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第二章 雪の下に息づくもの 前編

 翌朝、リディアはいつもより少し早く目を覚ました。


 窓の外には、相変わらず雪が降り続いている。


 空は薄い灰色に覆われ、庭木の枝には白い雪がこんもりと積もっていた。


 これほど深い雪に囲まれた暮らしにも、いつか慣れる日が来るのだろうか。


 そんなことを考えながら、リディアはそっと寝台から身を起こした。


 昨日まで身体を支配していた重苦しさは、随分と和らいでいる。まだ無理はできないものの、歩くことに支障はなさそうだった。


 何より、今日は楽しみにしていた約束がある。


 ――明日の朝、君が書斎の扉を叩くのを……楽しみに待っている。


 アルジェンの言葉を思い出すと、自然と口元が緩んだ。


「……ふふ」


 誰もいない部屋で、小さな笑みがこぼれる。


 昨夜、あの言葉を思い返しながら眠りについたことを思い出し、リディアは少しだけ頬を赤らめた。


 仕事を手伝う。


 ただ、それだけのことだ。


 けれど、今の彼女にとっては、それが何よりも嬉しかった。


 ほんの少し前まで、明日の予定を考える余裕などなかった。


 ただ目の前の一日を無事に終えること。


 それだけで精一杯だった。


 けれど、今は違う。


 自分にも、誰かの役に立てることがあるかもしれない。


 そう思えるだけで、胸の奥が少し温かくなった。


 リディアは寝台から降り、身支度を整えた。


 朝食を済ませると、使用人に案内されて屋敷の奥へと向かう。


 長い廊下には、磨き上げられた木の床が続いていた。壁には領地の風景を描いた絵画が飾られ、窓から差し込む淡い光が、その額縁を静かに照らしている。


 屋敷の中は暖かかった。


 外では厳しい冬が続いているというのに、ここには穏やかな時間が流れている。


 リディアはふと、昨日アルジェンが語っていた領地の仕事を思い出した。


 雪に閉ざされた集落。


 冬を越すための備蓄。


 鉱山で働く人々。


 この屋敷の暖かさも、誰かの仕事によって守られているのだ。


 そんなことを考えているうちに、書斎の前へ辿り着いた。


 重厚な扉の向こうから、二人の男性が話す声が聞こえる。


「……第三鉱山の搬出量については、こちらの数字が――」


「いや、それでは人員の配置が合わない。もう一度確認が必要だ」


 聞き覚えのある低い声。


 アルジェンだ。


 どうやら、すでに仕事を始めているらしい。


 リディアは一度呼吸を整え、扉を控えめに二度叩いた。


「……失礼いたします。ヴォルフェルト伯爵様、リディアです」


 室内の話し声が止まった。


「昨日のお約束の件で参りましたが……今、お時間はよろしいでしょうか?」


 数秒の沈黙のあと、落ち着いた声が返ってきた。


「……入ってくれ」


 リディアはそっと扉を押し開けた。


 その先に広がっていた光景に、思わず目を見開く。


 天井の高い、広々とした書斎だった。


 壁一面を埋め尽くす書架には、革表紙の古い書物や羊皮紙の巻物が整然と収められている。


 部屋の中央には大きな樫の机が置かれ、その上には広げられた地図と、几帳面に積み上げられた書類の山。


 暖炉では薪が静かに燃え、部屋全体を心地よい温もりで満たしていた。


 その机の向こうに、アルジェンが立っていた。


 銀灰色の髪に、冬空を思わせる灰青色の瞳。


 昨日と変わらぬ落ち着いた佇まいだったが、手にした書類を見つめる表情には、領主としての厳しさが宿っている。


 そして、その傍らにはもう一人の男性がいた。


 赤みがかった褐色の髪に、柔和な顔立ち。


 年の頃は三十代前半ほどだろうか。


 アルジェンよりも親しみやすい雰囲気をまとったその男性は、リディアの姿を認めると、興味深そうに目を瞬かせた。


「……来たか」


 アルジェンが顔を上げる。


 その表情が、ほんのわずかに和らいだ。


「体調はどうだ?」


「おかげさまで、昨日よりずっとよくなりました」


 リディアは微笑んで答えた。


「本日はよろしくお願いいたします、伯爵様」


「ああ。こちらこそ頼む」


 アルジェンは手元の書類を整えると、傍らの男性へ視線を向けた。


「ギルバート。この方はリディア。先日、雪原で保護した方だ」


「おや」


 ギルバートと呼ばれた男性が、わずかに眉を上げた。


「では、伯爵が仰っていた例の方ですね」


「ああ。今日から、無理のない範囲で仕事を手伝ってもらうことになった」


「……仕事を、ですか?」


 ギルバートは一瞬、アルジェンを見つめた。


 その視線には、明らかに驚きが含まれていた。


 人助けそのものは、アルジェンにとって珍しいことではない。


 だが、保護したばかりの客人を書斎へ招き、領地の仕事を任せるとなれば話は別だ。


 長年仕えてきたギルバートにとっても、意外な判断だった。


「……なるほど。伯爵がそこまで仰るとは」


 ギルバートは何やら納得したように頷いた。


「何か言いたそうだな」


「いえいえ。伯爵の人を見る目には、日頃から感服しておりますので」


「……その言い方は、どうにも信用ならんな」


「おや、心外ですね」


 ギルバートは涼しい顔で微笑んだ。


 二人のやり取りに、リディアは思わず小さく笑ってしまった。


 アルジェンは軽くため息をつくと、改めて彼女へ向き直った。


「紹介が遅れたな。こちらはギルバート・ローゼン。私の側近で、長い付き合いの友人でもある」


 ギルバートは一歩前へ進み、丁寧に一礼した。


「ギルバート・ローゼンと申します。伯爵の側近を務めております」


「リディアと申します。どうぞよろしくお願いいたします」


「こちらこそ。お初にお目にかかります、リディアさん」


 ギルバートは親しみやすい笑みを浮かべた。


「伯爵から伺っていましたが、大変な目に遭われたそうで……お加減はよろしいのですか?」


「はい。おかげさまで、随分と――」


「……ギルバート」


 リディアが答えようとしたところで、アルジェンが静かに口を挟んだ。


「彼女の体調については私が確認している。無理はさせないつもりだ」


「これは失礼しました」


 ギルバートは軽く肩をすくめた。


「では、私は第三鉱山の搬出計画を片づけるとしましょうか」


「ああ。鉱夫長から正確な人数の再確認を取ってくれ。午後には戻れるな?」


「承知しました。……それにしても伯爵、今朝は随分と手際がよろしいことで」


「いつも通りだ」


「ええ、ええ。そういうことにしておきましょう」


「……ギルバート」


「はいはい、分かりました」


 ギルバートは慣れた様子で書類を抱えた。


 その口調には、主従というより長年の付き合いを感じさせる気安さがある。


「それでは、リディアさん。また後ほど」


「はい。よろしくお願いいたします」


 リディアが微笑むと、ギルバートは軽く会釈し、書斎を出ていった。


 扉が閉まる。


 広い部屋には、暖炉の薪が爆ぜる音だけが残った。


 *


「……さて」


 アルジェンはリディアへ向き直った。


 机の向かい側に置かれた椅子を引き、座るよう促す。


「昨日話した通り、昨年の備蓄記録と今年の配分計画の照合を頼みたい」


 彼は三冊の革装丁の記録簿を机の上に並べた。


「これは、個人情報や機密事項を除いた集落ごとの備蓄記録だ。数字に間違いがないか確認してくれればいい」


「承知いたしました」


「分からない箇所があれば、遠慮なく聞いてくれ」


 リディアが椅子に腰を下ろすと、アルジェンはその隣に羽ペンとインク瓶を置いた。


 そして、自身も執務机へ戻ろうとしたところで、ふと手を止める。


「……それから、一つ言っておくことがある」


 声の調子が、少しだけ変わった。


 リディアは顔を上げる。


「君の素性については、今は問わない」


 その言葉に、リディアの表情がかすかに揺れた。


 アルジェンは彼女を真っ直ぐに見つめた。


「だが、この仕事に関わる以上、記録の数字一つが領民の命に関わる。だからこそ、正確さだけは約束してほしい」


 暖炉の火が、二人の間で静かに揺れている。


「……それが守られる限り、私は君を信用する」


 リディアは、しばらく何も言わなかった。


 信用。


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。


 けれど、アルジェンは無条件にすべてを信じると言っているわけではない。


 責任を果たすこと。


 誠実であること。


 その約束を守る限り、自分を信用すると言っているのだ。


 それは、領主としての厳しさであり、一人の人間に向けた敬意でもあった。


 リディアは静かに背筋を伸ばした。


「……はい。お約束いたします」


 琥珀色の瞳に、凛とした光が宿る。


「数字の向こうには、そこで暮らす人々の生活があるのですよね」


 アルジェンの表情が、わずかに変わった。


「でしたら、決して軽い気持ちで扱うことはいたしません」


 彼女は真っ直ぐに彼を見つめた。


 その声には、迷いがなかった。


 アルジェンは短く頷く。


「……ああ。それでいい」


 リディアは記録簿へ視線を落とした。


「それでは、拝見いたします」


 最初に確認したのは、三冊それぞれの年度と記載内容だった。


 昨年の備蓄量。


 今年の配分計画。


 各集落へ届けられる予定の食料や物資。


 一つひとつの数字を照らし合わせ、必要に応じて計算を書き出していく。


 アルジェンは自身の書類へ視線を戻したが、ときおりリディアの様子を確かめていた。


 彼女の手際は、思いのほかよかった。


 ただ数字を追うだけではない。


 記録の意味を理解し、その背景にある事情まで考えようとしている。


 その姿に、アルジェンは静かな感心を覚えた。


 やがて、リディアの羽ペンが止まった。


「……伯爵様」


「何だ?」


「一つ、確認してもよろしいでしょうか」


 アルジェンが顔を上げる。


 リディアは記録簿の一箇所を指し示した。


「こちらの集落ですが、昨年と今年で配分量がほとんど変わっていないように見えます」


「……ふむ」


「集落の人口や、冬の間に必要となる物資の量に、大きな変化はなかったのでしょうか?」


 彼女は慎重に言葉を選んだ。


 誤りを指摘したいわけではない。


 ただ、確かめたかった。


「数字が合っていても、暮らしている方々の状況が変わっていれば、必要な量も変わるのではないかと思いまして……」


 アルジェンは、しばらく彼女を見つめていた。


 そして、短く息を吐く。


「……鋭い問いだ」


 彼は立ち上がり、壁の書架から一枚の羊皮紙を取り出した。


 領内の集落ごとの人口と世帯数を記した台帳だった。


「この集落は山間の小規模な村落で、昨年の記録では十二戸、三十四人だった」


 アルジェンの指が、羊皮紙の上を滑る。


「だが、今年の秋に若い夫婦が一組移り住んでいる」


「……若いご夫婦が?」


「ああ。鉱山で働くために移り住んだ者たちだ」


 アルジェンは台帳の注記を確かめた。


「現在は十三戸、三十六人。人口台帳には反映されているが……」


 彼は机の上の配分計画へ視線を戻した。


「……こちらは、以前の数字のままだな」


 リディアは、改めて記録簿へ目を落とした。


 昨年と同じ人数を前提とした配分量。


 昨年とほぼ同じ物資の内訳。


 計算そのものに誤りはない。


 けれど、その数字が現実を正しく表しているとは限らないのだ。


「……移住の届け出が、計画の確定後に届いたのでしょうか?」


「おそらくな」


 アルジェンは静かに頷いた。


「冬の備蓄計画は秋の早い段階でまとめる。だが、実際の移住や出生、病人の増減などは、その後も起こり得る」


 彼は記録簿を指で軽く叩いた。


「本来なら、街道が閉鎖される前に最新の人口台帳と照合するべきだった。どうやら、その確認が行き届いていなかったらしい」


 リディアは小さく頷いた。


「……つまり、記録の数字は正しくても、実際に必要な量は不足している可能性があるのですね」


「ああ。その通りだ」


 アルジェンは羽ペンを取り、記録簿の余白に短く書き込んだ。


 ――要再確認・移住世帯一件追加。


「この集落には、冬の間も物資を届けられる補助路がある。天候を見て、必要な分を追加で手配しよう」


 彼は書き終えると、顔を上げた。


「……君の言う通りだ。数字が合っていても、それが現実と合っていなければ意味がない」


 そして、率直に言った。


「私の見落としだった」


 リディアは驚いたように目を瞬かせた。


 伯爵という立場にある男性が、自分の見落としをこれほど率直に認めるとは思わなかった。


「……伯爵様」


「どうした?」


「いえ……」


 リディアは少し迷ったあと、微笑んだ。


「ご自身の見落としを、すぐに認められるのですね」


 アルジェンは不思議そうに彼女を見た。


「当然だろう。私の面子より、領民が無事に冬を越せるかどうかの方が大切だ」


 あまりにも自然な答えだった。


 リディアは一瞬、言葉を失った。


 やがて、ふっと表情を和らげる。


「……そうですね」


 その声には、どこか安堵したような響きがあった。


 アルジェンは記録簿を閉じず、そのままリディアの前へ戻した。


「この調子で、残り二冊も確認してくれ。気になる箇所はすべて指摘して構わない」


 そして、わずかに表情を和らげた。


「……君に任せて正解だったようだ」


 リディアの胸に、温かなものが広がった。


「……ありがとうございます」


 自然と笑みがこぼれる。


「少しでもお役に立てたのでしたら、何よりです」


 それは、心からの言葉だった。


 自分の知識が、誰かの役に立った。


 自分の気づきによって、寒い冬を過ごす人々の暮らしが、少しでも守られるかもしれない。


 そのことが、何より嬉しかった。


 リディアは再び記録簿へ視線を戻した。


 アルジェンもまた、自身の仕事へと向き直る。


 ときおり、互いに言葉を交わした。


 記録の意味を確かめ、数字を照合し、疑問があれば相談する。


 それは、決して華やかな時間ではなかった。


 ただ、書類を読み、考え、確かめる。


 そんな地道な作業の繰り返しだった。


 けれど、不思議と退屈ではなかった。


 むしろ、時間が経つのを忘れてしまうほどだった。


 やがて、窓から差し込む光の角度が変わった。


 遠くから、昼を告げる鐘の音が響いてくる。


 リディアは羽ペンを止め、顔を上げた。


「……あら?」


 壁の時計へ視線を向ける。


 思っていた以上に時間が経っていることに気づき、思わず小さく笑ってしまった。


「……もう、お昼なのですね」


 アルジェンも顔を上げた。


 リディアは少し照れくさそうに微笑む。


「ふふっ……すっかり夢中になってしまいました」


 アルジェンは机の上の書類を見渡した。


 リディアが確認した記録簿には、細かな注記がいくつも書き添えられている。


 どれも、数字だけを見ていては気づきにくい点ばかりだった。


「……そのようだな」


 彼は小さく笑った。


「だが、初日から働きすぎるのは感心しない。今日はここまでにしよう」


「えっ、ですが……」


「続きは明日でもできる。君はまだ回復したばかりだ」


 リディアは少し名残惜しそうに記録簿を見つめたが、やがて素直に頷いた。


「……はい。では、お言葉に甘えます」


「ああ。それがいい」


 暖炉の火が、静かに揺れていた。


 窓の外では、相変わらず雪が降り続いている。


 だが、書斎の中には、朝とは少し違う空気が流れていた。


 まだ互いのことを、ほとんど知らない。


 アルジェンはリディアの過去を知らず、リディアもまた、彼がどのような人生を歩んできたのかを知らない。


 それでも、二人は確かに一つのものを共有し始めていた。


 誰かの暮らしを守りたいという、同じ願いを。


 それは、雪の下で静かに根を伸ばす、小さな芽のようなものだった。


 今はまだ、誰の目にも見えない。


 けれど、いつか春が訪れたとき。


 その芽は、きっと思いがけない花を咲かせるのだろう。

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