第十三章 王冠の影に咲く花 後編
リディアは、幼い日の姉を覚えていた。
王宮の庭園が、世界のすべてだった頃。
イネヴィアはいつも、彼女より少し先を歩いていた。背筋は真っ直ぐで、歩みに迷いがなかった。
リディアは、その背中を追いかけるのが好きだった。
いつか、自分もあんなふうになりたい。
いつか、隣に立ってみたい。
追いつけない日があっても、姉がそこにいてくれることが嬉しかった。
――お姉様。
何度、そう呼んだだろう。
その声に、姉は何を感じていたのだろう。
今、尋ねても、すべてが分かるわけではない。
けれど、自分が抱いていた気持ちは、確かだった。
*
エルデンフェルト王宮の聴取室。
リディアは、姉を見つめていた。
イネヴィアは俯き、何も言わなかった。卓上に置かれた扇へ触れる指が、かすかに震えている。
先ほどの言葉が、耳に残っていた。
――私は、何だったのよ。
姉が努力していたことは、知っていた。
早くから勉強に取り組み、夜遅くまで政務に向き合っていたこと。幼い頃から、第一王女として厳しい期待をかけられていたこと。
その一部は、リディアも見てきた。
けれど、姉が何を恐れ、何を失ったと感じていたのかは、知らなかった。
いつも堂々としている姿を見て、強い人なのだと思っていた。
「……お姉様」
リディアは、静かに口を開いた。
「私は、お姉様が努力なさっていた姿を、ずっと見ていました」
イネヴィアは顔を上げなかった。
「夜遅くまで書斎の灯りがついていたことも、翌朝には何事もなかったように、朝食の席へいらしたことも」
扉の隙間から見た、机に向かう背中。
難しい書類を読み、ためらわずに意見を述べる姿。
リディアは、そんな姉を誇らしく思っていた。
「お姉様の背中を、ずっと追いかけていたんです」
姉の指先が動いた。
「いつか隣に立てるようになりたくて。私にもできることが増えたら、お姉様が背負っていらっしゃるものを、少しは分けていただけると思っていました」
その願いが、姉にはどのように見えていたのか。
初めて知った言葉を思い返すと、胸が痛んだ。
それでも、自分の気持ちまで、なかったことにはしたくなかった。
「だから、これだけは伝えたかったんです」
涙が一粒、頬を伝う。
リディアは震える唇を開いた。
「……私は、お姉様が大好きでした」
静かな室内に、その言葉が響いた。
イネヴィアが、ゆっくりと顔を上げた。
紫がかった灰色の瞳が、リディアを見つめている。
「今でも、あの頃の思い出を、大切に思っています」
昔のように戻れると、言いたいのではなかった。
ただ、確かにあった愛情を、嘘にしたくなかった。
「だからこそ、悲しかった」
声が震える。
「お姉様と、こんな形で向き合うことになるなんて……」
イネヴィアの唇が開いた。
けれど、言葉は出なかった。
リディアは、目元を押さえた。それから、もう一度姉を見る。
「私が受けたことを、なかったことにはできません」
アルジェンの手が、隣にあった。
その温もりを感じながら、続ける。
「言葉を聞いていただけないまま、身の危険から祖国を逃れました。信じていた人々に背を向けられ、雪の中で命を落としかけました」
胸の奥に、冷たい記憶が蘇った。
それでも、今は言葉にできた。
「お姉様が苦しんでいらしたことを知っても、虚偽の資料で私を追い詰めたことが、正しかったとは思えません」
姉は動かなかった。
「その経緯については、これからも確かめていただきたいと思っています」
リディアは一度息を整えた。
「それでも、妹として抱いていた気持ちは、知っていてほしかったんです」
イネヴィアの視線を受けたまま、彼女は小さく頭を下げた。
かつて憧れた姉へ。
そして、傷つけられた自分自身へも、嘘をつかないために。
*
リディアは、顔を上げた。
「……伝えたかったことは、以上です」
専門官が頷いた。
「少し、休憩を取りましょう」
それから、両国の立会人へ確認する。
「お二人には、ここで一度退席いただきます。必要な追加の確認があれば、改めてお願いすることになります」
リディアは頷いた。
アルジェンも、担当者へ短く応じる。
姉への説明の要請が、これで終わるわけではない。
資料の内容と指示の経緯については、引き続き確認が必要だった。
けれど、リディアが今、伝えたかった言葉は伝えられた。
アルジェンが、彼女へ顔を向けた。
「立てるか」
「……はい」
差し出された手を取り、リディアは椅子から立ち上がった。
足には力が入りにくかったが、彼が歩みを合わせてくれる。
二人が扉へ向かおうとした、そのときだった。
「……何を、言っているの……」
背後から、掠れた声が聞こえた。
リディアの足が止まる。
「なんで、そんなこと……言うのよ……」
イネヴィアの声だった。
「私は、あなたを……」
言葉が途切れた。
リディアは振り返りかけ、動けなくなった。
姉が何を言おうとしているのか、聞きたい。
けれど、聞くのが怖かった。
「……憎んでいたのよ」
低い声が、室内に落ちた。
「あなたさえいなければと、何度も思った……」
リディアは目を閉じた。
握っていたアルジェンの手へ、力がこもる。
「なのに……どうして……」
イネヴィアの声が崩れた。
「どうして、そんなふうに……私を好きだったなんて、言えるのよ……!」
椅子が床を擦る音がした。
振り向くと、立ち上がりかけた姉が、膝を折っていた。
ルミエラ側の立会人が駆け寄り、肩を支える。卓上から落ちた扇が、乾いた音を立てた。
「殿下、こちらへ」
専門官が付き添いを呼び、聴取の中断を告げた。
イネヴィアは支えられて椅子へ戻ったが、両手で顔を覆ったままだった。
「……リディア……」
名前を呼ぶ声が、涙に滲んでいた。
姉が、あのように泣くところを、リディアは初めて見た。
幼い頃も、王宮で共に過ごした日々も。
姉は、いつも凛としていた。
その姉が今、自分の名前を呼びながら泣いている。
駆け寄りたいと思った。
手を取り、何か言ってあげたい。
その気持ちは、嘘ではなかった。
けれど、今、自分にそれができるかは分からなかった。
リディアは、姉の傍に付き添いがいることを確かめた。
専門官も、容体を見ながら、落ち着ける場所へ移る準備をしている。
自分が抱きしめなければ、姉が一人になるわけではない。
「……お姉様」
声は、ほとんど息のようだった。
これ以上何かを伝えようとしても、涙しか出てこなかった。
アルジェンが、隣で待っている。
リディアは彼の手を握り直した。
今は、離れたかった。
その選択を、自分に許したかった。
専門官へ一礼し、彼女は扉へ向かった。
姉の泣き声を、すぐに忘れることはできないだろう。
それでも、震える足で、一歩ずつ歩いた。
*
回廊へ出ると、春の光が差し込んでいた。
リディアは数歩進んだところで立ち止まった。
張り詰めていた息が、震えに変わる。
「……っ……」
アルジェンが腕を添えた。
「近くの部屋へ行こう」
護衛が先に確認した控えの間へ入り、扉が閉じる。
その途端、リディアは彼の胸へ顔を埋めた。
「アルジェン様……私、これでよかったのでしょうか……」
彼の手が背中へ重なる。
「君は、自分の気持ちを伝えた」
声は穏やかだった。
「そして、今はこれ以上そこにいられないと、自分で選んだ。無理をして残る必要はなかった」
リディアは彼の服を握りしめた。
「お姉様が、あんなふうに泣くところ……初めて見ました」
「ああ」
「本当は、抱きしめてあげたかった……」
涙で声が詰まる。
「でも、近づくのが怖かったんです。まだ、悲しくて……怒ってもいて……」
アルジェンは、ゆっくりと髪を撫でた。
「どれか一つに決めなくていい」
リディアが顔を上げる。
「愛していた気持ちも、怒りも、悲しみもあるのだろう。今すぐ整理できなくても、構わない」
彼女は唇を震わせた。
「姉上を気遣うことと、君自身を守ることは、両方あっていい」
その言葉を聞いて、リディアは目を閉じた。
姉を愛していた。
抱きしめたいと思った。
けれど、されたことは悲しく、許せない気持ちもある。
どれかを消さなければ、前へ進めないわけではないのだ。
「……ありがとうございます」
彼の胸へ頬を寄せる。
アルジェンは何も急かさず、抱きしめてくれた。
しばらくして、リディアは小さく息を吐いた。
「今日は、もう……何も考えたくありません」
「分かった」
彼は頷いた。
「必要な連絡は、私が受けておく。君に確認が要ることは、休んでから伝える」
「……はい」
リディアは、その腕の中で目を閉じた。
今は、姉の未来も、祖国の判断も、自分一人で背負わなくてよかった。
*
その後、必要な説明と実務上の確認が続けられた。
通商審査については、対象となる記録の照合と、追加要求の根拠を確認する作業が進んだ。
リディアへの告発についても、イネヴィアの説明、オスカーの供述、提出された文書を突き合わせる必要があった。
リディアは求められた事項に答え、自分が確認できる記録を整理した。
残る照会は、正式な窓口を通してヴォルフェルトへ届けられることになった。
帰路についたのは、それらの確認を済ませた数日後だった。
*
馬車を待つ王宮の前庭で、春の風が頬を撫でた。
木々には若葉が広がっている。
リディアは、王宮を一度だけ振り返った。
ここで交わした言葉は、すぐには思い出に変わらないだろう。
それでも、今は帰りたい場所があった。
「……帰ろう、リディア」
アルジェンが隣で言った。
「私たちのヴォルフェルトへ」
その名を聞くと、胸の奥に温かなものが広がった。
初めて聞いたときは、見知らぬ北国の領地だった。
寒く、雪深く、自分がそこで生きていけるのかも分からなかった。
今は、屋敷の窓辺が思い浮かぶ。
暖炉の火。マルタの焼く蜂蜜と木の実のお菓子。ギルバートの軽口。
そして、仕事を終えて帰ってくるアルジェンの足音。
それらが、自分の日常になっていた。
「……はい」
リディアは彼の手を握り返した。
「帰りましょう、アルジェン様」
少しだけ、笑みが浮かぶ。
「私たちのお家へ」
アルジェンの表情が柔らかくなった。
「ああ」
彼の手を借り、リディアは馬車へ乗り込んだ。
*
ヴォルフェルトへ戻ってからも、調査は続いた。
追加の照会が届き、記録に関する質問へ答える日もあった。
リディアは日々の仕事へ戻りながら、結果を待った。
姉との会話を思い出して、眠れない夜もある。
けれど、そのたびに、一人で抱え込む必要はないのだと確かめることができた。
やがて、数週間後。
第三者の立ち会いで行われた調査の報告が、正式にまとめられた。
オスカーの供述。王宮で発行された指示書。改変前の会談報告と、告発に使われた資料。財務記録と、当時の受付・承認記録。
エドガーが示した記録の所在も、正式な照会と閲覧によって確かめられた。
それらを照合した結果、告発資料には意図的な改変と、事実に基づかない関連づけがあることが確認された。
リディアが機密情報を提供したとする主張を、提出された資料は裏付けていなかった。
報告は、ルミエラ王国の正式な審査へ送られた。
その後、王宮から通知が発行された。
リディアに向けられた機密漏洩の告発を撤回し、その嫌疑に根拠がなかったことを公表するという決定だった。
関係者の責任については、引き続き所定の手続きで審理される。
すべての問題が終わったわけではない。
それでも、リディアが背負わされていた偽りの嫌疑は、正式に取り除かれた。
*
ヴォルフェルト伯爵邸の執務室。
春の陽光が、窓から差し込んでいた。
リディアは、届いた通知を見つめていた。
自分の名前。
告発の撤回。
嫌疑に根拠がなかったという、正式な決定。
何度読んでも、まだ夢のようだった。
「……アルジェン様」
彼が書類から顔を上げる。
「認められたのですね」
リディアの声が震えた。
「私が、していないと言い続けていたことが……」
アルジェンは立ち上がり、傍へ来た。
「ああ」
彼も通知へ目を向ける。
「君への告発は、正式に撤回された」
リディアは紙を胸に抱いた。
驚くほど軽かった。
けれど、その言葉を受け取るまでに、どれほど多くの人が力を貸してくれただろう。
涙が頬を伝った。
「もう……あの嫌疑を恐れて、身を隠していなくてもいいのですね」
「ああ」
アルジェンの腕が肩へ重なる。
「今後、必要な手続きはあるだろう。だが、君が偽りの告発から逃げ続ける必要はなくなった」
リディアは顔を上げた。
「これからは、君が望む暮らしを選んでほしい」
彼の声は温かかった。
リディアは左手へ目を落とした。
淡い氷青色の宝石。
春の庭園で贈られた、雪の雫。
身分を明かす前から、彼は共に生きたいと言ってくれた。過去を打ち明けても、その想いは変わらなかった。
そして今も、彼は隣にいる。
「私の望む場所は、もう決まっています」
リディアは微笑んだ。
「あなたのお隣です。これからも、ずっと」
アルジェンは、しばらく彼女を見つめていた。
それから、ゆっくりと息を吐く。
「……ならば、私も改めて伝えたい」
彼はその手を取った。
「春の庭園で誓った気持ちは、今も変わらない」
灰青色の瞳が、まっすぐに彼女へ向けられる。
「私の妻として、これからの人生を共に歩んでほしい」
リディアの頬が温かくなった。
「もちろんです」
握った手へ力を込める。
「私も、あのときと同じ気持ちです」
アルジェンが抱き寄せた。
リディアは通知を傷めないよう脇の卓へ置き、自分から彼の背中へ腕を回した。
窓の外では、雪解け水が庭の端を流れていた。
*
その日の夕刻、伯爵邸の食堂で、ささやかな祝宴が開かれた。
卓には焼きたてのパンと、春の食材を使った温かな料理が並んでいる。
蜂蜜と木の実のお菓子も、いつもより多く用意されていた。
「リディア様、本当におめでとうございます!」
マルタが嬉しそうに言った。
リディアは微笑み、頭を下げる。
「ありがとうございます。皆様に支えていただいたおかげです」
「今日は、そのお祝いですからね。どうぞ、たくさん召し上がってください」
皿へ載せられたお菓子に、リディアの笑みが深くなった。
ギルバートも杯を手に取る。
「ようやく、名誉回復の知らせを皆で祝えますね」
彼は感慨深げに頷いたあと、アルジェンを見た。
「となれば、次はいよいよ結婚式の準備でしょうか」
リディアの頬が赤くなる。
「……ギルバート」
「何もおかしなことは申し上げていませんよ」
にこやかに返され、アルジェンは息を吐いた。
マルタが大きく頷く。
「リディア様の花嫁姿、楽しみですねえ」
「……もう、皆様……」
リディアは困ったように笑い、隣へ視線を向けた。
アルジェンの口元にも、笑みがあった。
それを見たギルバートが、満足そうに杯を掲げる。
「では、改めまして。リディア様の名誉回復と、お二人のこれからの幸せを祝して」
祝福の声が、食堂に響いた。
リディアはアルジェンを見上げた。
彼もまた、こちらを見ている。
ここに帰ってきてよかった。
皆と同じ卓につき、こうして笑えることが嬉しかった。
リディアは杯を持ち直し、祝福へ微笑みを返した。
*
その夜、リディアは窓辺に立っていた。
屋敷の庭では花が開き、遠くの山には、まだ雪が残っている。
左手を持ち上げると、雪の雫が月明かりを受けて輝いた。
祖国を逃れたときは、すべてを失ったと思った。
家族との日々。信じていた婚約者。思い描いていた未来。
その痛みは、正式な通知を受け取っただけで消えるものではない。
姉の泣き声も、今なお耳に残っている。
これから姉と、どのような関係を持てるのか。
今は、決められなかった。
けれど、自分が伝えた想いは、確かだった。
大好きだった。
そして、傷つけられた。
その両方を抱えたままでも、自分の暮らしを大切にしてよいのだと思えた。
「……アルジェン様」
小さく呟いたとき、背後から声がした。
「呼んだか」
振り返ると、彼が立っていた。
リディアは思わず笑う。
「ふふ……ちょうど、あなたのことを考えておりました」
「どのようなことを?」
彼が窓辺へ来る。
リディアは手を差し出した。
「出会えて、本当によかったと」
アルジェンがその手を取った。
「私もだ」
指輪へ触れる指先が、温かい。
彼は窓の外を見てから、リディアへ顔を向けた。
「もう少し暖かくなったら、君と見たい景色がある」
「景色、ですか?」
「ああ。領地の南にある丘だ。花が咲き揃う頃には、見渡す限り、柔らかな色になる」
リディアは嬉しそうに目を細めた。
「素敵ですわね」
「今年は、君と見たい」
「ぜひ、ご一緒させてくださいませ」
アルジェンは頷き、彼女の額へ口づけた。
リディアはその腕へ寄り添う。
これから先にも、考えなければならないことはある。
結婚の準備も、領地の仕事も。祖国から届く連絡を受け、過去と向き合う日もあるだろう。
それでも、花を見に行く約束をしてよかった。
新しい季節を、楽しみに待ってよかった。
リディアは窓の外へ目を向けた。
――お姉様。
私は、幸せになりたいと思っています。
あなたに認めてもらうためでも、何かを思い知らせるためでもなく。
私自身が望む暮らしを、この人と共に生きていくために。
その気持ちを、今夜は心の中に留めた。
隣の温もりへ、そっと身を寄せる。
アルジェンが、彼女の手を握り直した。
重ねた手の中で、リディアの指輪が淡く輝いていた。
春の庭園で交わした誓いは、今もそこにある。
二人がこれから歩いていく日々の中に。




