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第十四章 雪解けの誓い 最終章

 春は、音もなく訪れるものだと思っていた。


 けれど、ニヴェリスの春は違った。


 屋根から滴る雪解け水の音。


 凍っていた川が、流れを取り戻す音。


 庭園へ戻ってきた小鳥たちの声。


 冬のあいだ静まり返っていた世界が、日ごとに賑やかさを増していく。


 ヴォルフェルト伯爵邸の庭でも、花々が次々と開いていた。木々の若葉を揺らす風には、柔らかな土の香りが混じっている。


 リディアは、開けた窓の傍に立っていた。


 左手の薬指には、淡い氷青色の宝石が輝いている。


 雪の雫。


 春の庭園で、アルジェンから贈られた婚約の証。


 あのときも、彼と共に生きたいと願っていた。


 けれど、偽りの嫌疑から解放され、皆に祝福されながら結婚の準備を進める日が来るとは、まだ思い描けなかった。


 リディアは指輪へ触れ、窓の外を見た。


「……ずいぶん、暖かくなりましたね」


「そうだな」


 背後から声がした。


 振り返ると、アルジェンが立っていた。


 銀灰色の髪に、朝の光が降り注いでいる。以前と変わらない端正な顔立ちだったが、リディアを見る灰青色の瞳は柔らかかった。


「南の丘では、花が咲き始めたそうだ。もう少しで、見頃になる」


「以前、お話しくださった場所ですね?」


「ああ。君と見に行く約束をしただろう」


 リディアは微笑んだ。


「楽しみにしております」


「私もだ」


 アルジェンは隣へ来て、彼女の手を取った。


「式の準備に追われて、忘れてしまわないようにしなければな」


 その言葉に、頬が温かくなる。


 結婚式。


 招待客や衣装について話すたび、少しずつ実感が増していた。


 アルジェンの妻になる。


 その未来を、自分で選んだのだ。


「……はい」


 リディアが頷くと、彼も微笑んだ。


「どちらも、大切な約束だからな」


 *


 結婚の準備が進むある日、伯爵邸に一人の青年が訪れた。


 栗色の髪を整え、緊張した面持ちで応接室へ入ってくる。


 リディアの姿を認めた途端、彼は足を止めた。


「……リディア殿下……!」


「ルーカス様?」


 ルーカス・フォン・ヴァイスベルク。


 彼女の逃亡を助けたエドガーの息子であり、エルデンフェルトで法学を学ぶ、二十二歳の青年だった。


 父から事情を知らされ、訪問を願う手紙を寄越していた。


 名誉回復の知らせを受けたエドガーは、息子へ、リディアの逃亡を助けた経緯と、今はヴォルフェルトで無事に暮らしていることを伝えたのだった。


 ルーカスは、深く頭を下げた。


「お会いできて、本当によかった……」


 顔を上げた瞳に、涙が浮かんでいた。


 リディアは彼へ席を勧めた。


「遠くまでお越しくださって、ありがとうございます」


「こちらこそ、お時間をいただき、ありがとうございます」


 腰掛けても、青年の背筋は伸びたままだった。


「父から、ようやく詳しい話を聞きました。宮廷で何があったのかも、父が殿下をお逃がししたことも……僕には、ずっと分からなかったのです」


 リディアは頷いた。


「エドガー様には、本当に助けていただきました。お元気でいらっしゃると伺って、安心いたしました」


「父も、殿下のご無事を知って、心から喜んでいました」


 ルーカスは少し表情を和らげた。


 それから、膝の上で手を握る。


「実は、春先に、北方の輸送計画について噂を聞いたのです。伯爵邸に滞在する女性が、帰りの荷車を使う案を出したと」


「まあ……」


「興味深い仕組みだと思い、父へ送る手紙に書き添えました。それが殿下のことだったとは、知らずに……」


 彼は目を伏せた。


「父は、その話を読んで、もしかしたらと思ったそうです。僕も、もっと早く確かめられていたら……」


 リディアは首を振った。


「お名前も分からない噂でしたもの。私だとお分かりにならなくても、当然ですわ」


「ですが……」


「どうか、ご自分を責めないでください」


 穏やかに、けれどはっきりと伝える。


「あなたが悪かったことなど、何もありません。それに、そのお手紙は、エドガー様に希望を届けてくださったのでしょう?」


 ルーカスが顔を上げた。


「今、こうしてお会いできたことを、私は嬉しく思っています」


 リディアは微笑んだ。


「輸送計画にも興味を持ってくださったのですね」


「はい。商館で聞いてから、積載条件や契約の組み方を考えていました。冬季の輸送は、費用だけでは判断できませんから……」


 話し始めた青年の声から、少しずつ緊張が薄れていく。


 リディアも頷き、試験運用の際に確かめたことを話した。


 悪天候時の運行停止。荷車ごとの重量制限。御者と馬の休息。


 アルジェンは、向かいの席からそのやり取りを聞いていた。


 ルーカスは問いを重ね、リディアは自分の関わった仕事を説明している。


 もう、謝罪だけのための訪問ではなくなっていた。


 *


「……伯爵閣下」


 ひと通り話したあと、ルーカスはアルジェンへ向き直った。


「どうしても、お礼を申し上げたいことがあります」


「何だろう」


 青年は深く頭を下げた。


「リディア殿下を助けてくださって、本当にありがとうございました」


 その声が震えた。


「父の手紙で、雪原で倒れていたところを発見されたと知りました。もし、あのとき……」


 言葉が続かなかった。


 アルジェンは、しばらく青年を見つめた。


「私も、彼女を見つけられてよかったと思っている」


 それから、隣に座るリディアへ視線を向ける。


「あの日、救ったのは確かだ。だが、その後の暮らしと未来を選んだのは、彼女自身だ」


 リディアは彼を見上げた。


「私だけではない。君の父上も、屋敷の者たちも、多くの人が力を貸した。その中で、彼女は自分にできることを探し、ここまで歩いてきた」


 アルジェンはルーカスへ向き直った。


「父上には、私からも感謝を伝えてほしい。容易な決断ではなかったはずだ」


「……はい。必ず、伝えます」


 ルーカスは目元を拭った。


 アルジェンが茶器へ目を向ける。


「今日は客人だ。少し、肩の力を抜いてくれ」


「努力します……」


「努力が要るのか」


「銀狼と呼ばれる伯爵閣下を前にして、緊張しないというのは……」


 言いかけて、ルーカスは口を押さえた。


「失礼いたしました!」


 リディアが小さく笑う。


 アルジェンも、わずかに口元を緩めた。


「構わん。茶が冷める前に、飲んでくれ」


 *


 帰る前に、ルーカスはもう一度二人へ向き直った。


「それから、ご婚約、誠におめでとうございます」


 今度は、明るい声だった。


「お二人のご結婚と、末永いお幸せを、心よりお祈り申し上げます」


「ありがとうございます」


 リディアは少し頬を染めた。


 アルジェンへ目を向け、微笑む。


「私、とても幸せです」


 その言葉を聞き、ルーカスは安堵したように笑った。


「父にも、そのようにお伝えします。きっと、何より喜びます」


 青年は丁寧に礼を述べ、伯爵邸を後にした。


 見送ったあと、リディアは玄関先で息を吐いた。


「お会いできて、よかったですわ」


「ああ。真摯な青年だな」


 アルジェンも頷く。


「学んだことを、役立てようとしている」


 リディアの表情が柔らかくなった。


 ルミエラで、彼のような若者が未来について考えている。


 そのことを、嬉しく思った。


 今の自分の暮らしを選んでも、祖国の人々が幸せであってほしいという願いまで、捨てる必要はなかった。


 アルジェンが彼女の手を取った。


「彼には、もう一つ感謝しなければならないな」


「もう一つ、ですか?」


「ああ」


 彼は、少し照れくさそうに視線を落とす。


「君の婚約者として祝福されるのは……嬉しいものだな」


 リディアは彼を見つめた。


 それから、笑みを深くする。


「私もです」


 彼の腕へ、そっと寄り添った。


「あなたと結婚できることが、本当に嬉しいです」


 アルジェンが肩を抱き寄せる。


 そのとき、応接室へ続く廊下から足音がした。


「閣下。少々、お時間をいただけますか」


 ギルバートだった。


 アルジェンは顔を向ける。


「何だ」


「結婚式の準備について、ご報告を」


 ギルバートの視線が、寄り添う二人へ留まった。


「……また、頃合いを誤りましたかな」


 リディアの頬が赤くなる。


 アルジェンは小さく息を吐いた。


「いや。今、聞こう」


「それは何よりです」


 三人は応接室へ戻った。


 ギルバートは、手にしていた書類を卓上へ広げる。


「招待客の調整、礼拝堂の装飾、衣装の手配、いずれも順調です」


 リディアの瞳が輝いた。


「ありがとうございます」


「残る懸念は、新郎ご本人でしょうか」


 アルジェンの眉が動く。


「……何?」


「当日、リディア様のお姿をご覧になって、言葉を失われるのではないかと」


 リディアが思わず笑った。


 アルジェンはギルバートを見た。


「余計な心配だ」


「では、そのお言葉を信じております」


 楽しそうな返答に、アルジェンはそれ以上何も言わなかった。


 ただ、卓の上に置かれたリディアの手へ、自分の手を重ねた。


 *


 式を控えた、よく晴れた日。


 二人は、約束していた南の丘を訪れた。


 斜面には小さな白い花が咲き揃い、風が通るたびに、緩やかな波のように揺れていた。


 遠くには、雪を残す山々が見える。


 リディアは、しばらく言葉もなく眺めていた。


「……なんて綺麗なのでしょう」


「毎年、ここに花が咲くと、春が来たと思う」


 アルジェンが隣で言った。


「だが、今年は、いつもより長く見ていたくなる」


 彼がこちらへ顔を向ける。


「君と一緒だからだろうな」


 リディアの胸が温かくなった。


「私も、覚えていたいです」


 彼の腕に手を添える。


「今日の景色も、こうして二人で見たことも」


 アルジェンは頷いた。


 風が、二人の髪を揺らす。


 少し離れた場所では、雪解け水が細い流れを作っていた。


 リディアは彼の手を取り、花々へ目を戻した。


 今度の春も、その次の春も。


 こうして景色を見ながら、今日のことを話せたらいい。


 その願いを、自然に思い描くことができた。


 *


 そして、結婚式の日が訪れた。


 ヴォルフェルト伯爵邸の礼拝堂には、白い花と淡い青のリボンが飾られていた。


 窓から差し込む光が、磨き上げられた長椅子を照らしている。


 親しい者たちや、招かれた領民が席に着き、扉の開くときを待っていた。


 祭壇の前には、アルジェンが立っていた。


 正装の襟元に乱れはない。姿勢も、いつもと変わらず端正だった。


 けれど、その視線は何度も入口へ向けられていた。


「……閣下」


 隣のギルバートが、声を落とす。


「そんなに緊張なさらなくても」


「していない」


「そうですか」


 ギルバートは微笑んだ。


 アルジェンは返事をせず、もう一度扉を見た。


 その横顔を見て、ギルバートの声が少し柔らかくなる。


「本当に、おめでとうございます」


 アルジェンが顔を向けた。


 旧友の瞳には、心からの祝福があった。


 彼はゆっくりと頷く。


「……ありがとう、ギルバート」


 ギルバートは一瞬だけ目を丸くしたあと、穏やかに笑った。


「どういたしまして」


 *


 礼拝堂に隣接する控えの間で、リディアは深呼吸をしていた。


 純白のドレスには、繊細な刺繍が施されている。柔らかなベールが黒髪を包み、手にした白い花の香りが、かすかに届いた。


 左手の雪の雫が、光を受けて輝いている。


 その指輪を見ていると、春の庭園で交わした言葉が思い出された。


 身分を隠していたことも、祖国を逃れた理由も、すべて打ち明けた。


 それでも、彼は手を離さなかった。


 リディアは鏡の中の自分を見つめた。


 胸の鼓動は速い。


 けれど、この先へ進むことを、怖いとは思わなかった。


 扉の向こうには、アルジェンがいる。


 自分が共に生きたいと願った人が、待っている。


 ふと、あの冬のことを思い出した。


 白い雪原。冷たい風。遠ざかっていく意識。


 次に目を開けたとき、傍には暖炉があった。


 知らない部屋で、彼の声を聞いた。


 ――無理に起きなくていい。


 あのときは、助かったことさえ、すぐには理解できなかった。


 そこから、一日ずつ暮らしてきた。


 仕事を覚え、皆と言葉を交わし、彼と茶を飲む時間を楽しみにするようになった。


 悲しいこともあった。


 けれど、嬉しいことも、たくさんあった。


 リディアは指輪へ触れた。


 そして、花を持ち直す。


 これからも、その人と日々を重ねたい。


 その気持ちを胸に、扉へ向かった。


 *


 礼拝堂の扉が開かれた。


 アルジェンは、息を呑んだ。


 純白の花嫁衣装をまとったリディアが、そこに立っていた。


 ベールの向こうで、琥珀色の瞳が彼を見つける。


 少し緊張した顔に、微笑みが浮かんだ。


 アルジェンは言葉を失った。


 暖炉の前で安堵したように笑った彼女。


 資料へ真剣に向き合い、工房の再開を喜んだ彼女。


 涙を流しながら、それでも自分の言葉で問いかけた彼女。


 その日々の先に、今の姿があった。


 ギルバートは彼の横顔を見て、小さく微笑んだ。


 今度は、何も言わなかった。


 リディアは歩き始めた。


 長椅子に座る人々が、温かな眼差しを向けてくれる。


 マルタの姿も見えた。


 目が合うと、彼女は笑いながら、すでに目元を押さえていた。


 リディアも微笑み返し、祭壇へ進んだ。


 やがて、アルジェンの前へ辿り着く。


 彼が手を差し出した。


 リディアは花を預け、その手を取った。


 少し震えているのは、自分だけではないように思えた。


「……リディア」


 彼が名を呼ぶ。


 顔を上げると、灰青色の瞳がまっすぐに見つめていた。


「今日の君は……」


 声が、わずかに掠れる。


「今まで見た、どんな景色よりも美しい」


 頬が熱くなった。


「……ありがとうございます」


 それ以上は、うまく言葉にならなかった。


 代わりに手を握り返すと、アルジェンが微笑んだ。


 二人は並んで、祭壇へ向き直った。


 *


 司式者が、二人へ問いかけた。


 喜びのときも、悲しみのときも。


 互いの意思を尊重し、支え合い、共に生きていくことを誓うか。


 アルジェンは、リディアの方へ向き直った。


 かつて、彼の一日は仕事で始まり、仕事で終わっていた。


 領地を守り、民の暮らしを支えること。


 その責務は、今も変わらない。


 けれど、今は帰りを待っている人がいる。


 今日あったことを話したい人がいる。


 何でもない明日を、一緒に楽しみにできる人がいる。


「……リディア」


 彼は、その手を取り直した。


「私は、君と共に生きたい」


 リディアの瞳が潤む。


「嬉しいことは、君と喜びたい。辛いことがあれば、一人で抱えず、共に考えたい」


 アルジェンは静かに続けた。


「君が望むことを聞き、私の願いも伝えて、二人で暮らしを作っていこう」


 彼女の手が、握り返される。


「生涯、君を愛し、大切にすると誓う」


 リディアの頬を涙が伝った。


 けれど、笑っていた。


「……はい」


 彼女は頷いた。


「私も、あなたと共に生きたいです」


 声は少し震えていたが、迷いはなかった。


「あの日、雪の中で私を見つけてくださって、ありがとうございました」


 アルジェンの瞳が揺れる。


「差し伸べてくださった手に支えられて、私も、ここまで歩いてこられました」


 その手を、両手で包み込んだ。


「これからは、私もあなたを支えたい」


 リディアは微笑んだ。


「疲れたときには、傍にいます。迷ったときには、一緒に考えます。私が困ったときも、あなたにお話しします」


 アルジェンは、彼女の言葉を聞いていた。


「嬉しい日も、悲しい日も、あなたを大切にして、共に生きていくと誓います」


 リディアは一度息を整えた。


 そして、まっすぐに彼を見つめる。


「どんな冬が訪れても、今度は二人で春を迎えましょう」


 アルジェンはゆっくりと息を吐いた。


 胸がいっぱいになっていた。


「……ああ。約束しよう」


 *


 司式者が、二人の婚姻の成立を告げた。


 礼拝堂に、祝福の声が広がる。


 アルジェンはベールへ手を伸ばした。


 柔らかな布を持ち上げると、涙を浮かべて微笑むリディアの顔が現れた。


 彼は布でそっと涙を拭い、その頬へ触れた。


 リディアが目を閉じる。


 唇が重なった。


 優しく、確かな口づけだった。


 そのとき、鐘が鳴った。


 高く、澄んだ音が、礼拝堂から春の空へ広がっていく。


 拍手が二人を包んだ。


 マルタは涙を拭いながら笑っていた。


 ギルバートも、静かに手を叩いている。


 アルジェンは顔を離し、リディアを見つめた。


「……愛している」


 小さな声だった。


 彼女は幸せそうに目を細める。


「私も愛しています、アルジェン様」


 それから、少し照れたように囁いた。


「……私の、たった一人の旦那様」


 アルジェンの表情が柔らかく崩れた。


 夫。


 その呼び名が、胸の奥へ染み込んだ。


 目の前の人が、自分の妻になった。


 その喜びを、すぐには言葉にできなかった。


「……ありがとう、リディア」


 ようやく伝える。


「私と生きることを選んでくれて」


 彼女は彼の手を握った。


「こちらこそ」


 涙に滲んだ声で、けれどはっきりと答えた。


「これからも、よろしくお願いいたします」


 アルジェンは微笑んだ。


「ああ。こちらこそ」


 *


 礼拝堂の外には、春の光が溢れていた。


 扉が開くと、花びらが舞い上がった。


「伯爵閣下、おめでとうございます!」


「リディア様、お幸せに!」


 集まった人々の声が重なる。


 リディアは驚いたように目を見開き、それから笑顔になった。


「ありがとうございます!」


 知っている顔が、いくつもあった。


 村で会った人々。工房の職人たち。屋敷へ物資を届ける商人。


 この土地で重ねてきた日々が、祝福の声になって返ってくる。


 アルジェンは、隣の妻を見た。


 人々へ手を振り、笑っている。


 その姿を、ずっと覚えていたいと思った。


 リディアが彼を見上げる。


 二人は、目を合わせて微笑んだ。


「……行こうか」


 アルジェンが言った。


 リディアは頷く。


「はい」


 手を取り合い、祝福の中を歩き始めた。


 *


 春の鐘は、領地の人々にも届いていた。


 工房で手を止めて耳を澄ます者がいる。


 店先から屋敷の方を眺め、笑う者がいる。


 川には雪解け水が流れ、遠くの山には、まだ白い雪が残っていた。


 これからも、季節は巡る。


 忙しい日も、思いどおりにいかない日もあるだろう。


 約束を変えなければならないときには、理由を伝え、次の時間を相談する。


 疲れて帰る夜には、温かな茶を用意する。


 嬉しい知らせがあれば、真っ先に話しに行く。


 そんな日々を、二人はこれから重ねていく。


 雪の雫は、リディアの左手に輝いていた。


 自分の根ざす場所を、あなたと分かち合う。


 初めてその意味を聞いたとき、リディアは、自分にも再びそんな約束ができるのかと思った。


 今、その手はアルジェンの手に重ねられている。


 彼に与えられた居場所で暮らすだけではない。


 自分も、彼が帰ってきたいと思う場所を作っていきたい。


 リディアは握る手へ、少し力を込めた。


 アルジェンが顔を向ける。


「どうした?」


 彼女は微笑んだ。


「これからが、楽しみです」


 彼もまた、心から微笑んだ。


「ああ。私もだ」


 春風が花びらを運んでいく。


 二人は並んで、その先へ歩いた。


 雪解けの誓いは、これからの日々の中で守られていく。


 何度季節が巡っても。


 互いの言葉を聞き、手を差し伸べ、共に春を迎えるために。

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