第一章 白銀の邂逅 後編
「……その通りだ」
アルジェンは、リディアの問いに静かに頷いた。
「秋の終わりまでに各集落の備蓄を確認し、不足分を運び込む。だが、どれほど計算しても、予期せぬ事故や病は起こる。だからこそ、冬の合間の巡回が欠かせないのだ」
暖炉の薪が、ぱちりと小さな音を立てた。
窓の向こうには、どこまでも続く白銀の世界が広がっている。降り積もった雪は庭木の枝を重たげにしならせ、遠くの山々を淡い灰色の空へと溶け込ませていた。
リディアは両手でスープの器を包み込みながら、アルジェンの話に耳を傾けていた。
彼が語る領地の仕事は、実に多岐にわたっていた。
山々から採掘される希少なニヴェリア鉱石。その品質と取引価格の管理。鉱夫たちの労働環境や安全の確認。
それだけではない。
雪深いこの土地では、街道の維持も、食料の配分も、領民から寄せられる陳情への対応も、すべてが人々の命に直結していた。
アルジェンはそれらを、淡々と、しかし確かな誇りをもって語った。
「私はじっとしているのが苦手でね。暇があれば自ら馬を出し、雪に埋もれた集落がないか見回っている」
彼は手元のハーブティーを一口飲んだ。
「……昨日のように、雪原で倒れている者を見つけるのも、ある意味では私の『巡回』という仕事の結果だ」
リディアは思わず微笑んだ。
「……伯爵様にとっては、私を助けてくださったことも、お仕事の一つなのですね」
「そういうことになるな」
アルジェンは真面目な顔で頷いた。
「もっとも、昨日のような発見は、できれば二度とない方がいい。君も、あのような無茶は控えてくれるとありがたい」
「……はい。ご心配をおかけしました」
リディアは申し訳なさそうに目を伏せたが、すぐに小さく笑った。
その表情を見て、アルジェンもわずかに口元を緩める。
彼女が昨日よりずっと落ち着いていることに、ひとまず安堵した。
「それにしても……」
リディアは窓の外へ目を向けた。
「雪で道が閉ざされる土地では、冬が来る前からこれほど多くの準備が必要なのですね」
「ああ。備蓄が不足すれば、春を待つことすら難しくなる集落もある」
「では、食料だけでなく、薪や薬なども……?」
「もちろんだ。特に薬は不足してからでは遅い。各集落の人口や前年の使用量をもとに、必要な分を見積もっている」
リディアは感心したように目を輝かせた。
雪に閉ざされた土地にも、人々の営みがある。
むしろ、厳しい自然の中だからこそ、領主の判断一つが大きな意味を持つのだろう。
彼女の問いは、単なる世間話とは少し違っていた。
街道が閉ざされる。
ならば、物資はどう届けるのか。
不足が生じたときは、どう対処するのか。
そうした自然な思考の中に、領地を治めるうえで欠かせない視点があった。
アルジェンは、そんな彼女を興味深く見つめた。
「……君は、こうした話が好きなのか?」
「え?」
「鉱山の管理や備蓄の計画など、退屈に感じる者も少なくないからな」
リディアは少し考えたあと、穏やかに微笑んだ。
「……人々の暮らしが、どのように支えられているのかを知るのは、とても興味深いことだと思います」
「そうか」
「それに、伯爵様のお話を伺っていると……この土地で暮らす方々の姿が、少しずつ見えてくるような気がするのです」
その言葉に、アルジェンはわずかに目を細めた。
彼女は単に数字や制度に興味を示しているのではない。
その先にいる人々の暮らしを想像しているのだ。
「謝る必要はない」
アルジェンが言うと、リディアは不思議そうに顔を上げた。
「先ほど、仕事について尋ねすぎたと気にしていただろう?」
「あ……はい」
「むしろ、そこまで想像が及ぶ者は少ない。君は……どうやら、物事の本質を見る目を持っているようだな」
「……私が、ですか?」
「ああ」
彼は迷いなく答えた。
リディアは少し戸惑ったように瞬きをした。
これまでにも、彼女の知識や考えを評価してくれる人はいただろう。
しかし、目の前の男性は彼女の経歴を何も知らない。
ただ言葉を聞き、その考えを認めた。
リディアはしばらく黙っていたが、やがて静かに微笑んだ。
「……ありがとうございます。そう言っていただけて、嬉しいです」
その声は、先ほどより少し柔らかかった。
アルジェンは椅子から立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
降り続く雪を一度眺め、それから振り返る。
「まずはその食事を終え、今日は一日ゆっくりと休むといい」
「はい」
「それから……明日の朝、もし君の体調が許すなら、書斎へ来ないか?」
リディアは目を瞬かせた。
「……書斎、ですか?」
「ああ。昨年の備蓄記録と、今年の配布計画の照らし合わせを手伝ってもらいたい。もちろん、差し支えのない資料からだが」
アルジェンは穏やかに続けた。
「君のその『気付き』があれば、私の見落としも見つかるかもしれない」
思いがけない申し出だったのだろう。
リディアの顔が、ぱっと明るくなった。
「……本当ですか?」
声が弾んだ。
しかし、その喜びはすぐに小さなためらいへと変わった。
「ですが……私のような素性も分からない者に、大切なお仕事を任せていただいてもよろしいのでしょうか」
彼女は膝の上で、そっと指を重ねた。
その表情には、嬉しさと戸惑いが入り混じっていた。
アルジェンは、そんな彼女の懸念を否定するように首を振った。
「素性がどうあれ、君が今ここで私の言葉を理解し、領民の暮らしに関心を寄せたことは事実だ」
リディアが顔を上げる。
「私は自分の眼識を信じている。それに……仕事に貴賤も国境もないというのが、私の持論でね」
彼の言葉は飾り気がなかった。
アルジェンにとって、仕事を任せるかどうかは、相手の肩書だけで決まるものではない。
何を考え、どのように行動するか。
それを見極めることもまた、人の上に立つ者の務めだと考えていた。
「もちろん、最初から難しい仕事を頼むつもりはない。君の体調を見ながら、無理のない範囲で構わない」
「……ありがとうございます」
リディアは深く微笑んだ。
「身体が回復しましたら、ぜひお手伝いさせてください」
「ああ。だが、無理は禁物だ」
アルジェンは念を押す。
「君が『誰かの役に立ちたい』と願うなら、私はそれを尊重しよう。それが、この屋敷で君が健やかに過ごすための薬になるのであればな」
リディアは、その言葉を聞いて静かに目を伏せた。
「……誰かの、役に……」
小さく繰り返した声は、暖炉の音に紛れそうなほどだった。
アルジェンは彼女の返事を急かさなかった。
やがてリディアは、何かを確かめるようにゆっくりと頷いた。
「……はい。私にもできることがあるのなら、嬉しいです」
その微笑みは控えめだったが、先ほどよりも晴れやかに見えた。
彼女は残っていたスープを口に運んだ。
温かな食事に、自然と頬が緩む。
「……ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
器を置き、改めてアルジェンへ微笑みかける。
「伯爵様も、お忙しいのでしょう? どうか私のことはお気になさらず、お仕事にお戻りください」
そのときだった。
客室の扉が、控えめに叩かれた。
「――アルジェン様、こちらにおいでですか?」
廊下から聞こえてきたのは、親しみを含んだ男性の声だった。
「第三鉱山の搬出計画の件で、至急確認いただきたい書類が……」
アルジェンは小さくため息をついた。
「……どうやら、仕事の方が私を放っておいてくれないらしい」
リディアは思わず微笑んだ。
「ふふ……本当に、お忙しいのですね」
「騒がせてすまない。側近のギルバートだ。悪い奴ではないが、少々声が大きくてな」
彼の言い方には、長年の付き合いを感じさせる気安さがあった。
リディアはまだ会ったことのない側近の姿を想像したのか、少しだけ楽しそうに笑った。
アルジェンは扉へ向かった。
しかし、取っ手に手をかけたところで足を止める。
「……リディア」
「はい?」
振り返った彼の灰青色の瞳は、先ほどまで仕事を語っていたときより、どこか柔らかかった。
「今日はもう一度眠るんだ」
「……はい」
「明日の朝、君が書斎の扉を叩くのを……楽しみに待っている」
リディアは、わずかに目を見開いた。
アルジェンはそれ以上何も言わず、静かに客室を出ていった。
扉の向こうから、側近の声が聞こえる。
「お疲れのところ申し訳ありません、伯爵」
それに応えるアルジェンの低い声。
二人の足音は、やがて廊下の奥へと遠ざかっていった。
再び、静寂が訪れる。
リディアはしばらく、閉じられた扉を見つめていた。
「……楽しみに、ですか」
ぽつりと呟く。
その言葉を、もう一度胸の中で繰り返してみた。
明日を楽しみにする。
それは、本来なら何でもないことのはずだった。
けれど、いつからだろう。
彼女にとって、明日は楽しみにするものではなくなっていた。
夜が明けた先に何が待っているのか、考えるだけで胸が苦しくなる。
ただ今日を無事に終えること。
それだけで精一杯だった。
だが、今は。
明日の朝には、書斎へ行く約束がある。
自分にできることがあり、それを待ってくれている人がいる。
それだけで、明日というものが少し違って見えた。
「……私も、楽しみです」
誰もいない部屋で、リディアは小さく微笑んだ。
窓の外では、雪が降り続いている。
春はまだ、遠い。
それでも、白く閉ざされた世界のどこかで、何かが少しずつ変わり始めているような気がした。
リディアは毛布を引き寄せ、ゆっくりと横になる。
今夜は、きっとよく眠れるだろう。
明日の朝、あの人にもう一度会える。
そう思いながら、彼女は静かに目を閉じた。
――雪に閉ざされた異国の屋敷で、リディアは初めて、明日が来ることを待ち遠しいと思った。




