらリディアだけではなかった。




