第三章 銀狼の知らない温もり 後編
食堂を出た二人は、冬の淡い光が差し込む廊下をゆっくりと歩いていた。
アルジェンはリディアの歩調に合わせながら、客室へ戻る道順を説明していた。
「この屋敷は古いものでな。何度か増築を繰り返しているせいで、初めて訪れた者には少々分かりにくい造りになっている」
「まあ、そうだったのですね」
「ああ。以前、客人が同じ廊下を何度も行き来していたこともある」
リディアは思わず笑った。
「ふふっ……それを伺って、少し安心いたしました」
「安心?」
「はい。迷ってしまうのは、私だけではないのですね」
アルジェンは彼女を見下ろした。
それから、わずかに口元を緩める。
「……そういうことだ」
彼は歩調を緩め、廊下の先を指し示した。
「客室から書斎へ向かうときは、中央階段を下りて、先ほど通った回廊を使うといい。食堂へ行く場合も、途中までは同じ道だ」
「中央階段を下りて、回廊を通るのですね」
「ああ。分かれ道には古い時計が掛かっている。それを目印にすれば迷いにくいだろう」
「時計……覚えておきます」
リディアは真剣な表情で頷いた。
まるで、先ほどまで備蓄記録を確認していたときのようだった。
アルジェンは思わず小さく笑う。
「そこまで難しく考えなくてもいい。迷ったら使用人に尋ねれば済むことだ」
「ですが、せっかく教えていただいたのですもの。できれば一度で覚えたいです」
「……君らしいな」
アルジェンは穏やかに答えた。
*
廊下の高い窓からは、雪に覆われた庭が見えた。
昼下がりの光を受け、庭木の枝に積もった雪が淡く輝いている。
リディアはふと足を緩めた。
「……綺麗ですね」
アルジェンも窓の外へ目を向けた。
「冬の間は、ほとんどこの景色のままだ」
「そうなのですね……」
「見慣れてしまえば、さほど珍しいものでもないが」
「いいえ。とても素敵だと思います」
リディアは柔らかく微笑んだ。
「同じ雪景色でも、陽の光や時間によって、少しずつ表情が違うのですね」
アルジェンは、改めて窓の外を眺めた。
確かに、朝の雪原と今の庭では、光の色も影の長さも違っている。
長年暮らしてきた屋敷の景色を、こんなふうに眺めたことがあっただろうか。
「……そうだな」
彼は静かに頷いた。
「君に言われてみると、確かに違って見える」
リディアは嬉しそうに笑った。
そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
「……おや?」
聞き覚えのある声だった。
曲がり角の先から現れたのは、書類の束を抱えたギルバートだった。
「閣下。こちらにいらっしゃいましたか」
「ギルバート」
アルジェンが足を止める。
リディアも丁寧に会釈した。
「ギルバート様。今朝はありがとうございました」
「こちらこそ。書斎ではご挨拶もそこそこになってしまいましたね」
ギルバートは人当たりのよい笑みを浮かべた。
「改めまして、ギルバート・ローゼンです。どうぞよろしくお願いいたします、リディア様」
「リディアと申します。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
リディアが微笑むと、ギルバートも丁寧に一礼した。
それから、主君へ視線を戻す。
「ところで閣下。屋敷をご案内中ですか?」
「ああ。客室へ戻る道順を教えていたところだ」
「なるほど」
ギルバートは頷いた。
その口元に、ほんのわずかな笑みが浮かぶ。
「閣下が直々に、とは。リディア様も心強いでしょうね」
「屋敷の主人として、客人に不自由がないようにするのは当然だ」
「ええ、もちろんです」
ギルバートは実に素直な声で答えた。
ただし、その表情は少しも素直ではなかった。
アルジェンは眉間にかすかな皺を寄せた。
「……何が言いたい?」
「いえ、何も?」
ギルバートは涼しい顔で首を傾げる。
リディアは二人のやり取りを見て、思わずくすりと笑った。
主従というには、どこか気安い。
きっと長い間、共に仕事をしてきたのだろう。
互いをよく知っているからこそ、こうして遠慮のない言葉を交わせるのだ。
「……それより、何か用件があったのではないか?」
アルジェンが尋ねると、ギルバートは抱えていた書類を軽く持ち上げた。
「ええ。第三鉱山の報告書について、確認していただきたい箇所がありまして」
アルジェンの表情が、すぐに仕事のものへと変わった。
「搬出計画の件か?」
「はい。搬出量の記録と人員配置に、少々気になる点があります」
「……分かった。書斎に戻り次第、確認しよう」
「承知いたしました」
ギルバートは頷いた。
そして、ちらりとリディアへ視線を向ける。
「リディア様。屋敷の中で何かお困りのことがあれば、どうぞ遠慮なくお申しつけください」
「ありがとうございます」
リディアは丁寧に頭を下げた。
「伯爵様にも、こうしてご案内いただいて……皆様には本当にお世話になってばかりです」
「いえいえ。どうぞお気になさらず」
ギルバートは柔らかく微笑んだ。
「閣下も、リディア様が少しでも安心して過ごせることを望んでいらっしゃるでしょうから」
「……ギルバート」
アルジェンが低く名を呼ぶ。
「おや。何かおかしなことを申し上げましたか?」
「……いや、もういい」
ギルバートは小さく笑った。
「それでは、私は先に書斎へ戻っております」
彼は二人へ一礼し、廊下を去っていった。
その背中を見送りながら、アルジェンは小さく息を吐いた。
「……まったく」
「ふふっ……仲がよろしいのですね」
リディアが微笑む。
アルジェンは少し意外そうに彼女を見た。
「……そう見えるか?」
「はい。とても」
リディアは頷いた。
「互いに信頼していらっしゃることが、よく伝わってきます」
アルジェンは一瞬、言葉を止めた。
それから、穏やかに答えた。
「……ああ。長い付き合いだからな」
少し間を置き、続ける。
「口が過ぎることもあるが、頼りになる男だ」
その言葉には、確かな信頼が込められていた。
リディアは嬉しそうに微笑んだ。
*
再び歩き始めると、アルジェンは廊下の一角にある重厚な扉を指し示した。
「ここが図書室だ」
「……図書室?」
リディアの瞳が、ぱっと輝いた。
「はい。領地の歴史や文化を記した書物も多い。興味があれば、体調が戻ってから自由に利用するといい」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、古い記録の中には傷みやすいものもあるから、持ち出す際は使用人に一声かけてくれ」
「はい!」
リディアは嬉しそうに頷いた。
「……ふふっ。楽しみが一つ増えました」
アルジェンの口元が、自然と緩んだ。
彼女が喜ぶだろうと思って教えた場所だった。
実際に、こんなにも嬉しそうな顔を見せてくれる。
それだけのことが、思いのほか嬉しかった。
「……明日以降、体調がよければ案内しよう」
「ぜひ、お願いいたします」
リディアは目を輝かせたまま答えた。
その様子に、アルジェンは静かな満足を覚えた。
*
客室棟へ向かう途中、二人は大きな窓のある小さな談話室の前を通りかかった。
「ここは、冬の間によく使われる談話室だ」
アルジェンが扉を少し開ける。
室内には柔らかな陽光が差し込み、窓辺にはいくつかの椅子が並べられていた。
暖炉には火が入り、廊下よりも幾分温かい空気が満ちている。
「まあ……素敵な場所ですね」
リディアは入り口から室内を眺めた。
大きな窓の向こうには、雪に覆われた庭が広がっている。
「ここなら、冬の間も穏やかに過ごせそうです」
「気に入ったなら、いつでも使うといい」
アルジェンは答えた。
「書斎や客室だけでは、息が詰まることもあるだろうからな」
リディアは彼を振り返った。
「……ありがとうございます、伯爵様」
その声には、心からの感謝が込められていた。
アルジェンは静かに頷いた。
「君がこの屋敷で、少しでも穏やかに過ごせているのなら嬉しい」
リディアは目を瞬かせた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……はい」
少し間を置いて、続ける。
「こちらへ来たばかりの頃は、これからどうなるのかと不安でいっぱいでした」
アルジェンは黙って耳を傾けた。
「ですが、今は……」
リディアは窓の外へ視線を向けた。
雪は静かに降り続いている。
その白さは、あの日の雪原を思い出させるものでもあった。
けれど、今は温かな部屋の中にいる。
誰かと穏やかに話し、食事を共にし、明日の予定を考えることができる。
「……明日が来るのを、楽しみに思えるんです」
その言葉は、自然にこぼれた。
アルジェンは、すぐには答えられなかった。
明日が来るのを楽しみに思える。
それは、何気ない言葉のようでいて、彼女にとっては大切な変化なのだろう。
「……そうか」
彼は静かに頷いた。
「それなら、よかった」
リディアは柔らかく微笑んだ。
「伯爵様のおかげです」
「……私は、特別なことをしたつもりはないが」
「いいえ」
リディアは首を振った。
「私にとっては、とても大きなことです」
アルジェンは、彼女の言葉を静かに受け止めた。
それ以上、何かを尋ねることはしなかった。
ただ、彼女がこうして笑えるようになったことを、素直に嬉しく思った。
「……さて」
彼は穏やかに口を開いた。
「今日はここまでにしよう。あまり長く歩き回ると、また疲れてしまう」
「はい」
リディアは素直に頷いた。
二人は談話室を後にし、客室へ向かった。
*
客室の前に着くと、リディアは丁寧に頭を下げた。
「今日は本当にありがとうございました」
「気にすることはない」
アルジェンは静かに答えた。
「道順は覚えられそうか?」
「はい。少なくとも、明日は書斎まで迷わず行けると思います」
リディアは少し得意げに微笑んだ。
アルジェンの口元が、わずかに緩む。
「それは頼もしいな」
「ふふっ……」
彼女は小さく笑った。
そして、少しだけ照れくさそうに続ける。
「……また明日、書斎でお会いできるのを楽しみにしております」
アルジェンは、ほんの一瞬、言葉を止めた。
また明日。
何気ない挨拶だった。
けれど、その言葉が不思議なほど胸に残った。
「……ああ」
彼は静かに頷いた。
「私も、待っている」
リディアは嬉しそうに微笑み、客室へ戻っていった。
扉が閉まる。
廊下には、再び静けさが戻った。
アルジェンはしばらく、その扉を見つめていた。
そして、我に返ったように小さく息を吐く。
午後の仕事が待っている。
彼はいつものように歩き出した。
ただ、書斎へ向かう足取りが、普段よりもわずかに軽くなっていることには気づかなかった。
*
書斎へ戻ると、机の上にはギルバートが届けた鉱山の報告書が置かれていた。
その傍らでは、当のギルバートが別の書類を整理している。
扉の開く音に顔を上げた彼は、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべた。
「お戻りになりましたか、閣下」
「……待たせたな、ギルバート」
アルジェンは重厚な革張りの椅子に腰を下ろした。
「報告書を確認しよう」
そう告げ、机の上の書類を引き寄せる。
ギルバートはすぐに説明を始めた。
「第三鉱山の搬出量についてですが、前月の記録と照らし合わせると、少々不自然な箇所がありまして」
「……どこだ?」
「こちらです」
ギルバートが書類の一部を指し示す。
アルジェンは視線を落とし、数字を追った。
しばらくの間、二人は報告書の内容について意見を交わした。
だが、ふとした沈黙のあと。
「……ところで、閣下」
ギルバートが何気ない調子で口を開いた。
「何だ?」
「リディア様は、屋敷に少し慣れてこられたようですね」
アルジェンは書類から目を上げずに答えた。
「……ああ。今日もよく働いてくれた」
「それは何よりです」
ギルバートは穏やかに頷いた。
「閣下も、随分と気にかけていらっしゃるようで」
アルジェンの羽ペンが、わずかに止まった。
「……客人なのだから当然だろう」
「ええ、もちろんです」
ギルバートの声には、少しも異論がなかった。
それがかえって、アルジェンには気にかかった。
「……何が言いたい?」
「いえ。ただ、閣下がご自身で屋敷を案内なさるのは珍しいと思いまして」
「彼女はまだ回復途中だ。勝手の分からない屋敷で迷わせるわけにはいかない」
「なるほど」
ギルバートは頷いた。
そして、少しだけ笑った。
「……閣下らしいお考えですね」
アルジェンは眉間に皺を寄せた。
「……お前は、何か誤解していないか?」
「さて。どうでしょう」
「ギルバート」
「失礼いたしました」
まったく反省していない声だった。
アルジェンは小さく息を吐き、書類へ視線を戻した。
しかし、ギルバートはそれ以上からかうことなく、しばらく仕事を続けた。
やがて、書類を整理しながら、ふと口を開く。
「……ですが、閣下」
「まだあるのか」
「これで最後です」
ギルバートは穏やかに微笑んだ。
「もし明日、リディア様が書斎にいらっしゃらなかったとしても、閣下は同じようにお考えになりますか?」
アルジェンの手が止まった。
「……どういう意味だ?」
「いえ。優秀な助手が一人減るだけ、ということになるのかと思いまして」
書斎が静まり返った。
アルジェンは、すぐには答えなかった。
明日、彼女が書斎に来ない。
その光景を、想像してみる。
いつも通りの朝。
机には書類が積まれ、暖炉には火が灯っている。
ギルバートが報告書を運び、自分はそれに目を通す。
これまで何年も繰り返してきた日常だ。
何も変わらないはずだった。
だが。
彼女が座っていた椅子が空いている。
記録簿を覗き込みながら、真剣に考える琥珀色の瞳もない。
そして。
――また明日、書斎でお会いできるのを楽しみにしております。
あの声も、聞こえない。
「…………」
アルジェンは、書類へ視線を落とした。
まだ、彼女と仕事を共にしたのは一日だけだ。
それなのに、明日の書斎に彼女がいないことを想像すると、どこか物足りなく感じられた。
もちろん、彼女の体調が優れないのであれば、休ませるべきだろう。
それは当然のことだ。
だが、元気な姿で書斎を訪れ、昨日の続きを話してくれたなら。
きっと、自分は嬉しく思う。
アルジェンは、その考えに少しだけ戸惑った。
「……彼女の体調次第だ」
やがて、静かに答えた。
「無理をさせるつもりはない」
「ええ」
「だが……」
そこで、言葉が途切れた。
ギルバートは何も言わず、続きを待った。
「……明日も、元気な顔を見せてくれるなら、それに越したことはない」
アルジェンは、そう言って書類へ視線を戻した。
ギルバートは一瞬、目を瞬かせた。
それから、穏やかに微笑んだ。
「……そうですね」
それ以上、何も言わなかった。
長年の付き合いだ。
主君が自分でもまだ整理できていない感情を、無理に言葉にさせる必要はない。
今はただ、その小さな変化を見守っていればいい。
「さて、第三項の数字でしたね」
ギルバートが報告書へ視線を戻す。
「こちらの搬出量についてですが――」
「ああ」
アルジェンも、書類へ向き直った。
書類をめくる音。
羽ペンの走る音。
時折交わされる、短い確認の言葉。
いつも通りの書斎だった。
いつも通りの仕事だった。
けれど、アルジェンはふとした瞬間に、窓辺の空いた椅子へ視線を向けていた。
そこに、明日は彼女が座るのだろうか。
そんなことを考えている自分に気づき、彼は静かに息を吐いた。
――仕事に集中しなければ。
そう思いながらも、胸の奥には不思議な温かさが残っていた。
*
一方、その頃。
リディアは客室の窓辺に立ち、外の雪景色を眺めていた。
今日も、雪は降っている。
この国へ辿り着いた夜と同じように。
けれど、あのときとは何もかもが違っていた。
冷たい雪原に倒れたとき、彼女は明日が来ることを願う余裕さえなかった。
ただ、寒かった。
怖かった。
もう二度と、温かな場所へ辿り着けないのではないかと思った。
それなのに今は。
暖炉の火が灯る部屋で、明日のことを考えている。
書斎へ行こう。
続きを読もう。
まだ見つけていない記録の不備があるかもしれない。
仕事が終わったら、図書室にも行ってみたい。
それから。
――伯爵様に、またお会いできる。
そう思った瞬間、リディアは小さく微笑んだ。
「……ふふ」
窓の外では、白い雪が静かに舞い続けている。
春はまだ遠い。
これから先、何が待っているのかは分からない。
それでも、彼女には一つだけ確かなことがあった。
明日を楽しみに思えるようになったこと。
そして、その理由を考えると、いつも一人の男性の顔が浮かぶこと。
リディアは窓辺から離れ、静かに寝台へ腰を下ろした。
明日も、きっとよい日になる。
そんなささやかな期待を胸に、彼女はそっと目を閉じた。
同じ屋敷の書斎では、銀灰色の髪をした伯爵が、まだ仕事と格闘している。
自分の胸に芽生えた感情の名前を、知らないまま。
雪の下では、目に見えない小さな芽が、確かに息づき始めていた。
春を待つように。
まだ誰にも知られぬ、静かな約束を抱くように。




