第二章 雪の下に息づくもの 後編
「……はい。では、お言葉に甘えます」
リディアが羽ペンを置くと、アルジェンも机の上の書類を整え始めた。
もっとも、その視線は未処理の書類へ何度も向けられている。
リディアはそんな彼の様子に、思わず微笑んだ。
「伯爵様は……お昼のお食事は、もうお済みなのでしょうか?」
「……ん?」
アルジェンが顔を上げた。
「いえ、もしまだでしたら……よろしければ、ご一緒にいかがですか?」
口にしてから、リディアは少しだけ恥ずかしくなった。
伯爵という立場にある彼は、きっと忙しい。
自分が気軽に誘ってよい相手なのだろうか。
けれど、今朝から一緒に仕事をしているうちに、彼ともう少し話してみたいと思うようになっていた。
アルジェンは時計を見上げ、わずかに眉を寄せた。
「……すまない。もうそんな時間か」
その様子は、どこか意外だった。
何事にも几帳面そうな彼が、時間を忘れることもあるらしい。
「君を疲れさせてしまったかもしれないな」
「いいえ。とても楽しかったです」
リディアがそう答えると、アルジェンは少しだけ目を細めた。
「……ああ、まだ食事は済ませていない。普段は仕事の合間に手早く済ませてしまうことが多いのだが……」
彼は未処理の書類へ一度視線を落とした。
そのまま仕事へ戻ることもできただろう。
しかし、リディアの顔を見て、静かに椅子を引いた。
「君が誘ってくれるなら、喜んで共にしよう」
「……本当ですか?」
「ああ。一人で食べるよりも、その方が……食事も美味しく感じられそうだ」
リディアの表情が、ぱっと明るくなった。
「ふふっ、よかったです」
アルジェンは机の上を整えると、彼女のそばへ歩み寄った。
「リディア、根を詰めすぎるのは良くない」
真面目な声だった。
「……仕事は逃げないが、温かいスープは冷めてしまうからな」
リディアは一瞬、目を瞬かせた。
それから、思わず笑みをこぼした。
「ふふ……そうですね」
なんとも彼らしい言い方だった。
「ですが、伯爵様もお仕事に夢中になると、時間を忘れてしまわれるのですね」
リディアは少し親しみを覚えながら続けた。
「……実は、私もそういうところがありまして」
「……そうか。君も私と同じで、没頭する質なのだな」
アルジェンの口元が、わずかに緩んだ。
「もっとも、私の場合はギルバートに小言を言われることも多いが」
「まあ、ギルバート様に?」
「ああ。食事を抜くな、休息を取れ、書類を抱えたまま眠るな、と」
「……書類を抱えたまま?」
リディアが目を丸くすると、アルジェンはわずかに視線を逸らした。
「……一度だけだ」
その言い方があまりにも真面目だったので、リディアはとうとう声を立てて笑ってしまった。
「ふふっ……伯爵様ったら」
アルジェンも、つられるように小さく笑った。
彼は自然な仕草で手を差し出した。
リディアはその手を見つめる。
大きな手だった。
雪原で自分を抱き上げ、凍えた身体をこの屋敷まで運んでくれた人の手。
彼女はそっと、自分の手を重ねた。
「ありがとうございます」
アルジェンの支えを借り、ゆっくりと立ち上がる。
まだ完全に回復したわけではない身体を気遣ってくれているのだろう。
そう思うと、胸の奥が少し温かくなった。
アルジェンは彼女が無事に立ち上がったのを確かめ、そっと手を離した。
雪原で見つけたときには、指先まで冷え切っていた。
それが今は、こうして自分の足で歩き、笑っている。
そのことに、改めて安堵を覚えた。
「食堂へ行こう。今日は朝から冷え込むと言っていたから、料理長に身体を温める料理を用意させよう」
「はい」
「……この土地の料理は、君には馴染みがないかもしれないが、口に合うといいのだが」
その言葉に、リディアは穏やかに首を振った。
「お料理のことでしたら、どうぞお気になさらないでください」
そして、嬉しそうに微笑む。
「私、こちらの国のことをもっと知りたいと思っているんです」
「……ニヴェリスのことを?」
「はい。ですから、お食事も楽しみです」
アルジェンは一瞬、言葉を止めた。
この土地を知りたい。
そう言われたことが、なぜだか嬉しかった。
彼にとってニヴェリスは、守るべき故郷だった。
厳しい冬も、雪に覆われた山々も、そこで暮らす人々の営みも。
そのすべてを含めて、愛する領地だった。
けれど、他国から来た者にとって、この土地は必ずしも魅力的ではないだろう。
長い冬。
閉ざされた街道。
厳しい寒さ。
それらを不便だと感じる者も少なくない。
だからこそ、リディアの言葉は彼の胸に静かに残った。
「そう言ってもらえると嬉しい」
アルジェンは穏やかに答えた。
「ニヴェリスの料理は保存食を活用したものも多く、見た目は無骨だが……厳しい冬を越すための知恵が詰まっている」
「まあ……」
「君の口に合えば、料理長も喜ぶだろう」
リディアは目を輝かせた。
食事一つにも、その土地の歴史や暮らしが表れる。
そう考えると、これから口にする料理がますます楽しみになった。
二人は並んで書斎を出た。
廊下の高い窓からは、冬の淡い光が差し込んでいる。
外の雪景色を眺めながら、リディアはふとアルジェンを見上げた。
「それに……」
「何だ?」
「一人でいただくお食事も美味しいものですが、誰かとご一緒するお食事は、また違った楽しさがありますものね」
何気ない言葉だった。
けれど、アルジェンはすぐには答えなかった。
家族や友人と食卓を囲む時間は、彼にとっても心安らぐものだった。
ギルバートと仕事の合間に食事を取りながら、他愛もない話をすることだってある。
ただ、執務に追われる平日の昼食となれば話は別だ。
書類を片手に手早く済ませ、また仕事へ戻ることも珍しくない。
だからこそ、今日のように誰かと午前中の成果を語り合いながら食事をするのは、少し新鮮だった。
「……ああ」
アルジェンは前を向いたまま、静かに答えた。
「確かに、君の言う通りかもしれない」
少し間を置き、続ける。
「仕事に追われていると、どうしても食事を後回しにしてしまうことがあってね」
「まあ……」
「だが、今日のように午前中の成果を誰かと分かち合った後の食事なら、確かにいつもとは違う味がしそうだ」
その言葉に、リディアは柔らかく微笑んだ。
「でしたら、今日はぜひ、その違いを確かめてみてくださいませ」
アルジェンは彼女へ視線を向けた。
そして、わずかに口元を緩めた。
「……そうさせてもらおう」
*
食堂の扉が開かれると、温かな料理の香りが二人を迎えた。
広々とした室内には大きな食卓が置かれ、窓から差し込む光が磨き上げられた木の表面を照らしている。
暖炉には火が入り、外の寒さを忘れさせるほど心地よい空気が満ちていた。
すでに食事の支度が整えられつつあり、煮込み料理の豊かな香りが漂っている。
「まあ……とてもいい香りですね」
リディアは思わず表情を綻ばせた。
アルジェンは自ら扉を押さえ、彼女が中へ入るのを待った。
「さあ、入ってくれ」
「ありがとうございます」
リディアは一礼して食堂へ足を踏み入れた。
アルジェンもその後に続く。
二人が席に着くと、使用人たちが手際よく料理を運んできた。
深い器には、根菜と肉をじっくり煮込んだ温かなシチュー。
その隣には、香ばしく焼き上げられた黒パンと、塩漬け野菜を使った小さな付け合わせが並べられた。
湯気とともに、豊かな香りが立ち上る。
「まあ……!」
リディアは目を輝かせた。
「とても美味しそうですね」
「この辺りでは、冬によく食べられる料理だ。根菜は長く保存できるし、塩漬けにした肉や野菜も、雪の季節には重宝する」
「なるほど……保存の工夫が、そのままお料理にも生かされているのですね」
「ああ。寒い土地では、食材を無駄にしないことも大切だからな」
リディアは興味深そうに料理を眺めた。
昨日まで書類の上で見ていた備蓄や物資の話が、こうして目の前の食卓につながっている。
そのことが、何だか面白かった。
「……いただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろんだ」
リディアはスプーンを手に取り、シチューを一口運んだ。
じっくり煮込まれた根菜は柔らかく、肉の旨味が溶け込んだ温かなスープが、身体の奥まで染み渡っていく。
「……美味しいです」
思わずこぼれた言葉に、アルジェンが顔を上げた。
「口に合ったようで何よりだ」
「はい。とても優しいお味ですね」
リディアは嬉しそうに微笑んだ。
「寒い日にいただくと、きっと格別なのでしょうね」
「ああ。外を巡回して戻ったときなどは、特にな」
「ふふっ……伯爵様は、本当にご自身で巡回なさるのですね」
「領地の様子は、できる限り自分の目で確かめたいからな」
アルジェンはそう答え、黒パンを一口食べた。
「もっとも、ギルバートにはもう少し屋敷に留まってほしいと言われているが」
「まあ、またギルバート様ですか?」
「ああ。私が外へ出るたびに、残された書類が増えると嘆いている」
リディアは思わず笑った。
「ふふっ……それは、ギルバート様のお気持ちも分かる気がいたします」
「……君までそう言うのか」
アルジェンは少し困ったように眉を寄せた。
その表情が、書斎で仕事をしていたときとは違って見えた。
領主としての厳しさではなく、親しい相手に見せるような、どこか気安い表情だった。
リディアはその違いを、少し嬉しく思った。
しばらくの間、二人は穏やかに食事を進めた。
料理の味や、ニヴェリスの冬の暮らし。
屋敷で働く人々のこと。
そんな何気ない話題が、自然と会話になっていく。
やがてアルジェンが、ふと思い出したように口を開いた。
「……そういえば、リディア」
「はい?」
「君が今日見つけてくれた、あの集落の件だが――」
そこまで言いかけて、彼は口を閉じた。
リディアが不思議そうに首を傾げる。
「……伯爵様?」
「……いや、やめておこう」
「え?」
「せっかくの食事だ。また仕事の話を始めてしまうところだった」
アルジェンは小さく息を吐いた。
「どうやら、ギルバートに注意される理由が分かってきた気がするな」
リディアは一瞬、目を瞬かせた。
それから、くすくすと笑い始めた。
「ふふっ……伯爵様は、本当にお仕事がお好きなのですね」
「……否定できそうにないな」
アルジェンも、わずかに笑った。
「ですが、私は嫌いではありませんよ」
「……何がだ?」
「伯爵様のお仕事のお話です」
リディアは穏やかに微笑んだ。
「この土地のことも、そこで暮らす方々のことも、たくさん知ることができますから」
アルジェンは、少しだけ目を見開いた。
「……そうか」
「はい。でも……」
リディアは悪戯っぽく笑った。
「今は、お料理が冷めてしまいますものね」
アルジェンは一瞬黙り、それから小さく笑った。
「……一本取られたな」
その言葉に、リディアも楽しそうに笑った。
窓の外には、変わらず白銀の世界が広がっていた。
春はまだ遠い。
けれど、書斎で始まった小さな信頼は、今度は食卓へと場所を移していた。
仕事を共にすること。
同じ料理を味わうこと。
何気ない会話を交わすこと。
それらは、どれも特別な出来事ではない。
だが、人と人との距離を変えていくのは、案外こうしたささやかな時間なのかもしれなかった。
アルジェンは、目の前で楽しそうに食事をするリディアへ視線を向けた。
彼女がこの屋敷へ来てから、まだほんのわずかな時間しか経っていない。
それなのに、いつもと変わらないはずの昼食が、今日は少し違って感じられる。
その理由を、彼はまだ深く考えてはいなかった。
リディアもまた、同じだった。
今はただ、目の前にいる人と食事を共にできることが嬉しい。
そして、自分の言葉を真剣に聞いてくれる人がいることが、何よりありがたかった。
雪に閉ざされた屋敷で、二人の時間は静かに流れていく。
やがてその日々が、互いにとってかけがえのないものへと変わっていくことを、まだ誰も知らない。




