後日談 春の雫
春の終わりを告げる風が、ヴォルフェルト伯爵邸の庭を吹き抜けていた。
木々は青々と葉を茂らせ、花壇には色とりどりの花が咲いている。遠くの山々に残る雪も、日ごとに小さくなっていた。
アルジェンとリディアは、夫婦としての日々を重ねていた。
朝には共に食卓を囲み、昼にはそれぞれの仕事へ向かう。夕刻、仕事が長引いているときには、リディアが執務室へ顔を出した。
もちろん、彼女の方が資料へ夢中になり、アルジェンに休憩を促される日もある。
茶を飲みながら、その日あったことを話す。
天気のよい日には庭を歩き、昨日まで蕾だった花が開いたことを喜ぶ。
かつて二人が楽しみにしていた時間は、今では暮らしの中にあった。
リディアは、よく笑った。
窓辺で手紙を読むときも、厨房から届いた菓子を見つけたときも。アルジェンが仕事を早く切り上げたと知ると、少し驚いたあとで、嬉しそうに微笑む。
その顔を見ることが、彼にとっても日々の楽しみになっていた。
そんな、ある日の午後だった。
*
執務室の扉が叩かれた。
「閣下。お届けしたいものがございます」
「入ってくれ」
ギルバートは、一通の封筒を手に入ってきた。
「ルミエラからの私信です。宛名は閣下へ。差出人は、イネヴィア・パピリア殿下となっています」
アルジェンの手が止まった。
差し出された封筒を見る。
整った宛名と、蝶の紋章を刻んだ封蝋。
その名を見ただけで、聴取室での出来事が思い出された。
卓上に並んだ公文書。リディアが震えながら伝えた想い。そして、妹の名を呼んだ女性の泣き声。
「封は、開けていないな」
「はい。届いたままです」
アルジェンは頷き、自分宛ての封を開いた。
中には、短い手紙と、もう一通の小さな封書が入っていた。
小さな封筒には、こう記されている。
――リディアへ。
彼は指先を止めた。
まず、自分へ宛てられた便箋を開く。
『ヴォルフェルト伯爵へ。
妹宛ての手紙を同封いたします。
受け取ることが負担になるのであれば、読むことを勧めないでください。返事も、許しも求めていないと、お伝え願います。
このようなことを貴殿へお願いできる立場ではないと、承知しています。
それでも、あの子がどのように暮らしているのかを案じずにはいられません。
幸せにしていると聞きました。
その知らせに、安堵しました。
イネヴィア・パピリア』
アルジェンは、しばらく便箋を見つめていた。
何を伝えたいのか。
リディア宛ての封書の中に、どのような言葉があるのか。
今は分からなかった。
窓の外へ目を向けると、花壇の傍に妻の姿が見えた。庭師と何か話したあと、小さく笑っている。
あの顔を曇らせたくないと思った。
けれど、彼女が何を受け取り、何を読まないかを、自分が先に決めることはできない。
アルジェンは二通の手紙を揃えた。
「リディアに、届いたことを伝えよう」
ギルバートが頷く。
「それがよろしいかと。今すぐ読む必要も、ないのですから」
「ああ」
彼は、封の開いていない小さな封筒へ目を落とした。
「選べるようにしておこう」
*
庭園には、柔らかな陽射しが降り注いでいた。
リディアは花壇の前で、風に揺れる花を眺めていた。
「……綺麗に咲きましたね」
小さく呟いたとき、聞き慣れた足音が近づいてきた。
「リディア」
振り返ると、アルジェンが立っていた。
彼女は微笑んだ。
「お仕事は、もう終わられたのですか?」
「まだ少し残っている。君に、届け物があってな」
その手にある封筒へ、視線が向く。
見慣れた筆跡だった。
リディアの笑みが、ゆっくりと消えた。
「……お姉様から、ですか」
「ああ。私宛ての手紙に、君への封書が同封されていた」
アルジェンは、二通を分けて見せた。
「君宛てのものは、開けていない。私への手紙には、返事も許しも求めていないと書かれている」
リディアは黙って聞いていた。
「受け取るかどうかも、いつ読むかも、君が決めてくれ。今は見たくなければ、そのまま預かっておける」
差し出された封筒を、しばらく見つめる。
蝶の紋章。
幼い頃から目にしてきた、故郷の印。
懐かしさと共に、胸の奥へ冷たいものが広がった。
姉と別れた日の声は、今も覚えている。
リディアは、ゆっくりと手を伸ばした。
「……受け取ります」
封筒は、思っていたよりも軽かった。
「私に、届いたことを教えてくださって、ありがとうございます」
アルジェンは頷いた。
「どうしたい?」
リディアは紙の端へ指を添えた。
「少し、怖いです」
正直に答える。
「また傷つくのではないかと思います。でも……読みたいとも、思っています」
彼は何も急かさず、待っていた。
リディアは庭園の奥へ目を向けた。木陰に、二人でよく座る長椅子がある。
「……あちらで、読んでもよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
「それから、そばにいてくださいますか」
アルジェンの表情が和らいだ。
「ああ」
彼女は小さく息を吐き、彼と共に歩き始めた。
*
長椅子に腰を下ろしても、リディアはしばらく封筒を持ったままだった。
アルジェンは隣に座り、庭へ視線を向けている。
手元を覗き込むことも、読むように促すこともしなかった。
リディアは、その横顔を見た。
今は開けないと言っても、この人は頷いてくれるのだろう。
そう思うと、少し肩の力が抜けた。
封を切り、便箋を取り出す。
見慣れた文字が並んでいた。
幼い頃、姉の書斎で幾度も見た、端正な筆跡。
リディアは、静かに読み始めた。
*
リディアへ。
この手紙を書くまでに、何度も紙を替えました。
謝罪の言葉なら、いくらでも知っているはずなのに、あなたへ何を伝えればよいのか、分からなくなりました。
私は、あなたを政務から遠ざけるため、事実ではない告発の資料を作るよう命じました。
あなたの言葉を聞き、確かめる機会も奪いました。
その責任を、ライゼンベルクだけに負わせることはできません。
私がしたことです。
ごめんなさい。
これを書いたからといって、あなたの受けた苦しみが軽くなるとは思っていません。
返事も、許しも求めません。
正式な手続きで説明を求められることには、私自身が答えていきます。
私は、あなたを妬んでいました。
皆があなたの意見に耳を傾けるたび、私が積み重ねてきたものを否定されたように感じていました。
けれど、それは、あなたを傷つけてよい理由ではありませんでした。
あなたが幼い頃、私の後ろをついて歩いていたことを覚えていますか。
転ぶと、泣きながら私の手を探していましたね。
私は、あなたに頼られることが嬉しかった。
新しい言葉を覚えると、真っ先に話しに来てくれたことも。
私の隣で、難しい本を分かったふりをして読んでいたことも。
覚えています。
あの頃の気持ちまで、なかったことにはできません。
あなたが聴取室で伝えた言葉を、何度も思い返しています。
私は、あなたにあのような言葉を言わせるほど、傷つけたのですね。
新しい場所で、幸せに暮らしていると聞きました。
その知らせを受けて、安堵しました。
リディア。
どうか、自分の望む暮らしを大切にしてください。
私を気遣うために、返事を書く必要はありません。
あなたがこれから何を選ぶとしても、私がそれを求めたり、責めたりすることはしません。
あの庭園で私の手を握っていた、小さなあなたのことを、私は覚えています。
イネヴィア・パピリア
*
最後の一行を読み終えると、文字がぼやけた。
リディアは瞬きをした。
涙が便箋へ落ちそうになり、慌てて紙を少し離す。
アルジェンが布を差し出してくれた。
受け取って目元を押さえながらも、ある一文から目が離せなかった。
――私は、あなたに頼られることが嬉しかった。
幼い自分は、姉の後ろを追いかけていた。
転んで泣くと、イネヴィアは少し困ったような顔をした。それでも、手を差し伸べてくれた。
その温もりを覚えている。
姉も、覚えていた。
「……お姉様……」
声が漏れた。
アルジェンは隣にいた。
リディアが落ち着くまで、何も尋ねなかった。
しばらくして、彼女は顔を上げた。
「一緒に、読んでいただけますか」
「いいのか」
「はい。読んでいただきたいです」
便箋を渡すと、彼は丁寧に受け取った。
読み進める間、眉がわずかに動くことはあったが、何も口にはしなかった。
最後まで読み終え、リディアへ返す。
「……どんな気持ちになった?」
彼女は、すぐには答えられなかった。
便箋の縁を撫でながら、言葉を探す。
「悲しいです」
アルジェンが頷いた。
「してしまったことを、今は分かっていらっしゃるのなら……どうして、あのときはと思ってしまいます」
姉の謝罪を読んでも、あの日の孤独は消えなかった。
王宮で話を聞いてもらえなかったこと。
誰を信じればよいか分からなくなったこと。
それらは、今も自分の中にある。
「でも……それだけではないんです」
リディアは目元を押さえた。
「少し、嬉しかったんです。私がついて歩いていたことを、嬉しいと思ってくださった時期もあったのだと分かって……」
声が小さくなる。
「こんなふうに思っても、いいのでしょうか」
「もちろんだ」
アルジェンは答えた。
「悲しかったことを、取り消す必要はない。嬉しかった言葉まで、拒まなくてもいい」
リディアは彼を見つめた。
「今、許せるかどうかを決めなくてもいいのだろう?」
その問いに、ゆっくりと頷く。
「……はい」
便箋へ視線を戻した。
姉は、覚えていた。
難しい本を分かったふりをして読んでいたことまで。
その一節を思い出すと、涙の中で、小さな笑みが浮かんだ。
「本当は、半分も分かっていなかったんです」
「本のことか?」
「はい。でも、お姉様と同じことをしていたくて」
アルジェンの口元も緩んだ。
リディアは便箋を両手で持ち直す。
「全部、偽りだったわけではないのですね」
彼は、彼女の手へそっと触れた。
「君が覚えている温もりは、大切にしていいと思う」
リディアは目を閉じた。
昔へ戻れるとは思わない。
これから姉と、どのような関係になれるのかも分からない。
それでも、幼い日の自分が嬉しかったことまで、否定しなくてよかった。
*
アルジェンは、自分へ届いた短い手紙についても伝えた。
リディアが見たいと答えると、便箋を渡す。
彼女は読み終え、二通を並べた。
「……お姉様も、何を書けばよいのか、迷われたのですね」
「そのように書かれているな」
アルジェンは静かに答えた。
姉が今、どこまで変わったのか。
手紙だけで、それを知ることはできない。
リディアも、すべてを信じなければならないとは思わなかった。
ただ、届いた言葉を、今の自分がどう受け取ったかは分かる。
「この手紙は、しまっておこうと思います」
彼女は便箋を丁寧に折り畳んだ。
「お返事は、まだ書けません。何を伝えたいのか、自分でもよく分からないので」
「ああ」
「いつか書きたくなるかもしれませんし、ならないかもしれません」
「そのとき、考えればいい」
リディアは、安堵したように息を吐いた。
返事をしなければならないわけではない。
姉が悲しんでいないかを、今すぐ確かめる役目も、自分にあるわけではない。
手紙を受け取ったことと、関係を戻すことは別だった。
リディアは封筒へ便箋を戻した。
「ありがとうございます、アルジェン様」
「私は、隣に座っていただけだ」
彼女は小さく首を振る。
「それが、心強かったんです」
アルジェンが彼女を見た。
「一人で読まなくてもいいと思えたから、封を開けられました」
彼の表情が和らぐ。
「……そうか」
リディアは彼の腕へ身を寄せた。
しばらく、二人で庭を眺めた。
木々の葉が風に擦れ、柔らかな音を立てている。
やがてリディアが、ぽつりと言った。
「私、ここで暮らしていきたいです」
アルジェンが顔を向けた。
「お姉様への返事としてではなく、今、自分が思っていることです」
彼女は彼を見上げた。
「あなたと仕事をして、お茶を飲んで。忙しい日は、もう少し休みましょうと申し上げて……」
「それは、私から言う日もあるな」
リディアは笑った。
「はい。そのときは、素直に聞くようにいたします」
「期待している」
「アルジェン様も、ですわよ」
彼も微笑んだ。
リディアは封筒を膝へ置き、彼の手を取った。
「そんなふうに、これからも暮らしていきたいのです」
「私もだ」
アルジェンは迷わず答えた。
「これからも、君と暮らしていきたい」
その返答が、嬉しかった。
姉の言葉で揺れた心が、すぐに落ち着くわけではない。
それでも、自分が今望んでいることは、確かめられた。
リディアは彼の肩へ頭を預けた。
「……愛しています、旦那様」
アルジェンの指が、彼女の手を包み直した。
「私も愛している」
少し間を置いて、彼が言う。
「茶を飲もうか」
リディアは顔を上げた。
「お仕事は、よろしいのですか?」
「少し休むつもりで、庭へ来たことにする」
「まあ」
彼女はくすりと笑った。
「では、その後は、私も手伝います」
「頼もう。君に確かめてほしい集計がある」
二人は長椅子から立ち上がった。
リディアは封筒を大切に持ち、夫と並んで屋敷へ向かった。
*
その夜、リディアは机の上の小箱を開いた。
深い色の木肌に、雪の結晶を思わせる彫刻。
蓋の中央には、小さなニヴェリア鉱石が嵌め込まれている。
工房を訪れた日に、アルジェンが贈ってくれたものだった。
窓辺に置くか、机に置くかと迷った末、毎日目に入るこの場所を選んだ。
箱の中には、結婚式で使われた小さな花飾りが収められていた。
リディアは、その傍らへ姉の手紙を置いた。
封筒の大きさを確かめ、無理に押し込まず、少し位置を整える。
蓋を閉じる前に、もう一度便箋を取り出した。
昼間は涙で読みづらかった一節を、静かに読み返す。
――あの庭園で私の手を握っていた、小さなあなたのことを、私は覚えています。
リディアは、その文字を見つめた。
「……私も、覚えています」
小さく呟いた。
手を引かれて歩いた庭園。
転んだ自分へ差し出された手。
その記憶と、後に起きたことを、どちらも抱えている。
今夜、答えを出す必要はなかった。
便箋を折り、封筒へ戻す。
箱へ収め、そっと蓋を閉じた。
そのとき、扉が叩かれた。
「リディア。そろそろ休まないか」
アルジェンの声だった。
「はい。今、参ります」
彼女は立ち上がった。
机の上には、手紙を収めた小箱がある。
明日、また読みたくなるかもしれない。
しばらく開かないかもしれない。
どちらでもよかった。
リディアは燭台を手に取り、扉を開けた。
夫が顔を上げ、手を差し出してくれる。
その手を取る前に、彼女は燭台を渡した。
「持っていただけますか?」
「ああ」
空いた手を重ねると、アルジェンが微笑んだ。
二人は並んで、廊下を歩き始めた。
窓の外では、春の終わりの風が木々を揺らしていた。
リディアは、その音に少し耳を澄ませた。
そして、隣を歩く夫へ、明日の茶の時間のことを尋ねた。
『雪解けの誓い』を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
雪原で出会ったアルジェンとリディアが、少しずつ互いを知り、共に生きることを選ぶまでのお話でした。
二人にとって大切だったのは、大きな約束だけでなく、一緒にお茶を飲んだり、その日の出来事を話したりする、何気ない時間だったのだと思います。そんな日々が積み重なって、いつしか相手の隣が「帰りたい場所」になっていく。その変化を楽しんでいただけていたら嬉しいです。
そして、個人的に胸に残っているのが、イネヴィアとリディアの姉妹です。
姉のしたことは、簡単に許されるものではありません。それでも、幼い妹へ差し伸べた手や、頼られて嬉しかった気持ちまで、嘘だったとは思いたくありませんでした。大切に思っていた時間があったからこそ、二人のすれ違いは、書いていても切ないものでした。
後日談では、すべてを許して元どおりになるのではなく、届いた言葉を受け取って、その先は急いで決めなくてもいい。そんな余韻を残したいと思いました。
さて、アルジェンとリディアは、これからもきっと一緒にお茶を飲み、仕事に夢中になってはお互いに休憩を勧めるのでしょう。
そしてギルバートは、相変わらず絶妙なところで現れる気がします(笑)
どんな冬が訪れても、二人で春を迎えられますように。
ここまで彼らの歩みを見届けてくださり、本当にありがとうございました。




