第十三章 王冠の影に咲く花 前編
扉が開いた瞬間、リディアは祖国の王宮を思い出した。
磨き上げられた大理石の床。高い天井。窓から差し込む明るい陽射し。
そして、自分へ向けられた姉の眼差し。
けれど、ここはルミエラ王宮ではない。
エルデンフェルト王宮の聴取室だった。
両国の正式な窓口を通して調整され、第三者の立ち会いのもと、告発に関する説明を受けるために設けられた席である。
卓上には、確認する事項をまとめた紙と、提出された資料が並んでいた。
専門官と記録官、両国の立会人。
リディアの隣には、アルジェンが座っている。
扉から入ってきたイネヴィア・パピリアは、室内をゆっくりと見渡した。
紫がかった灰色の瞳。乱れのない髪。背筋を伸ばした立ち姿。
リディアが長く憧れていた第一王女の姿が、そこにあった。
「……お姉様」
リディアは小さく息を吸った。
「お待ちしておりました」
イネヴィアは彼女を見つめ、いつもの微笑みを浮かべた。
「……今日は、随分と改まった席なのね」
昨夜までの夜会とは違う。
楽団の音も、祝杯もない。
姉の声が、静かな室内によく響いた。
リディアは一礼した。
隣で、アルジェンの手が彼女の手へ触れる。指先を重ねると、温もりが伝わった。
胸の痛みは消えなかった。
それでも、息を整えることはできた。
*
イネヴィアが席に着くと、専門官が確認の目的と進め方を説明した。
告発資料の作成経緯。通常の確認を待たずに受け付けられた理由。そして、提出された指示書の内容。
それぞれについて、説明を受けることが今日の目的だった。
「私は、その要請に応じて参りました」
イネヴィアは答えた。
「ですが、最初から罪人として扱われるのであれば、抗議せざるを得ませんわ」
「本日は、確認された資料と供述について、ご説明を伺います」
専門官の声は落ち着いていた。
「資料への異議や、補足する記録がございましたら、お申し出ください。ご説明も含めて記録し、必要な照合を行います」
イネヴィアは頷いた。
専門官が、二つの文書を卓上へ示す。
「こちらは、告発資料の作成に関する指示書です。財務行政局長オスカー・ライゼンベルクが保管していたものが、正式な手続きで提出されました」
イネヴィアの視線が、紙へ落ちた。
「当時の発行簿と受領記録、署名と印章についての照合結果は、お渡しした資料に記載しています」
続いて、もう一方の文書が示された。
「こちらは、通常の確認を待たずに書類を受け付けるための特別指示です。本日は、この二つを分けて確認します」
専門官は、最初の指示書をイネヴィアの前へ置いた。
「まず、この署名と、文書の発行について、お認めになりますか」
イネヴィアは紙を読んだ。
しばらくして、顔を上げる。
「……確かに、私の署名ですわ。この文書を出したことも、否定いたしません」
リディアの指先に力がこもった。
姉は署名を認めた。
けれど、それだけで、まだすべてが説明されたわけではない。
「では、発行した目的をお聞かせください」
「当時、ルミエラでは財政と外交機密の管理に懸念がございました。私は王族として、必要な資料を整え、疑惑を調べるよう命じたのです」
イネヴィアの声は淀まなかった。
「書類の受付を急がせたのも、そのためです。もしライゼンベルク卿が権限を悪用し、虚偽の資料を作ったのであれば、その行為は彼自身が説明すべきでしょう」
リディアは、姉の言葉を聞いていた。
署名は認める。
けれど、虚偽の資料を作らせたことは認めない。
姉がどの部分を事実として述べ、何を否定しているのか。慎重に聞かなければならなかった。
*
「では、この箇所について伺います」
専門官が指示書の一節を示した。
「会談報告の内容を変更し、財務記録と合わせて、背信を示す資料として整えるよう求めています。これは、どのような意図で記されたものですか」
イネヴィアの微笑みが薄くなった。
「記録には、不十分な点がありました。個々の書類だけでは見えない関係を、整理する必要があったのです」
「どの記録に、どのような不十分さがあったのでしょうか」
「現場の報告だけで、国家全体の危険を判断することはできません」
専門官は、改変前の会談報告と、告発に使われた資料を並べた。
「こちらの報告では、交易に関する協議として記録されています。一方、告発資料には、機密情報の提供を約束したと読める記載があります」
イネヴィアは紙を見つめていた。
「変更後の記載を裏付ける情報は、当時、何によって得られたのでしょうか」
短い沈黙が落ちる。
「担当部署から、懸念があると報告を受けました」
「その報告を確認できる記録は、ありますか」
「今、この場には持ち合わせておりません」
「では、所在と報告者について、後ほど具体的にお聞かせください」
記録官の羽ペンが動いた。
専門官は財務記録へ話を移した。
「こちらの支払いは、別の交易に関するものとして確認されています。告発資料では、情報提供への対価として説明されていました。その関連を示す根拠についても、確認が必要です」
イネヴィアはゆっくりと息を吐いた。
「私は、疑惑を調べるために必要な指示を出しました。細部の処理まで、すべて自分の手で行ったわけではございません」
「その点も区別して伺います。ご自身が把握していた内容と、担当者へ委ねた事項をお聞かせください」
姉の指が、閉じた扇の柄へ触れた。
リディアは、その小さな動きを見ていた。
表情だけでは、何も決められない。
けれど、姉が簡単に答えようとしていないことは感じられた。
*
「……リディア」
イネヴィアが妹を呼んだ。
専門官へ答えていたときとは、少し違う響きだった。
幼い頃、庭園で名前を呼ばれたときの声に似ていた。
リディアは顔を上げる。
「あなたには、分からないでしょうね」
イネヴィアは彼女を見つめた。
「国を守るために、時として非情な決断を迫られる者の苦悩など」
胸の奥が痛んだ。
姉は、自分より多くのことを知っている。重い責任を背負っている。
リディアは、ずっとそう思っていた。
だから、分からないと言われるたびに、自分の知識が足りないのだと考えた。
けれど、今はその言葉だけで問いを終えたくなかった。
リディアは専門官へ視線を向けた。
「私から、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
彼女は姉へ向き直った。
「お姉様は、告発資料が作られたあと、その内容をご覧になりましたか」
イネヴィアの瞳が動いた。
「……報告は受けました」
「私が機密情報の提供を約束したと記されていることも、ご存じだったのですね」
「そのような疑いがあると聞いていた、ということですわ」
「私に、その事実をお確かめになろうとは思われなかったのでしょうか」
イネヴィアの唇が引き結ばれた。
「本人へ先に知らせれば、調査を妨げる恐れもあります」
「では、告発を受けたあと、私が否定した言葉については……」
リディアの声が、少し震えた。
「どのように、お受け止めになったのですか」
姉はすぐには答えなかった。
リディアは待った。
膝の上で握っていた手へ、アルジェンの指が重なる。
顔を向けると、彼は何も言わずに見つめ返した。
続けてもいい。休んでもいい。
選ぶのを待ってくれている。
リディアは息を吸い、再び姉を見た。
「私は、話を聞いていただきたかったのです。資料と照らして、確かめていただきたかった」
「……私は、王国のために最善を尽くしました」
イネヴィアの声は硬かった。
その答えを聞いて、リディアは目を伏せた。
王国のため。
自分も大切にしてきた言葉だった。
けれど、それだけでは、なぜ自分の言葉が聞かれなかったのか分からない。
*
専門官は、告発後の対応について質問を続けた。
誰へ調査を命じたのか。リディアからの説明を記録した者はいたのか。本人が祖国を離れたと知ったのは、いつだったのか。
イネヴィアは、答えられる事項には答えた。
記録の確認が必要だと述べる箇所もあった。
その中で、リディアが逃亡先で保護された経緯について、アルジェンにも確認が求められた。
彼は発見時の様子を簡潔に述べた。
「雪原で倒れていました。身体はひどく冷えており、医師の診察と、安静が必要な状態でした」
リディアは手元へ目を落とした。
目覚めた部屋の暖炉と、初めて聞いた彼の声が思い出された。
専門官がイネヴィアへ向き直る。
「国外へ逃れたことによる危険について、当時、どこまで把握されていましたか」
「行き先は、分かっていませんでした」
「身の安全を確認するための措置は、取られましたか」
「関係する部署へ、所在の確認を命じています」
その命令の内容と記録についても、確認する事項に加えられた。
アルジェンは、それ以上の言葉を重ねなかった。
姉の意図を、自分の怒りで決めることはできない。
リディアは、隣にある手を握り返した。
*
資料についての確認が一区切りしたところで、リディアは再び発言を求めた。
「私の提案への懸念について、伺いたいことがあります」
専門官が頷く。
「指示を出された背景に関することとして、お尋ねください」
リディアは座ったまま、姉へ顔を向けた。
「私の改革案に問題があったのなら、なぜ直接、仰ってくださらなかったのですか」
イネヴィアが眉を寄せる。
「反対する意見は、何度も伝えられていたでしょう」
「はい。部署の方々から、懸念も伺いました。私の説明が足りなかったところも、あったと思います」
リディアは言葉を区切った。
「ですが、お姉様ご自身が、私を政務から遠ざけなければならないほど危険だとお考えだったのでしたら……その理由を、聞かせていただきたかった」
胸の奥が痛む。
「お姉様のお考えを、私は知りたかったのです」
イネヴィアは、じっと妹を見つめていた。
「あなたは、話せば理解し合えると思っているのね」
「すべてが解決するとは思いません」
リディアは答えた。
「それでも、話す機会は欲しかった」
姉の顔を見ているうちに、用意していた問いとは別の言葉が浮かんだ。
口にしてよいのか、迷った。
けれど、聞かないままでは、いつまでも胸に残ると思った。
「……お姉様にとって、私は、そんなにも邪魔な存在だったのでしょうか」
声が小さくなる。
イネヴィアの表情が強張った。
「私は、ただ、お姉様と一緒にルミエラを良くしていきたかったのです」
琥珀色の瞳に、涙が滲む。
幼い頃、難しい本を読んでいる姉の隣へ座り、分からない言葉を尋ねた。
政務を終えた姉を庭園で待ち、一緒にお茶を飲んだ。
いつか、自分も役に立てるようになりたい。
そう願っていた。
「私がしていたことは、お姉様には、どのように見えていたのでしょうか」
イネヴィアは答えなかった。
リディアは唇を噛み、もう一度開いた。
「私は……あなたの妹では、なかったのですか」
涙が一粒、頬を伝った。
*
イネヴィアの唇が動いた。
けれど、言葉にはならなかった。
リディアは返答を急かさなかった。
ただ、姉を見つめていた。
やがて、低い声が漏れた。
「……あなたに、何が分かるというの」
その響きに、リディアは息を呑んだ。
イネヴィアは扇を卓上へ置いた。
「私は、第一王女として、誰よりも努力してきたのよ」
声が震えていた。
「礼儀も、学問も、政務も。一度だって、手を抜かなかった」
ゆっくりと顔が上がる。
紫がかった灰色の瞳が、まっすぐに妹へ向けられた。
「父上の期待に応えようと、必死だった。失敗など許されなかった。迷っているところを見せることも、弱音を吐くことも……」
リディアは何も言えなかった。
姉が重い責任を背負っていることは、知っているつもりだった。
けれど、その責任をどのように感じていたのか、これまで聞いたことはなかった。
「それなのに、皆……」
イネヴィアが苦しげに笑う。
「あなたばかり、見ていた」
声が強くなった。
「リディア殿下は素晴らしい。リディア殿下の考えは新しい。王国の未来を変えてくださると……!」
彼女の指が、卓上で握りしめられた。
「私が積み重ねてきたものは、何だったのよ」
リディアの胸が締めつけられる。
「私は……何のために、あれほど……」
イネヴィアは言葉を止めた。
室内に、静寂が戻った。
*
「少し、休憩を取りますか」
専門官が穏やかに尋ねた。
イネヴィアは周囲を見た。
記録官。立会人。そして、妹の隣に座るアルジェン。
ゆっくりと背筋を伸ばす。
「……失礼いたしました。休憩は、必要ございません」
呼吸を整え、扇へ手を伸ばした。
「今の発言は、資料の作成経緯とは関係ありません」
「発言は記録します。ただし、その内容が資料の作成とどのように関わるかは、他の説明や記録と分けて確認します」
専門官の返答に、イネヴィアは黙って頷いた。
リディアは、姉を見つめていた。
自分と比較されることに、姉は苦しんでいた。
初めて、そのことを本人の言葉で知った。
それが指示を出した理由なのか、告発にどのようにつながったのかは、まだ分からない。
それでも、姉が何も感じずに政務をこなしていたわけではなかったことは、分かった。
完璧に見えた横顔の奥に、自分の知らない苦しみがあった。
「……お姉様」
リディアが呼ぶと、イネヴィアは目を伏せた。
胸が痛かった。
その苦しみを、もっと早く聞けていたらと思った。
けれど、知らなかったことを理由に、自分に起きたことまで消すことはできない。
告発の資料は書き換えられた。
言葉は聞き入れられず、祖国を逃れなければならなかった。
雪原で力尽き、命を失いかけた。
姉の苦しみを知ったことと、されたことを受け入れられるかどうかは、別だった。
リディアは目元を押さえ、息を整えた。
専門官が、資料へ視線を戻す。
「続ける前に、補足されることはありますか」
イネヴィアは首を振った。
リディアは、少し迷ってから手を上げた。
「一つだけ、伝えたいことがございます」
専門官は彼女を見た。
「今のお話を受けて、お姉様に伝えておきたいのです。指示の内容についての質問とは、別になりますが……」
専門官はイネヴィアへ確認した。
「お聞きになりますか」
姉の視線が戻ってきた。
短い沈黙のあと、彼女は頷いた。
リディアは胸元へ手を置いた。
「私は……」
言葉が喉の奥で止まる。
今の姉に、届くのだろうか。
受け取ってもらえないかもしれない。
それでも、伝えないまま終わりたくはなかった。
「私は、お姉様のことを……」
隣で、アルジェンの手が彼女の手を包んだ。
何も言わず、続きを待ってくれている。
リディアは、その温もりを確かめた。
そして、静かに息を吸い、姉をまっすぐに見つめた。
今度は、提案をする王女としてではない。
妹として、ずっと抱いていた気持ちを伝えるために。




