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第一章 白銀の邂逅 前編

 ニヴェリス王国の冬は、あらゆるものを白く閉ざす。


 山々は厚い雪をまとい、国境へ続く街道は人の往来を拒む。ひとたび吹雪が始まれば、見慣れた道でさえ容易に姿を失った。


 そんな季節にもかかわらず、アルジェン・ヴォルフェルトは領内の巡回を欠かさなかった。


 ヴォルフェルト伯爵家の当主として、この地に暮らす人々の安全を守ること。それが彼の務めであり、何よりも誇りとしている仕事だった。


 銀灰色の髪に雪を受けながら、アルジェンは馬を進める。


 普段なら誰も通らないはずの街道に、見覚えのない蹄の跡を見つけたのは、そのときだった。


「……馬?」


 彼は手綱を引き、足跡を確かめた。


 この先の街道は、すでに閉鎖されている。冬のニヴェリスを知る者なら、決して進もうとはしない道だ。


 それでも、雪の上には確かに新しい蹄跡が残されていた。


 アルジェンは迷わず、その跡を追った。


 やがて吹雪の向こうに、一頭の馬が見えた。馬は落ち着かない様子で鼻を鳴らし、雪原の一点から離れようとしない。


 その先に、人が倒れていた。


「……っ!」


 アルジェンは馬から降り、雪を踏みしめて駆け寄った。


 倒れていたのは、若い女性だった。


 雪の上に広がる艶やかな黒髪。ニヴェリスでは見慣れない衣服と、南方の人間を思わせる温かな色合いの肌。


 だが、今はその肌から血の気が失われていた。


 アルジェンは膝をつき、女性の呼吸を確かめる。


 ――生きている。


 かすかな息を感じ取った瞬間、彼はすぐに女性を抱き上げた。


 身体は驚くほど冷え切っていた。


 何者なのか。なぜこの季節に、閉ざされた国境を越えようとしたのか。


 疑問はいくつも浮かんだが、今は考えるべきことではなかった。


 彼女を生かすことが先決だ。


 アルジェンは女性を連れて屋敷へ戻り、医師を呼んだ。


 診察の結果、命に別状はないという。ただし、極度の寒さと疲労によって衰弱しており、しばらく安静が必要だった。


 アルジェンは彼女を客室で休ませるよう命じた。


 名前も素性も分からない異国の女性。


 それでも、雪原に倒れていた彼女を見捨てるという選択肢は、彼には初めからなかった。


 *


 薪の爆ぜる音が、静かな部屋に響いていた。


 女性が目を覚ましたとき、最初に見えたのは見知らぬ天井だった。


 身体は鉛のように重く、頭の奥にはまだ鈍い痛みが残っている。


 けれど、寒くはなかった。


 柔らかな寝具に包まれ、暖炉の火が室内を穏やかに照らしている。


 彼女がゆっくりと視線を巡らせていると、傍らから低い声が聞こえた。


「……目が覚めたか」


 視線を向けると、一人の男性が椅子から立ち上がるところだった。


 銀灰色の髪に、冬空を思わせる灰青色の瞳。背が高く、引き締まった体格の男性だった。


 彼は寝台へ近づいたものの、彼女を警戒させないよう、少し離れた場所で足を止めた。


「無理に起きなくていい。医師から、しばらく安静にするよう言われている」


 落ち着いた声だった。


「ここはヴォルフェルト伯爵邸だ。私はアルジェン・ヴォルフェルト。この領地を預かっている」


 伯爵という言葉を聞いて、女性はわずかに目を見開いた。


 アルジェンは彼女が状況を理解するまで、急かさずに待った。


「……話せそうなら、名前を聞いても?」


 女性は小さく息を吸った。


「……リディア、と申します」


「リディア……か」


 アルジェンは確かめるようにその名を繰り返し、一度頷いた。


「良い名だ」


 思いがけなかったのか、リディアは瞬きをした。


「急に声をかけて済まなかった。まだ意識が混濁しているかと思ったが、自分の名を言えるのなら、ひとまずは安心だな」


 そう言うと、彼は暖炉へ視線を向けた。


「君を雪原で見つけたとき、身体は氷のように冷え切っていた。今は少しでも温まっているといいのだが」


「……雪原……」


 リディアは小さく呟いた。


 何かを思い出したのか、その表情が一瞬こわばる。


 アルジェンは彼女の様子を見守ったが、無理に言葉を促すことはしなかった。


「君が乗っていた馬も、厩舎で休ませている」


「……馬も、無事なのですね」


 思わず声が漏れたようだった。


 アルジェンは頷く。


「ああ。今は暖かい藁の上で飼葉を食べている。安心していい」


「よかった……」


 リディアはほっと胸を撫で下ろした。


 その表情から、先ほどまでの緊張が少し和らいだように見えた。


 それから、改めて目の前の男性へ向き直る。


「助けてくださったのは、あなたなのですね。……ありがとうございます、ヴォルフェルト伯爵。私だけでなく、馬まで」


 アルジェンの表情が、ほんの少し和らいだ。


「礼はいい。……喉は渇いていないか?」


「……お水を、いただいてもよろしいでしょうか」


 彼は水差しから杯へ水を注ぎ、リディアが受け取りやすいように差し出した。


 リディアは両手で杯を受け取り、ゆっくりと水を飲んだ。


 やがて杯を返すと、窓の外へ目を向けた。


 そこには、一面の雪景色が広がっていた。


「ここは……もう、ニヴェリスなのですね」


「そうだ。ニヴェリス王国のヴォルフェルト領だ」


 アルジェンは空になった杯を置いた。


「だが、今の時期は世界から切り離されたようなものだ。主要な街道は雪で閉ざされ、春が来るまで隣国へ戻ることも難しい」


「……春まで?」


 リディアの声が、かすかに揺れた。


 アルジェンはその変化を見逃さなかった。


 彼女は『もう、ニヴェリスなのですね』と言った。


 少なくとも、自分が国境を越えたことは理解しているらしい。


 なぜ、閉鎖された街道を通ろうとしたのか。そこには、何か事情があるのだろう。


 だが、彼は問い詰めなかった。


「君がどうしてあの街道にいたのか、聞きたいことはある。だが、それは体力が戻ってからでいい」


 リディアが顔を上げる。


「今は、自分が安全な場所にいると理解してくれれば十分だ」


 あまりにも迷いのない言葉だった。


 アルジェンは続ける。


「私はこの領地を預かる者だ。領民の安全を守ることも、迷い込んだ客人の面倒を見ることも、私の役割だからな」


 そして、彼女を真っ直ぐに見つめた。


「君の身の安全は、このアルジェン・ヴォルフェルトが保証しよう」


 リディアは息を呑んだ。


 しばらく言葉を探すように唇を動かしていたが、やがて小さく頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 深く頭を下げようとしたものの、身体が思うように動かなかったらしい。


 アルジェンは無理をしないよう促し、必要なものがないか尋ねた。


 毛布は足りているか。


 誰かへ連絡する必要はないか。


 その最後の問いに、リディアの表情がわずかに曇った。


「……いいえ。連絡は……必要ありません」


 膝の上で、両手をそっと握り合わせる。


 アルジェンはその仕草を見ていた。


 しかし、何も言わなかった。


 彼女が話したくないのであれば、今はそれでいい。


 無理に事情を聞き出したところで、信頼が生まれるわけではないのだから。


 しばらく沈黙が続いたあと、リディアはおずおずと口を開いた。


「……あの、伯爵様」


「何だ?」


「春まで街道が閉ざされているというのは……本当なのでしょうか」


「ああ。残念ながら」


 アルジェンは静かに答えた。


「峠は雪崩の危険がある。無理に越えようとすれば、今度こそ命を落とすことになるだろう」


「それでは私……」


 リディアは言葉を詰まらせた。


 その視線が窓の外へ向けられる。


 雪は静かに降り続いていた。


「……これから、どうすれば……」


 か細い声が、暖炉の音に紛れそうになる。


 アルジェンは少し考え、まるで当然の結論を述べるように言った。


「答えは一つだ」


 リディアが顔を上げる。


「春が訪れ、雪が解けるまで、この屋敷に留まるといい」


「……え?」


「空き部屋も蓄えも十分にある。君を追い出す理由はない」


 あまりにもあっさりと告げられたためか、リディアはしばらく呆然としていた。


「……本当に、よろしいのですか……?」


「もちろんだ」


 アルジェンは暖炉の薪を整えながら答えた。


「君が何者なのかは、いずれ聞くことにしよう。だが、今の君の仕事は休むことだ」


「……仕事、ですか?」


「ああ。体力を戻し、この屋敷での生活に慣れる。それが当面の仕事になる」


 彼は至って真面目だった。


「私の領地では、働かざる者は食うべからずという言葉があるが、病人は例外だ」


 リディアは思わず目を瞬かせた。


 そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 アルジェンはその微笑みに気づき、自分もわずかに表情を和らげた。


「君が健康を取り戻すまで、ここは君の家だと思ってくれて構わない」


「……家……」


 リディアはその言葉を、確かめるように繰り返した。


 琥珀色の瞳がわずかに揺れる。


 その表情に何が込められているのか、アルジェンにはまだ分からなかった。


 ただ、彼女がその一言を大切に受け止めたことだけは伝わってきた。


「……ありがとうございます、伯爵様」


 リディアはゆっくりと言った。


「今は……お言葉に甘えさせていただきます」


「ああ。それがいい」


 しばらくすると、リディアは眠そうに目を伏せ始めた。


「……すみません。なんだか、急に眠くなってしまって……」


「無理もない。ゆっくり休むといい」


 リディアは毛布を引き寄せた。


「……おやすみなさい、伯爵様」


「ああ。おやすみ、リディア」


 その声を最後に、彼女はゆっくりと目を閉じた。


 暖炉の火が静かに揺れている。


 やがて規則正しい寝息が聞こえ始めると、アルジェンはそっと立ち上がった。


 廊下に出た彼は、控えていた使用人に彼女の体調が変わればすぐ知らせるよう命じ、自らは書斎へ向かった。


 片付けるべき仕事は、まだ山ほどある。


 けれど今夜、雪の中で見つけた一人の女性が無事に眠っていることだけは、確かだった。


 *


 翌朝。


 吹雪は幾分弱まり、窓の外には白銀の世界が広がっていた。


 アルジェンが客室の扉を叩くと、中から小さな返事があった。


「失礼する。……目覚めたか、リディア」


「はい。おはようございます、伯爵様」


 返事を聞いて入ってきたアルジェンは、温かな食事の載った盆を手にしていた。


 スープと黒パン、それに香りのよいハーブティー。


「気分はどうだ。少しでも胃に入れておいた方がいい」


「ありがとうございます」


 リディアが礼を述べると、彼は椅子を引いて腰を下ろした。


「昨夜の話だが、君が連絡は必要ないと言った理由を深く追及するつもりはない。ただ、ここで数か月を過ごすことになる以上、君に何ができるのかは知っておきたい」


「私に、できること……?」


「例えば、文字の読み書きはできるか。手仕事の心得は?」


 アルジェンは少し考えてから続けた。


「体力が戻ったら、図書室を使ってもいい。望むなら、私の仕事を手伝ってもらっても構わない」


「……お仕事、ですか?」


 リディアの琥珀色の瞳が、ぱっと輝いた。


 思わず身を乗り出しかけたものの、まだ本調子ではない身体がそれを許さず、慌てて姿勢を正す。


「あ……失礼いたしました」


 アルジェンは彼女の反応を、少し意外そうに眺めた。


「文字の読み書きはできますし、計算や書類の整理なども、多少は心得がございます。それに……他国の言葉も、いくつかでしたら」


 そこまで言って、リディアはふと口をつぐんだ。


 何かを言いかけたようにも見えたが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべる。


「……ですが、まずは身体を治さなくてはいけませんね」


 そう言って、スープを一口飲んだ。


「……おいしい」


 自然と頬が緩む。


 アルジェンはそれを見て、満足そうに頷いた。


「読み書きだけでなく、計算や語学までできるのか。それは心強いな」


 そして、自分の仕事について話し始めた。


 ニヴェリスの山々から採れる希少なニヴェリア鉱石のこと。


 採掘現場で働く人々の安全を守り、品質や取引価格を管理すること。


 冬の間は、街道の維持や食料の配分にも細心の注意が必要になること。


 領民から寄せられる陳情にも、できる限り自ら目を通していること。


 語るうちに、アルジェンの灰青色の瞳には静かな熱が宿っていった。


 リディアは、その様子を興味深く見つめていた。


「……伯爵様は、本当に領地のことを大切にしていらっしゃるのですね」


 心からの言葉に聞こえた。


 アルジェンはわずかに目を細める。


「そう言ってもらえるのは嬉しい」


「鉱山のお仕事だけでも大変でしょうに、冬の間は食料や交通のことまで……」


 リディアは少し考えた。


「……雪で道が閉ざされてしまう集落には、冬が来る前に必要な物資を届けておくのでしょうか?」


 それは、ただの世間話ではなかった。


 彼女の瞳には、領地の仕組みを知ろうとする真剣な好奇心が宿っていた。


 アルジェンは、そんな彼女を改めて見つめる。


 雪原で倒れていた、素性の分からない異国の女性。


 その女性が今、自分の仕事について、こんなにも熱心に尋ねている。


 彼女は一体、どのような人生を歩んできたのだろう。


 疑問は深まるばかりだった。


 しかし、不思議と急いで答えを知りたいとは思わなかった。


 窓の外では、まだ雪が降っている。


 春が訪れるまでには、長い時間がある。


 その間に少しずつ、彼女のことを知っていけばいい。


 アルジェンはそう考え、リディアの問いに答えるため、静かに口を開いた。


 ――こうして、雪に閉ざされた屋敷での二人の暮らしが始まった。


 それがやがて、互いの人生を大きく変えることになるとは、まだどちらも知らなかった。

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