第三章 銀狼の知らない温もり 前編
窓の外には、相変わらず白銀の世界が広がっていた。
食堂の暖炉では薪が静かに燃え、磨き上げられた長い食卓には、温かな料理が並んでいる。
アルジェンは、目の前で黒パンを小さくちぎるリディアへ視線を向けた。
先ほどまで、二人はニヴェリスの冬の暮らしについて話していた。
雪に閉ざされる街道。
秋のうちに蓄えられる食料。
厳しい寒さを乗り越えるため、人々が長い年月をかけて培ってきた知恵。
その一つひとつに、リディアは興味深そうに耳を傾けていた。
「……伯爵様」
「何だ?」
「先ほど、このシチューは冬によく食べられるお料理だとおっしゃっていましたよね」
「ああ」
「もしかして、伯爵様もお好きなお料理なのですか?」
思いがけない問いに、アルジェンは少し考えた。
「……そうだな。好きな料理の一つだ」
「まあ、そうなのですね」
リディアは嬉しそうに微笑んだ。
「実は、私もとても気に入ってしまいました」
「それはよかった」
アルジェンの口元が、わずかに緩んだ。
「この辺りでは『カレ・ルナ』と呼ばれている。家庭によって使う肉や根菜は異なるが、長く煮込んで味を馴染ませるのが特徴だ」
「カレ・ルナ……」
リディアは初めて聞く名前を、確かめるように繰り返した。
「素敵な名前ですね」
「そうか?」
「はい。名前を知ると、ますます親しみが湧きます」
アルジェンは小さく頷いた。
「私は昔から、黒パンを浸して食べるのが好きでね」
そう言って、パンを一口分ちぎる。
大きな手で無骨な黒パンを扱う仕草にも、長年身につけた品のよさが滲んでいた。
「こうして、煮込みの汁を少し染み込ませる」
アルジェンはパンをシチューに浸してみせた。
「焼きたてのパンもいいが、少し硬くなったものでも美味しく食べられる。冬には重宝する食べ方だ」
「なるほど……!」
リディアも早速、それにならってみた。
黒パンに温かな煮込みの汁が染み込み、香ばしい麦の風味が一層引き立つ。
「……んっ!」
思わず、目を丸くした。
「美味しい……!」
その声は、考えるより先にこぼれていた。
「先ほどはそのままいただきましたけれど、こうするとまた違った美味しさがありますね」
「ああ。私はこちらの食べ方の方が好みだ」
「ふふっ……私も、こちらが好きかもしれません」
リディアはもう一口、嬉しそうにパンを頬張った。
アルジェンはその様子を見て、静かな満足を覚えた。
食べ慣れた料理を気に入ってもらえるというのは、思いのほか嬉しいものらしい。
まして、自分が好んでいる食べ方まで楽しそうに試してくれるのだから。
「……そういえば」
アルジェンはふと思いついて尋ねた。
「君の故郷では、冬にどのような料理を食べるのだ?」
リディアの手が、ほんのわずかに止まった。
しかし、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。
「……私の故郷は、こちらに比べるとずっと温暖な土地です」
「そうなのか」
「はい。海も近いので、お魚や貝を使ったお料理が多いでしょうか。冬でも比較的新鮮なお野菜が手に入りますし、香草やオリーブ油を使うことも多いですね」
アルジェンは静かに頷いた。
雪に覆われた山々とは、まるで正反対の景色だ。
彼女が話す故郷の様子を思い浮かべる。
温暖な気候。
海から届く魚介。
冬でも市場に並ぶ新鮮な野菜。
それだけでも、ニヴェリスとは随分と異なる暮らしなのだろう。
「なるほど。食材が違えば、料理も大きく変わるのだな」
「はい。特に魚介と香草を使った煮込み料理は、とても美味しいんですよ」
リディアは懐かしそうに目を細めた。
「冬になると、宮廷の料理長がよく――」
そこで、言葉が途切れた。
「……あ」
アルジェンは、彼女が急に口を閉ざしたことに気づいた。
先ほどまで柔らかく微笑んでいた表情が、わずかに強張っている。
「……リディア?」
「あ、いえ……」
リディアは慌てたように首を振った。
「故郷でいただいていたお料理を、少し思い出してしまいまして」
そう言って、取り繕うように微笑む。
「それにしても、このカレ・ルナは本当に美味しいですね!」
彼女はもう一口、シチューを口へ運んだ。
アルジェンは何も言わなかった。
――宮廷の料理長。
聞き間違いではないだろう。
彼女は確かに、そう口にした。
これまでの立ち居振る舞いや、読み書き、計算の正確さを思い返す。
領地の備蓄記録を理解し、数字の背後にある事情まで考えられる見識。
そして、何気ない会話の中でこぼれた、宮廷という言葉。
相応の教育を受けた女性であることは、すでに察していた。
だが、宮廷に関わりがあったとすれば、彼女の素性について考えるべきことは増える。
宮廷に仕える者だったのか。
あるいは、そこに出入りする立場にあったのか。
もちろん、今の一言だけでは何も分からない。
アルジェンは、リディアの横顔を見つめた。
彼女は何事もなかったかのように食事を続けている。
けれど、その指先には先ほどまでの気安さが少し失われていた。
――今は、尋ねるべきではないな。
アルジェンは静かに判断した。
彼女の過去については、無理に問わないと決めている。
今ここで問い詰めれば、ようやく和らいできた彼女の表情を、再び曇らせてしまうだろう。
それに、たとえ彼女がどのような立場にあったとしても、今はこの屋敷で保護すべき客人であることに変わりはない。
「……あの、伯爵様」
リディアがおずおずと口を開いた。
「何だ?」
「こちらでは、おかわりをいただいてもよろしいのでしょうか?」
アルジェンは一瞬、目を瞬かせた。
先ほどまでの緊張とは打って変わって、彼女の瞳には純粋な期待が宿っている。
思わず、口元が緩んだ。
「……ああ、もちろんだ」
「本当ですか?」
「ああ。むしろ、料理長にとっては君のような客人がおかわりをしてくれることこそが、何よりの褒め言葉になるだろう」
「まあ……! それでしたら、ぜひ」
アルジェンは給仕へ目配せした。
温かなシチューが、再びリディアの器へ注がれる。
「ありがとうございます」
給仕へ丁寧に礼を述べる彼女を見ながら、アルジェンは先ほどの話へ自然に戻った。
「海に近い、温暖な土地か」
リディアが顔を上げる。
「魚や貝の料理というのは、この山に囲まれた領地ではなかなか口にできない。君の話を聞いていると、少し興味が湧いてくるな」
「……そうなのですね」
「ああ。交易によって乾燥させた魚や塩漬けの魚が届くことはあるが、やはり新鮮な魚介とは勝手が違う」
リディアは小さく頷いた。
アルジェンは、彼女の表情がわずかに曇ったことに気づいた。
故郷の話をするとき、彼女はどこか懐かしそうで、同時に寂しそうでもある。
その理由は分からない。
けれど、無理に聞き出す必要はないと思った。
「……リディア」
「はい?」
「君がここでの生活に慣れ、もし気が向いたなら……いつか、その故郷の料理を料理長に教えてやってくれないか?」
リディアは目を瞬かせた。
「……故郷のお料理を、ですか?」
「ああ」
アルジェンは穏やかに頷いた。
「材料が揃うかどうかは分からないが、君が懐かしく思う味を、この屋敷でも楽しめるようにできればと思ってね」
少し間を置いて、続ける。
「もちろん、君が望むのであれば、だが」
リディアはしばらく彼を見つめていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとうございます」
その声は、先ほどよりも少し柔らかかった。
「故郷のお料理を、こちらで……」
リディアは小さく繰り返した。
「……ふふっ。素敵ですね」
アルジェンは、彼女の表情が和らいだことに安堵した。
「魚介と香草を使った煮込み料理があると話していたな」
「はい。私、とても好きだったんです」
リディアは懐かしむように目を細めた。
「家族と一緒にいただいたこともあって……」
そこで、ほんの一瞬だけ言葉が途切れた。
アルジェンは静かに彼女を見守った。
リディアはすぐに顔を上げ、微笑んだ。
「もし材料が揃うのでしたら、ぜひ料理長さんにお伝えしたいです」
「それは助かる」
「……ただ、一つ問題がございまして」
「問題?」
「はい」
リディアは至って真面目な顔で言った。
「私、お料理の作り方は詳しく存じませんの」
アルジェンが瞬きをした。
「……そうなのか?」
「はい。食べることは得意なのですけれど……」
リディアは少し恥ずかしそうに笑った。
「ですから、味見のお手伝いでしたら、きっとお役に立てると思います!」
そう言って、目の前のシチューをもう一口、美味しそうに頬張る。
「…………」
アルジェンは口元へ拳を当てた。
何かを堪えるように、肩がわずかに揺れる。
そして。
「……ふっ」
低い笑い声が漏れた。
「……くく……」
リディアは目を丸くした。
「……伯爵様?」
「いや……すまない」
アルジェンは笑いを収めようとしたが、なかなかうまくいかなかった。
「……なるほど。味見か」
ようやく落ち着くと、口元を緩めたまま続ける。
「それは確かに、料理を完成させる上で重要な役割だな」
「……そ、そうでしょうか?」
「ああ。料理の出来を判断する者がいなければ、完成とは言えないからな」
あまりにも真面目な口調だった。
けれど、その灰青色の瞳には、確かな笑みが宿っている。
リディアは少し頬を赤らめた。
それから、つられるように微笑んだ。
「ふふっ……それでは、味見役として精一杯務めさせていただきますね」
「頼もしいな」
アルジェンは静かに頷いた。
「材料の件は、料理長と相談してみよう。春になれば交易も活発になるし、保存の利く香草なら今でも手配できるかもしれない」
「まあ……!」
「君が覚えている味を伝えてくれれば、料理長も工夫してくれるだろう」
そして、少し楽しげに続けた。
「もっとも、味見役の君が納得するまでには、何度か試作が必要かもしれないが」
リディアは目を輝かせた。
「でしたら、私も精一杯お手伝いいたします!」
「……味見を、か?」
「はい!」
あまりにも迷いのない返事だったので、アルジェンは再び小さく笑った。
「……それは心強い」
リディアも、楽しそうに笑った。
アルジェンは、彼女がこんなふうに屈託なく笑う姿を初めて見たような気がした。
書斎では、落ち着いていて、慎重に言葉を選ぶ女性だった。
けれど、今は違う。
好きな料理の話をし、少し恥ずかしそうに笑い、味見役を引き受けると真面目に宣言している。
その表情は、どこか年相応の無邪気さを感じさせた。
「……私も」
アルジェンは、ふと口を開いた。
「その料理が完成したら、ぜひ一緒に味わわせてもらいたいものだ」
リディアは嬉しそうに微笑んだ。
「もちろんです」
窓の外では、雪が静かに降り続いている。
春はまだ遠い。
けれど、いつかこの雪が解ける頃には、故郷の料理をこの屋敷で味わえるかもしれない。
そんな未来を、リディアは少しだけ楽しみにしているようだった。
アルジェンは、彼女が窓の外を見つめる横顔に、穏やかな表情が浮かんでいることを嬉しく思った。
*
やがて、二人は食事を終えた。
リディアは最後の一口を味わうと、満足げに息をついた。
「……ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
給仕へ礼を述べてから、アルジェンへ向き直る。
アルジェンも静かに頷いた。
「それはよかった。料理長にも伝えておこう」
「はい。ぜひお願いいたします」
アルジェンはナプキンを置き、椅子から立ち上がった。
午後には、第三鉱山の搬出計画についてギルバートから報告を受ける予定がある。
ほかにも、確認すべき書類はいくつか残っていた。
だが、リディアには午前中で仕事を切り上げてもらうと決めている。
まだ回復したばかりの身体に、これ以上負担をかけるわけにはいかなかった。
「リディア。午後は部屋でゆっくり休むといい」
「……はい」
リディアは素直に頷いた。
しかし、少しだけ何かを言いたそうにしている。
「……どうかしたか?」
アルジェンが尋ねると、彼女は遠慮がちに微笑んだ。
「実は……一つだけ、お願いしてもよろしいでしょうか?」
「何だ?」
「私、まだこのお屋敷のことをほとんど存じませんの」
アルジェンは彼女を見つめた。
「これからしばらくお世話になるのでしたら、せめて自分の部屋から食堂や書斎までの道順くらいは、きちんと覚えておきたいと思いまして……」
リディアは少し恥ずかしそうに笑った。
「今朝も、使用人の方に案内していただかなければ、書斎まで辿り着けませんでしたから」
アルジェンの口元が、わずかに緩んだ。
確かに、この屋敷は初めて訪れた者にとって分かりやすい造りとは言い難い。
長い廊下。
幾つもの階段。
似たような扉が並ぶ客室棟。
慣れないうちは、迷ってしまうのも無理はなかった。
「もしお時間が許すようでしたら、少しだけお屋敷の中をご案内いただけませんか?」
リディアは続けた。
「もちろん、お忙しいようでしたら、使用人の方にお願いしても構いません」
そう言って、彼の返事を待つ。
アルジェンは少し考えた。
午後の仕事が待っていることは確かだ。
だが、客人が屋敷の中で不自由なく過ごせるようにすることも、主人として大切な務めだろう。
それに、書斎から食堂、客室までの道順を教える程度なら、さほど時間もかからない。
「……分かった」
アルジェンは穏やかに頷いた。
「ただし、長く歩き回るのはまだ早い。今日は君の部屋へ戻る道すがら、必要な場所だけ案内しよう」
リディアの表情が明るくなった。
「本当ですか?」
「ああ。ほかの場所は、体調が十分に戻ってからにしよう」
「ありがとうございます、伯爵様」
リディアは嬉しそうに微笑んだ。
アルジェンはその笑顔を見て、ふと午前中のことを思い出した。
仕事の話をするときの、真剣な眼差し。
料理を味わうときの、素直な喜び。
そして、故郷について語るときに、ほんの一瞬だけ見せた寂しそうな表情。
彼女には、まだ知らないことが多い。
だが、無理に尋ねる必要はない。
今はただ、ここでの暮らしに少しずつ慣れてくれれば、それでいい。
「では、行こうか」
「はい!」
アルジェンは食堂の扉を開き、リディアが廊下へ出るのを待った。
外では、白い雪が静かに降り続いていた。
長い冬は、まだ始まったばかりだった。
けれど、雪に閉ざされたこの屋敷で過ごす時間が、彼にとっても少しずつ違う意味を持ち始めていることを、アルジェンはまだ知らなかった。




